財布（さいふ）を落としてコンバンワ！

エピローグと、おまけの報告

　翌日（よくじつ）、彼女と私は猫（ねこ）と一緒（いっしょ）に、部屋（へや）の中でゴロゴロ寝（ね）て過（す）ごしている。今日の私は大学に行（い）かない。所持（しょじ）金（きん）がゼロなんだから、無駄（むだ）に動（うご）いて、お腹（なか）を減（へ）らしたくなかった。彼女もバイトを休（やす）んで、私の世話（せわ）をしてくれるそうだ。私と彼女は、かつて失（うしな）った日々（ひび）を取（と）り戻（もど）そうとするかのように、二人で過（す）ごしていた。

「私だって、食費（しょくひ）を切（き）り詰（つ）めて生活してるんだから、三食（さんしょく）は朝も昼も夜もパスタにするわよ。文句（もんく）ないわよね？」

「ええ、問題（もんだい）ありませんとも」

　上機嫌（じょうきげん）で私が答（こた）える。早く就職（しゅうしょく）して、この部屋で彼女と暮（く）らしたいものだ。私の稼（かせ）ぎがあれば、食生活（しょくせいかつ）も今より改善（かいぜん）されることだろう。その未来（みらい）を思えば、今日の三食（さんしょく）パスタ生活（せいかつ）も何（なん）のその、である。

「ねぇ……どうして、そんなに楽観的（らっかんてき）なの？」

　ベッドでの関係（かんけい）修復（しゅうふく）も終（お）わって、お昼（ひる）時（どき）、テーブルでアーリオ・オーリオを食（た）べていた時（とき）に彼女から言（い）われた。唐辛子（とうがらし）が無（な）い、薄味（うすあじ）のペペロンチーノだ。青菜（あおな）とレモン、そして鶏肉（とりにく）が入（はい）っている。下手（へた）なお店（みせ）で食（た）べるよりも美味（おい）しかったものだから、私は彼女への反応（はんのう）が遅（おく）れた。

「え？　何（なに）が？」

「だから色々（いろいろ）よ。私は将来（しょうらい）が見（み）えないし、貴女の財布は戻（もど）ってくるかも分（わ）からない。なのに貴女ったら、私が作（つく）ったパスタをそんなに美味（おい）しそうに食（た）べちゃって」

　だって美味（おい）しいんだもの。楽観的（らっかんてき）な理由（りゆう）ねぇ、それは私が話（はなし）のヒロインだから？　意識（いしき）したこともないけど、昔（むかし）っから私は、そういう性格だった気（き）がする。

「うーん。昨日（きのう）、貴女は言（い）ってたわよね。『どうせ世の中は変わらない。同性婚（どうせいこん）なんか、できない』って。でも分（わ）からないじゃない？　世の中は、変わる時（とき）には変わるわよ。私の財布だって、良（い）い人（ひと）に見（み）つかって、無事（ぶじ）に戻（もど）ってくるかも知（し）れないし。だから希望を持（も）ちましょう？」

　私は楽観的（らっかんてき）に過（す）ぎて、彼女は悲観的（ひかんてき）な性格（せいかく）かも知（し）れない。そんな私たちが付（つ）き合（あ）えば、バランスが取（と）れて良（よ）いんじゃないかなぁと思う。何（なん）とも言（い）えない表情（ひょうじょう）で彼女が黙（だま）っているので、私は言葉を続けた。

「貴女も私も、ちょっと躓（つまづ）いちゃったかも知（し）れない。でも、それだけよ。転（ころ）んだら立（た）ち上（あ）がればいいの。私たちのことを『生産的じゃない』なんて言（い）う人も居（い）るけど、だから何（なに）？　私は貴女の良（よ）さを知（し）ってる。貴女は猫（ねこ）のミャーコも、ポーチごと財布を落（お）として困（こま）ってた私のことも世話（せわ）しちゃうくらい優（やさ）しい子（こ）よ。誰（だれ）が何（なに）を言（い）おうが、貴女には価値（かち）があるわ。もちろん私にもね」

