第一話(覚悟を決めた。私に全ては選べない)・2
──神罰。
神話は語る。かつて、人と獣は共に暮らしていた。
しかしその蜜月は、人が神の怒りに触れたことにより唐突に終わった。
罰として、神は人と獣が共に暮らせぬようにしたのだ。
人の世である人界と、獣が暮らす山界の誕生である。
もし、山界に在る獣に近づいたなら、神によりて獣は人以上の力を与えられ
これこそ、神罰獣である。
神話は語らない。人がいかにして神の怒りに触れたのか。その罪はどうすれば赦されるのか。
樹上から降り立った赤髪の剣士、ナナシは
奇妙の長剣と鞘だった。分厚い布でぐるぐる巻かれた鞘のほうが明らかに長く幅も広い。
そんなおかしな長剣を見もせず空中で掴むと、さらに速度をまして最後尾の荷車に追いつく。
「逃げろ、走れ!」
人足達はおろか、護衛で雇われたはずの傭兵も腰を抜かしてへたり込んでいるのを、乱暴に引き上げたり、蹴飛ばしたり、とにかく自分の後ろに流していく。
「走れってんだよ死ぬぞ!」
荷車にしがみついて隠れているつもりの男どもを引っ剥がし、
不意に、先ほどのような枝が大量に折れる音がすると、少し離れた所にあった荷車が押し潰された。
「きやがったな」
押し潰したのは、空から降ってきた異形。おそらく詠術師を殺した先ほどの化け物、神罰獣である。
その異形の
(原型は猿だな、やはり)
蒼い燐光を纏うその体表は、毛でも皮膚でもなく金属光沢を放ち、芸術作品のような人工物に見えるのに、壮大な自然界の景色を前にしたときに感じる
大きく広げた腕の先端、掌がもいだ果実のように掴むのは、何人もの人の頭。ちぎり取られた首からボタボタと、雨に混じっても薄まらない赤黒い液体が滴り落ちる。
「上等だよてめえ。俺が相手だ!」
わざとナナシは声を張ってこちらに注意を引きつける。
すると猿型神罰の両腕の中間あたり、人なら肘の部分が勢いよく背中側に折れ曲がった。
手にしている人頭を投げつけるつもりだと直感したナナシは、右手に構える剣をちら見する。雨に濡れる刀身は、後ろでもたもた逃げ惑う人影をにじませていた。
ナナシが腰を落として構えた瞬間、風切り音よりも早く、痛苦の表情の砲弾が同時にいくつも飛んでくる。
その全てを右手の剣と、特製鉄砂を仕込んだ左手のグローブで叩き落とした。頭蓋を砕く感触が、両手を痺れさせる。
「くそやろうが!」
返り血を拭わず、間合いを詰めようとすると、猿型神罰もまた同様に向かってきていた。
ほとんど近づけていないにも関わらず、空高く突き上げた猿型神罰の両拳が雨とともに剣士に降り注ぐ。
鉄の塊といって差し支えない猿型神罰の拳を、ナナシは両手で握り直した長剣で、受け流し、弾き返し続ける。
金属と金属がぶつかりあう轟音が響きわたり、逃げていた者たちも思わず振り返る。彼等が目にした光景は凄まじいものになっていた。
傭兵の誰かが悔しそうに呟く。
「詠術師がいりゃあ……」
猿型神罰とナナシは対等に渡り合っているようで、実は互角では全くない。人の体力は有限だが、神罰獣のそれは底があるかもわからない。打ち合い続けているということは、裏を返せば剣の間合いの遥か外で、一方的に攻撃され続けている状況でもあるのだ。
なによりも詠術師がいない。
ナナシは鋭利な刃で、叩き切るように拳を弾いている。にも関わらず、猿型神罰の拳はかすり傷一つつかない。せいぜいへこむくらいで、それすら瞬時に元の形に戻ってしまう。むしろ刀身とそれを振るう腕のほうが良くもっていると言えた。
詠術師がいなけば、神罰獣にはなにも効かない。かすり傷1つつけられない。
