第98話 悪神の悪意⑩vsカバに似た蒼い月

――サアーー……――

しめやかに降る雨の正体は、その水滴に触れた者の四肢の動きが封じ、痛覚だけを活性化する上級水魔法『オールフォーユー分かるでしょう?』。


激痛への悲鳴はおろか、呻くことすらできず、藻掻くことはおろか、指先一本動かすことすら許されず、地面に倒れ伏すアルディフォンの一同。

そして、シフォン。

誰もが等しくその閉じることすらできず開かれた目を、恐怖と絶望に染めている。


「マジェリカ……」

その様子には一瞥もくれず、ゴウゴウと背中に怨念を渦巻くように立ち昇らせながらフェンシェはマジェリカの肉体へ駆け寄った。


マジェリカの肉体は切り落とされた右腕を左手で持ちながらも、しかし、無表情。

切断面からは血の一滴も落ちていない。

マジェリカの肉体はやはり人ではなかった。


「大丈夫。すぐに元に戻すからね」

人形へそう語りかける声音はどこまでも甘く、その甘さゆえに狂気に満ちていた。


右腕を受け取り、その手の甲に唇を添える。

その目には涙すら浮かんでいる。


目尻に浮かんだ涙を拭き取り、自身の腰まで伸ばした藍鼠色の髪を数本抜き出す。

更に人差し指の腹を噛みちぎり、血を浮かべる。

何事かをぶつぶつと呟きつつ、その血で切断面をなぞり、右手をあるべき場所へとあてがえば、髪の毛を巻きつけた。


ぼそぼそと呟き続ける言霊は次第に力を帯び、やがて光という実態をもって人形の右腕を包む。

「もう大丈夫。元に戻ったよ」


そう言うと、人形を抱き寄せ、髪を撫で頬を撫でる。

フェンシェの手が、人形の身体を撫でまわす。

人形は表情だけは嬉しそうに、しかし、人形らしい生気のなさでその愛撫を受け入れている。

おどろおどろしいほどの想念が一柱と一体を包みこむその有様は、人の理解を超えていた。


「さて、次は、貴様らだ」

一頻り人形の存在を確かめた後、フェンシェが暗い声で告げる。

「マジェリカの右腕を切り落とした罪は、万死ですら温い」

名残惜し気に、しかしどこまでも優しくマジェリカを放すと、ゆっくりと立ち上がる。


ゆらゆらとオーラとなって見えるほどの怒気を放ちながら、地面に寝転がる大罪人へと向き直る――

「うらああああああ!!!」


――怒声、罵声、悲鳴、吶喊、そのどれとも言えぬ獣じみた大声を張り上げ、青い鎧が飛び出した。


青い鎧は光の軌跡を描きつつ、一歩踏み出すごとに光の粒へと変わるように崩れ落ちていく。

青い鎧の名は『クリアスカイズ』といい、渋るエディ武具屋が夜に悪夢でうなされるほど頼み込んで買い上げた逸品である。

たった一度、鎧の崩壊と引き換えにデバフにレジストすることが出来る。

しかし、『オールフォーユー』は上級魔法。

クリアスカイズと引き換えにしても、その全てを取り払うことは出来ず、手足には鋭い痛みと、ひどい痺れが残っていた。しかし、動くことは出来た。


本来この力を使うときに使おうと思っていた口上は吹き飛んでいた。だから風情も美学も何もない雄たけびを上げるしかできなかった。


そして、もうここが最後だった。

この後に訪れるのは、おそらく死よりもひどい結末。

目の前の、人の姿をした狂気の塊はそれを確信させた。


故に出し惜しみはしなかった。

飛び出したその手に持つのは白い刀身の片手剣。

その刃先に施された装飾には魔力が宿り、複雑な紋様が浮かんでいる。


愛剣の名は『ムーンフェイズ』といい、嫌がるエディが夜逃げを考えるほど頼み込んで買い上げた逸品である。

魔力を流し込むことであらゆるものを貫く切れ味を一度だけ得ることが出来るが、その後は月が欠けるがごとく、折れ砕け散る。


片手剣を構えたまま、体当たりするようにフェンシェへとぶち当たる。

剣先が無防備を晒していたフェンシェへと突き刺さる。


剣を突き立てそのままぶちかます。

心臓を貫けば動きは止まるはずで、たとえ倒せずとも時間が稼げれば何かが起こせる。



――しかし、相手は人ではなかった。

それは人知を超えた怪物。

ただ人の形をしているだけ。


貫くはずの剣先は、弾かれるでも、躱されるでも、折れるでもなくすり抜けた。

「ごヴぇ!?」

そのままレイチェルの身体も空を突き破ったように足がもつれ転げた。

雨で出来た水たまりに頭から突っ込み、べちゃりと倒れた。

鎧は砕け散り、剣は折れる。


「貴様が切り落としたのは右腕だったな?」

レイチェルの渾身の一撃は意にも解されず、ただ告げられた。


そして、足を振り上げると、レイチェルの右肘を躊躇なく踏み折った。

「――――!?」

魔法で活性化された痛覚が尋常ではない痛みを訴え、レイチェルは悲鳴すら上げられずもんどりうった。


そのまま無造作に蹴り転がす。

細めの足のどこにそんな力があるのかと思わせる膂力で蹴られ、あばらから嫌な音が聞こえた。


「まずは謝れ」

冷たい相貌で見下ろす。


「知る――ぐしゃっ――ぐっ!?」

反論すら聞かず顔面を踏みつけられる。


「死にたくなる程度には苦しめるのが先か」

指先からぽとりと水滴が落ちた。


「ぐぼわっ!?」

その雫が触れると、灼熱が広がる。

身体の内側に焼き鏝を突っ込まれたような激痛に身体が跳ねまわる。


のたうち回ること数分、疲れ切ったように倒れ伏すレイチェル。

震える唇を何とか動かす。

「……ありがとよ…いい、気付けになったぜ?」


感情のない目で見下ろす悪神が再び指先を差し向ける。

無意識に息を呑んだ。

今一度あの激痛に襲われれば、死ぬか壊れるか……。

レイチェルが恐怖に引き攣ったのだろう。

フェンシェがわずかに楽し気に笑った気がした。


稼いだ時間は十数分。

鎧も剣も砕け散った。満身創痍の全身は軋むように痛む。

それだけやっても稼げたのは十数分。


しかし、十数分を稼いだ。

「死に土産に教えてやるぜ、人形野郎」

渾身の力で口を開いた。

「いい女を困らせることはあってもよ? いい女を見捨てるようなクズは仲間にしたことねえんだ、俺はよ?」

精一杯の虚勢を張って浮かべたニヒルな笑いはしかし、潰れた顔ではよく分からなかったが――


「ストリーム!!!」


――閃光が走った。

槍を構えた赤い髪の男が、一陣の風となって吹き抜ける。


レイチェルの一撃がすり抜けたその身体は、その槍を受けて吹き飛んだ。

「レイチェルさん!?」

いい男だった。

いや自分には遠く及ばないが。


「来るのが遅えんだよ、色男」

泥と地にまみれ、青ざめた顔でしかし、いや、やはり軽口を叩く。


「てめえにはレディを扱う心得ってヤツをたっぷり叩き込んでやる」

それだけ強がってレイチェルは気を失った。


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