　私のことは措（お）いていいけど、彼女の価値を私は知っている。彼女のパスタは美味（おい）しいし、優（やさ）しくて繊細（せんさい）な女性だ。挫折（ざせつ）して大学を辞（や）めたことも、彼女は周囲（しゅうい）の環境（かんきょう）を責（せ）めず自分だけを責（せ）めている。もしも社会が変（か）わらなくて彼女が不幸（ふしあわ）せで居（い）ても、きっと彼女は自分のせいだと考（かんが）えるだろう。冗談（じょうだん）じゃない！　私は更（さら）に更（さら）に言葉を続ける。

「ねぇ、ちょっと賭（か）けをしない？　もし私の財布が無事（ぶじ）に帰（かえ）ってきたら、きっと世の中も良（よ）い方（ほう）に変（か）わるわよ」

「……何故（なぜ）？　根拠（こんきょ）は？」

「それは世の中が、捨（す）てたものじゃないから。落（お）とし物（もの）をして困（こま）ってる人が居（い）たら、その苦（くる）しみを感（かん）じて届（とど）けてくれる人が居（い）るからよ。今、私たちは、ちょっと困（こま）ってるわ。その苦（くる）しみを理解してくれる人が多ければ、きっと世の中は変わるんじゃないかな。私は、そう思う」

　世の中は、変わる時（とき）には変わる。たとえ頑固（がんこ）な国会（こっかい）議員（ぎいん）さんが法案（ほうあん）採決（さいけつ）の時に退席（たいせき）したりしても、大きな流れは止（と）められないのだ。いつか世の中が良（よ）い方（ほう）に変わる時（とき）に、最後まで抵抗（ていこう）しようという人が居（い）たら、その行為（こうい）こそ非生産的（ひせいさんてき）じゃないかなぁ。そう私は思う。

「何（なに）よ、それ……お金も無（な）いのに賭（か）けなんて馬鹿（ばか）みたい」

「そうね、馬鹿（ばか）みたいね」

「でも、素敵（すてき）な賭（か）けだわ。そうねぇ……お財布、見（み）つかってほしいわね」

　私と彼女は、ちょっと笑（わら）った。ああ、見（み）つかるといいなぁ財布。

　にゃー、と絶妙（ぜつみょう）なタイミングで、猫（ねこ）のミャーコが食事中（しょくじちゅう）の私たちに寄（よ）ってきた。私の膝（ひざ）の上（うえ）に、飛（と）び乗（の）ってくる。「何（なん）で、貴女の方（ほう）に行（い）くのかしらね」と彼女が不満（ふまん）そうなのが面白（おもしろ）い。

「もし財布が見（み）つからなくて、私たちが貧困（ひんこん）生活（せいかつ）に追（お）い込（こ）まれたら、ミャーコを食（た）べちゃうかも知（し）れないなぁ」

「……食（た）べるなら、私を食（た）べてよ」

　ミャーコを撫（な）でながら冗談（じょうだん）を言（い）った私に、彼女が返（かえ）す。思わず彼女を見ると顔（かお）が赤（あか）かった。その後（あと）、私が彼女をどうしたのかは秘密（ひみつ）。

　おまけの報告（ほうこく）

　今日、お昼を食（た）べた後（あと）に財布、見（み）つかりました！　やっぱり駅（えき）のホームで眠（ねむ）ってた時（とき）に、ポーチをベンチの下（した）に落（お）としてて。鉄道会社からメールで携帯に知（し）らせが来（き）たので、定期券（ていきけん）で、彼女と一緒（いっしょ）に落（お）とし物（もの）のある駅まで電車で行（い）って。ポーチの中の財布や鍵（かぎ）、カードも全（すべ）て無事（ぶじ）！

　駅員（えきいん）さんが見（み）つけてくれて、現金（げんきん）の一割（いちわり）お礼（れい）を払（はら）う必要も無（な）いそうで。日本って、いい国（くに）ですね！　この調子（ちょうし）で、もっと良（よ）い国（くに）になってもらいたいと思います。

　母親にも電話で知らせて、『良（よ）かったじゃない。それはそれとして、野菜（やさい）があるから明日、私がマンションに持（も）っていくわよ』と言（い）われました。明日は私のマンションに彼女を連（つ）れて、母に紹介（しょうかい）したいと思ってます。いつか彼女と結婚したら、その時（とき）の報告（ほうこく）も改（あらた）めて。