第5話.感謝

 この一ヶ月、僕は何かと忙しく過ごしていた。


 授業やバイトはもちろん、教授の手伝いで調査やデータの整理をさせられたり、頻繁に中田に呼び出されては、都内の古書店巡りで色んなところに引っ張り回された。


 そして、あの約束からちょうど一ヶ月、クリスマスを数日後に控えた日。


 ――文奈あやなから連絡はなかった。


 日付を勘違いしているわけではないだろう。一ヶ月前、彼女は「この日だよね」と言って、カレンダーを見せながら何度も僕に確認していた。


 きっと彼女は彼女なりに結論を出した、これで僕たちは終わり、そう思っていたところに、何故か二日後にメッセージが届いた。


◇◇◇◇


 連絡がきた夕方、直接話がしたいという彼女のリクエストで、僕は彼女のアパートがある駅の近くのファミレスに来ている。十五分前はさすがに早過ぎたようで、彼女はまだいなかった。


 夕飯時にはまだ早いので店内はかなり空いている。僕は案内された席に着くとドリンクバーを頼んだ。コーヒーを淹れて席に戻ると読みかけの本を開く。こういう時、読書が趣味だと助かる。


 最初に淹れてきたコーヒーを飲み終えた頃、待ち合わせ時間を少し過ぎた時間に慌ただしく一人の女性が店内に入ってきた。


 彼女は店員に声をかけると、入口から店内をキョロキョロと見渡している。そして、僕の方を見ながら軽い足取りで近づいてきた。


「やっまと!」


 微笑みながらヤッホーといった感じで小さく手を振っている。その姿は、以前の地味で大人しい文奈ではない。


 きちっと束ねられていた黒髪はボリュームのあるふるゆわな茶髪になり、コンタクトにしたようで飾り気のない眼鏡は外されていた。また、以前はほどんどしていなかったメイクをバッチリしていて、綺麗に整えられた眉や鮮やかな朱色の口紅が目を引いた。開けたのだろうか、耳にはピアスが光る。野暮ったかった服装も、明るい上品なものに変わっていた。


 ギャルではなく、ちょっときれい目な女子大生という感じだ。


 もし名前を呼ばれなかったら、文奈だと認識できなかったかもしれない。正直、かなり驚いたし、逆にあまりの変化にちょっと笑いそうになった。


 彼女はさっと僕の向かいに座った。


「久しぶりね」


 呼び出しておいて遅れてきたことを悪びれる様子もなくニコリと微笑む。当たり前だけど、その顔はよく見ると文奈。なんとなく声のトーンも明るくなった気がする。以前は抑揚の少ない喋り方だった。


「文奈も久しぶり。えっと……、すごく雰囲気が変わったね」


「ん? そう?」


 髪をかき上げながら彼女は応えた。その顔は自信に満ちている。


「で、話ってなに?」


 そう尋ねると、彼女は不敵な笑みを浮かべた。


「うん。もしね、待ってたら悪いなぁって思って」


 僕は首をかしげる。


「えーっと、どういうこと?」


「私ね、今好きな人がいるの。ヒロくんって言うんだけど、同い年で背が高くてカッコ良くて。それにね、――」


 彼女は興奮気味に、ご自慢のヒロくんを長々と説明し始めた。彼女の話を簡単にまとめると、とにかくイケメンで頭が良く優しいらしい。


「――でまぁ、それなんで、もう大和には連絡する気はなかったんだけど、ほら、それでも一応元カレじゃない。いつまでも私のことを待っていたら可哀想かなぁと思って連絡してあげたの。まぁ、ちょっと忘れていたから今日になっちゃったけどね」


 ドジな私、といった感じでテヘっとはにかんだ。


「そ、そうなんだ。えっと、それは感謝すべき……、なのかな?」


「そうでしょ? 感謝してよ。だって私が連絡してあげなかったら、大和はずっと私からの連絡を待っていたじゃない。モテない大和としては、それで時間を無駄にしてたら困るでしょ? それに私だって寝覚めが悪いし」


