六章

第65話 「そりゃ良かった」

今にも崩れそうな神殿。

ツタは這い登り、苔はむす。

白い壁はひび割れ、天井は抜けている。

床は砂礫に覆われ、かつての威容は欠片もない。


それでもそこは神殿であった。


なぜなら、神がいるから。


少女のような出で立ち。

肩で切り揃えた黒い髪。

あどけなさの残る、白く柔らかな顔立ち。

飾り気のない白いワンピースに身を包み、首元に淡い薄紅色のスカーフを巻いたその姿は、身形で言えば、ただの少女である。

ただ、その両の目は白い帯に覆われている。


それより何より、その雰囲気。


十人が見れば十人ともが、その少女がただの人の子ではないことが分かる、まさしく神々しいその雰囲気。


この神の名を、ランクセノン。

慈愛の神である。


その名に相応しい慈しみを浮かべたまま、その細い右手を前に出した。

それだけ。

たったそれだけで、この神殿が壊れていないのが不思議なほどの圧力が掛かる。


右手が向けられるのは白い猫。

鳴くこともできずその場にひれ伏す。


「おかえりなさい」

愛に満ちた言葉とともに、光が迸る。



☆☆☆



立ち込める湯気。

透明なお湯は肌に張りつくよう。


ここはスラディ山の麓に広がる温泉街の一角。

ペットも同伴できる広い温泉を備えた宿の、自慢の風呂である。


「あぁーー」

くぐもった声はリュウセイの物だ。広い風呂に肩まで浸かり、長い手足を伸ばして、寛いでいる。


肩幅は広く、胸板は厚い。

湯に透けて見える腹筋は六つの深い山を作り、その奥に見える太ももは、岩を削り出したように逞しい。


身体の至る所に傷跡があり、その引き締まった身体に凄みを与えている。

パシャリと顔を湯で洗えば、その雫は顎から首元を伝う。


整った顔に、わずかに生えた無精髭が色気を添えている。



「うむ」

そのリュウセイの横で並んでお湯に入っているのはコロポン。

見た目の大きさに反して、実はほとんど実体を持たないコロポンが、温泉を気持ちいいと思うかは不明である。

ただ、リュウセイの横にいたいだけのように思う。


「あぁーー。温泉はいいですねぇー」

その向かいで年寄臭い感想を漏らしているのはバルディエ。

この梟は、綺麗好きだ。

リュウセイと同じく肩まで浸かり、翼を広げて、だらりと寛いでいる。


「にゃあ」

温泉の縁に置かれたお湯の入った桶に足だけ入れているのはマイルズ。

ちなみにこの「にゃあ」は「気持ちがいい」ではない。


「呑み過ぎるなよ」

そう言うと、リュウセイは桶の隣に置かれた皿の中にとくとくと白く濁った液体を注ぐ。

「にゃあ」

機嫌よく鳴くと、その液体をちろり。

「にゃ」

そして、その横にある川魚の素焼きをちくり。


スラディ山の湯治客に人気の、濁り酒と川魚。

マイルズのお気に入りである。


「ふむ、ヌシ?」

「あ? お前もか?」

そう言うと、リュウセイが魚を一匹コロポンの口へ。

白い歯が黒く戻り、魚が消える。


「うむ。悪くない」

ご満悦だ。

完全に甘えていた。


「そりゃ良かった」

ははっと笑うと、リュウセイもお猪口でくぴり。

独特のクセがあり、これはこれで乙なものだ。


「あぁーー。生き返りますねえ」

ぱちゃぱちゃと水を跳ねるバルディエは何も食べていない。

風呂は風呂だけで楽しむ派だ。



「次なんですけどね?」

「ああ」

「うむ」

「にゃあ」

完全に慰労会にしか見えないが、恒例の作戦会議である。


作戦会議であるが、せっかくなので、温泉を楽しんでいる。

九割方、温泉を楽しんでいるが、作戦会議だ。


「はあー、どうしましょうねぇ」

緊張感の欠片もない。


「マイルズの神気がどうだとかって言ってたか?」

お湯と酒で、リュウセイの頬が赤い。


「そうですね。今は神気が全く使えてませんから。その使い方を覚えた方がいいでしょうね」

「にゃあ?」

魚の欠片を呑み込んだマイルズが首を捻る。


「強さもそうですけど、使い方を知らないと、力が暴走したときに、どうしようもなくなりますからね」

「ふむ?」

「暴走ねえ?」

マイルズは酒を舐めている。


「神気は名の通り神の力ですから。ちょっとした暴走や暴発でも、何が起こるか分かりませんよ?」

「ふうん。危ないんだな」

「まあ万が一のためですけどねぇ」

「にゃあ」


「やることは一つで、今のマイルズさんは、神獣としてモグリなんで、神獣として神に認めてもらえば、それで解決ですね」

「神ねえ?」

「うむ?」

コロポンに魚を与える。


「マイルズさんは聖杯を継いでいるようですから、ミカエルさんによれば、聖王教?とかいうのがそれっぽいんですが、それもどうなんでしょうねえ?」

「ああ。アイツらか」

「ご存じで?」

「にゃ」

「呑み過ぎじゃないか?」

「にゃ」

「いいけど倒れるなよ。ほら、桶の湯も替えてやる」

「にゃ」


「何度か見たことがあるな。子どもの怪我やら病気やらを無料で治すって結構な人だかりが出来てた。ただ、アイツらは聖杯持ちを集めてるだろ?」

「みたいですね」

「マイルズのことが知れたら、ややこしくなりそうじゃないか?」

「そうなんですよねぇ」

はー、と羽を伸ばす。


「あーそろそろ上がるか。のぼせそうだ」

「そうですね。もう一つあるとすれば、かつてランクセノンが降臨したと言われる、リンケオン神殿に行ってみることですかね」

「どこだそれ?」


ざばりと湯から立ち上がるリュウセイ。

湯が腹の深い地割れを伝い、腰から落ちる。


「サラエアス深山ってとこのようですが?」

「サラ……ってそりゃ、Sランクダンジョンじゃないか?」


「まあ、問題ないでしょう?」

「にゃ」

「うむ」

元Sランクダンジョンのボス達は揃って頷いた。


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