第103話 悪神の悪意⑮ 魔手

フェンシェが笑った。

口が裂けたような、ひどく不気味で不吉な笑みだった。

リュウセイに悪寒が走る。

半歩。

槍を構えて半歩踏み出した時、フェンシェの髪が逆立った。


藍鼠色の長髪は、空気をねじ切るように縒れ集まるとまるで鎖のように変化した。

その直後、まるで生き物のように髪が伸びた。


リュウセイは直感のままに身体を反転し、伸びる髪へと槍を突き付ける。


「無駄だ」

嘲笑。

槍はフェンシェに当たった時のように、貫くことは叶わず弾かれた。

髪で編まれた鎖が向かう先は、人形から一度距離を取ったコロポン。


「コロポン!!」

リュウセイが叫ぶ。

「む?」

振り向いたコロポン。

得体は知れないが、危険を察する。

日が落ち、辺りを包んだ闇へとその身体を溶かし込む。


闇へと溶け込み、逃げた――

――はずだった。


「ぐおっ!?」

髪の鎖がコロポンの首に巻きつく。

「コロポン!?」

「ふふっ」

微かな笑い声が妙に響いた。


首を縛られたコロポンはしかし、その爪と牙でもって髪を切り裂く。

しかし、その髪はまるで生き物のように、いや、悪夢のように切れる端から蠢き繋がり、断ち切ることが出来ない。


「異質なる闇の精魔しょうまよ」

先程までの焦燥が消え、余裕を浮かべるフェンシェ。

「うら!!」

リュウセイは穂先を髪からその本体へと切り替え、突進を仕掛ける。

「ぬあっ!?」

しかし、その足元に亀裂が走る。

足を取られなかったのが不思議なほどの機転でその亀裂を飛び避けるが、火の玉が、氷柱が、雷が次々とリュウセイに襲い掛かる。

無表情の人形が、コロポンからリュウセイへとその標的を変えたのだった。


「喜べ」

その声は、暗い愉悦に満ちていた。

「貴様を眷属にしてやろう」

「「――!?」」

主従を駆け巡った嫌悪感。


「アンフェドクルへフェフティ……」

裂ける程に歪めた口から紡がれる言霊。

音は力を持って髪で編まれた鎖を走る。


「ケトゥペティハディレフェ……」

「ぬぐっ!?」

血が糸を伝うように髪の鎖を不吉な力は伝い、コロポンの首元へと届く。


「おい! クソ!」

テイマーの勘がこれから起こり得る未来を察して警鐘を鳴らす。

しかし、殺到する魔法に押されてコロポンとのその僅かな距離すら詰めることが出来ない。


呪文が進むに連れ、いよいよ実体を得た言霊はまるでどす黒く赤い。

括り付けられた髪を通じて、じりじりとぎしぎしとコロポンを蝕む。


「ふぬ! ぬぐ!?」

苦悶の声を上げるコロポン。

髪を切り裂くべく振り回していた爪は、切り裂くではなく、藻掻くために振り回されるようになる。


「くそ! 邪魔だ!」

気は逸るが身体は進まず。

言霊が侵食するに連れ、コロポンとリュウセイの間に赤い糸が浮かび上がる。


この糸はテイマーと使役獣を繋ぐ契約の糸。

それが儚く震える。

『力を伝えねば』。

やるべきことは分かる。

しかし、それが出来ない。


『絆を守らねば』。

やりたいことは分かる。

しかし、それが出来ない。


「……フィドレマンゲギョロス」

満面の笑みで言霊を閉じる。

言霊は血のようにコロポンを巡る。

赤い糸は力尽きたように震えるのを止め――


――赤い閃光となって弾け飛んだ。


「コロポン……」

繋がりが消えた。


「コロポン……」

絞り出すようなリュウセイの声に、しかし、黒犬は応えない。


「眷属よ、新たなる名を授けよう」

その声に首を持ち上げる。

「ゼクトだ」

絶望に顔をゆがめるリュウセイへ当てつけるように新たな名を呼ぶ。

――ガウ――