だからこそ詠術師が真っ先に殺された時、この部隊は総崩れになった。
それなのになぜあの剣士はその場に留まり、攻撃に晒され続けているのか。その理由に生き残りの傭兵達が気づいたとき、彼らは人足達にも手を貸し、肩を貸し、協力して逃げ始めた。
しかし遅かった。変化は神罰獣側にもあった。
ナナシは違和感を抱く。その違和感の正体が、僅かに猿型神罰の体が傾いていることに気づいた時、ナナシは考える前に反射で避ける動作に入ったが、それでも神罰獣の能力が勝った。
みぞおちに衝撃。むりやり肺のなかの空気を吐き出させられ、逃げゆく者達も追い越して、遥か後方へ吹き飛び、泥道に転がっていく。
短かった足が、右足だけ矢を超える速度で伸び、ナナシのみぞおちをとらえたのだ。
伸びた足を縮め、猿型神罰はゆっくりと歩を進めながら、両腕を鞭のようにしならせて、逃げ遅れた人間の頭をもいでいく。どんな手の構造をしているのか、頭を掴み取ったまま次々とブチブチひきちぎっていく。
「俺が相手だって言ってんだろうが!」
泥まみれの体を起こし、怒声をはるナナシ。みぞおちに受けた蹴りの衝撃は、体を少しふらつかせていた。
最悪は重なり続ける。構え直した剣士の耳に届くのは、グチャグチャと泥が飛び散る音。緩やかな曲がり角から姿を見せたのは、別の神罰獣2体。どちらも四足歩行だが、違う型だった。
鹿型の神罰獣は、雨に流されないほどべったりと返り血にまみれて。
猪型は太く禍々しく捻れた角に、絶命した人間達を飾りのように縫い付けて。
堂々とナナシの前に立ちはだかる。
前方にいた神罰獣が、後方に現れる。
それはつまり、前方にいた部隊の全滅を意味していた。
ナナシは刀身を軽く拳で叩く。刀身は人の体温程度の温もりを発していた。
「上等だよくそったれどもが。まとめて相手してやらぁ」
ナナシが自分の心臓あたりに拳を置いたとき、目を疑った。道ではなく密集する梯子木の隙間から、小柄な人影が踊り出たのだ。
枝が引っかかったのか、
そして、ナナシははっきりと見た。雨がたくさんの粒のように見えて、音すらかき消えた時間のなかで。
その少女は確かにナナシを見て、涙で潤む瞳のまま微笑んだのだ。
──まるで銀髪の少女だけ違う時間に生きているよだった。
瞬きの間にその時間が失われると、止む気配がない雨の、煩わしい音がやけ耳に刺さる。
唯一の色のように輝く銀髪をなびかせて、少女は迷わず3体となった神罰獣の群れへ走りだしていた。
死体あふれる泥道に足をとられることもなく、軽やかに走り抜ける名も知らぬ銀髪の少女の後ろ姿。その煌めきは雨すら弾いていると錯覚させる。
(いや、たった1人でなにができる)
あんぐりと開いていた口を閉じて、ナナシは慌ててその小さな背中を追い始めた。まとわりつく泥のせいで、前に進んでいるのに、少女との差は一向に縮まらない。
「なんなんだよ!」
自分でもよくわからない苛立ちを怒声にかえて、少女のもとへ走り始める。
日の光が雨雲と木々に遮られた森の道に、灯火が灯ったような目を引く美貌。
ナナシからすれば見覚えは一切ない。そのはずなのに、少女がナナシに向けた視線は、旧知に向けられるものだった。
3体のうち、真っ先に少女を殺そうと動き出したのは、先程まで剣士とやり合っていた猿型神罰。命を摘み取るその長い手が少女に迫る。必死に泥を蹴ってもナナシの持つ剣の間合いには未だ至らない。
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