「……そう。あのさ、もしかして、その人ともう付き合ってるの?」


「フフッ、気になる?」


 ニヤリとすると、目を輝かせながら両肘を突いて身を乗り出しできた。


「うーん、まだちゃんとは告白されていないけど、今度ね、クリスマスに一緒に過ごそうって誘われてて。きっとその時にかなぁって感じ」


 彼女は幸せそうに目を細めている。


 素敵なレストランでなのか、イルミネーションを眺めながらなのか、ホテルで夜景を見ながらなのかは分からないけど、きっとそういうシチュエーションを想像しているのだろう。


「そっか……」


 僕は彼女が言った、『まだ』という言葉にホッとしていた。


「あっ、なにか頼んだ? もし食べたい物があったら注文して。今日は私のおごり!」


「えっと、いいの?」


「うん。なんでもどうぞ」


 余裕の笑みで僕を促す。きっと、彼女なりの罪滅ぼしなのだろう。


 しかし、飯一回のおごりが別れの餞別せんべつだなんて、なんて安い男なんだ僕って。しかもファミレスだし。


「じゃあ、お言葉に甘えて色々頼んじゃおうかな」


「いいよいいよ。どんどん頼んで」


 こうなったら、たくさん食べて一矢報いてやる。僕の食欲を甘く見るなよ!


 そう思い僕はメニューを広げた。


「あっ、ごめんなさい。ちょっとこの後ネイルを予約しているから私はもう行くね。大和はこれでゆっくりしてって」


 彼女は財布の中から躊躇なく一万円札を取り出すと、それをテーブルの上にはらりと落とした。そして立ち上がる。


「じゃあねー」


「……あっ」


 ヒラヒラと手を振ると、僕に挨拶を返す暇も与えず彼女は颯爽さっそうと店を出ていった。


 その姿はまるで、僕というさなぎの期間を経て羽化し、大空に飛び立っていく蝶のようだった。


◇◇◇◇


 僕は彼女が去っていった方向を、空虚な気持ちでしばらくぼーっと眺めていた。


 待っていないでとただ伝えるだけならメッセージで済んだはず。きっと彼女は、綺麗になった自分を僕に見せつけたかったのだろう。彼女を振ろうとした僕への復讐として。


 しかし、浮気された側の僕が、まさか『ざまぁ』されるなんて思ってもみなかった。こんな酷い別れ方、普通の人ならブチ切れていてもおかしくはない。


 でも……、それでも僕は彼女に感謝している。だって、彼女は僕に色々な経験をさせてくれた。


 恋をするドキドキや叶う喜び。絡めた指の細さや唇の柔らかさ。女性の匂いや味、抱きしめた温もりや入れた感触。中で出した気持ち良さと達成感、そして直後に襲ってくる後悔と不安。


 ある時は彼女の優しさや気遣いに癒され、またある時は嫉妬や我儘に頭を悩ませたこともあった。


 彼女の反応に一喜一憂し、他人ひとを笑顔にする喜びを、その笑顔を見る幸せを知り、また、彼女の悩みや痛みを共有した。


 今まで縁のなかったデートスポットとか、お洒落なカフェやレストラン、それにプレゼントをするためアクセサリーやバッグなどのブランドなんかも色々調べた。それらもみな、僕の経験や知識になっている。


 そして……、そして最後に彼女は、恋の終わりの痛みを僕に刻み込んで飛び立っていった。


 きっとこうしてみんなも、出会い、恋をし、付き合い、愛を語らい、いがみ合い、別れていく……。そしてまた、新たに出会い恋をするのだろう。


 豚の生姜焼き、もう一度食べたかったな……。


 僕はスマホを手にし、さっき彼女には伝えられなかった言葉を打った。


大和

『今まで本当にありがとう』

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