黒犬が吠える。

その声はもはや聞き取れない。


「さあ、仕置きの時間だ」

糸のように細い目が、狂ったように見開かれた。

――グルウウウ――

黒い犬が唸る。

「……」

人形が構える。


逃げ道すらない。

黒犬が身体を低くする。

見慣れた姿。

ここから飛び掛かってくるのだ。

その不可避の爪を振るい、必殺の牙を突き立てるべく。


人形が腕を振るえば、魔法陣が浮かび上がる。

その全てがリュウセイへ向けられている。


「消え「にゃあああああああ!!」

舌っ足らずな鳴き声とともに白い光が降って来る。


「にゃ!」

短く鳴けば、人形の描いた魔法陣を覆い隠すように全く同じ魔法陣が浮かび――

――結実。

魔法陣の全てが消える。


――ガウゥ――

黒犬の足元から火柱が走る。

掻き消した先から何本も。

身を翻して火柱から離れる。


「にゃあ!」

さらに一鳴き。

首に巻かれた赤いマフラーがするりと脱げる。


くるりと回ると音もなく着地。

「にゃ!」

リュウセイに猫パンチ。

「痛っ!!」

いや、爪を立てて引っ掻いた。


「にゃあにゃがにゃ」

言うべきは一言。


「……そうだな。寝相が悪いにもほどがある。起こしてやらねえとな」

バン!と頬を張る。


「にゃ」

気取ったように鳴けば、くるりと人形へ向き直る。その頭上に巨大な魔法陣が浮かぶ。

地を揺るがす隕石を呼ぶ魔法『アクセラメテオ』。

しかし、マイルズはそれを見上げもしない。

「にゃ」

ただぴかりと光った。

それだけで、全く同じ魔法陣が、一部のずれもなくぴたりと重なり――

――結実。

初めから何も無かったのように魔法陣は消え去った。

「にゃー」

マイルズが珍しく大きく口を開いた。

威嚇のつもりのそれは大きなあくびにしか見えなかったが、その口には小さな牙が、しかし、鋭い牙が見えた。



「仲間が来たか。まあいい。同じことだ」

マイルズの乱入をつまらなそうに横目で見るが、すぐに興味を失くしたようにリュウセイへと視線を移した。

「楽に死ね…なんだこれは?」

恨みを込めるフェンシェの前にヒラヒラと布切れが落ちてくる。

赤い布。マイルズの首に巻かれていた赤いマフラー。

それは超常的にフェンシェの前でピタリと止まる。

「神気?」

『初めまして、ですね』

少女の声が鳴る。


「何者だ……?」

『ええ。ランクセノンと申します』

赤いマフラーがふわりと折れた。


「ランクセノン……思わぬ名ではあるが、その姿では僕は止められまい」

慈愛の神の依り代であれど、所詮は布切れ。

受肉を果たした自分の相手は務まらない。


『ええ』

笑うようにマフラーは揺れる。

『私は貴方を止められませんし、止めるつもりもありません』

ふるりふるりと左右に揺れる。

『でも、頼まれましたから。少しだけ、時間を稼いでくれって……』

しなりと折れた布の端が白猫を指す。

『……なので、ほんの少しの間、お相手しますね。少しで大丈夫そうですから』

「舐めるな!!」

フェンシェの怒気を浴びて赤いマフラーははらりとそよいだ。



リュウセイは槍を構える。

穂先が向くのは巨大な黒犬。

「あんな変態と一緒にいてもつまらんぜ?」

――ガウウッ!!――

闇に溶ける黒い尾が逆立つ。


「お前とじゃれ合うのも、テイムした時以来だな!!」

――グルアアアッ!!――

「帰って来いやあっ!!」

振り回す槍が唸る。


「――キックオフ!!」

リュウセイの槍が破裂するほどの緑光を纏った。


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