第5話 そして専門用語は覚えられない

 暑さとヘルシーメニューに身も心もけずられている僕は、今日も夏休みの宿題を広げるだけ広げて、分析室でだれていた。さらに、八月に入ってお盆休みが見えてきた。たった一週間でも島津さんに会えなくなるのは寂しい。


 そうすると、うっかり分析装置を操作している島津さんのところにすすっと寄っていってしまって、「今、何してるんですか?」などと声をかけてしまう。島津さんは、作業の手を止めずに、答えてくれた。


「これはね、液体クロマトグラフといってね。液体中に含まれている物質の種類やその量を測定することができるの。今は排水の中に基準値きじゅんち以上の有害物質が含まれていないか、確認しているのよ」


「……へぇー」


 聞いたはいいけど、ちんぷんかんぷんだ。島津さんは、その液体なんちゃらの装置から離れると、次は隣の装置を触りだした。こちらは結構デカイ。聞いてないけど、これも解説してくれる。


「こっちはICPアイシーピーMSマスっていう分析装置なんだけど、これは、溶液ようえき中に含まれる元素げんそとその量を知ることができるのよ。今は、入ってちゃいけない有毒な金属イオンが含まれてないか、確認してるわ」


「元素って、HHeリーLiBeB CN OF Ne……ってやつ?」


「そう、それそれ! そっかあ。だいぶくだいたつもりだったけど、中学生だとそれくらいよね」


 また子供あつかい! どうせ、難しいことはわかりませんよ! それでも、僕にだってわかったことがある。


「つまり今、島津さんは、いろんな装置を使って、排水の分析をしてるってことですね?」


「正解! コレは外部から依頼されたものをやっているけど、もちろん、この工場から出る排水もちゃんと、国が決めた基準を満たしているか、週に一度、分析してるわよ。ここ何ヶ月かは基準値をこえてしまうことが増えて、最近は毎日やらされてるけど」


 そして島津さんは「あ、」と言って、キラキラとした笑顔で僕を見た。


「これから採水さいすいに行くけど、ひましてるなら一緒に行ってみる?」


 キラキラの笑顔は僕の目からみた印象だけのものかもしれないけど、それは置いとても、答えはもちろんイエスだ。心にシャキッと気合がはいった。

 島津さんは岩城さんにも声をかけ、大きな蓋付ふたつきのガラス容器とヒシャクを持って、三人で工場の排水をみに行くことになった。二人きりかとちょっと期待しただけに、そこは残念だ。



 自分が、石窯いしがまで焼かれるピザにでもなったかのような、ジリジリとした暑さの中、工場の門から出てへい沿いに、目的のマンホールのところまで歩いて行った。

 いつもは前髪でかたくなに目もとを隠す岩城さんも、そんなうだる暑さに、さすがにうっとおしかったのだろうか。この時、はじめて前髪をかき上げるのを見た。大きなヤケドのあとがあった。──そうか、これを見られたくなくて、前髪を伸ばしてたんだ。僕はパッと視線をらして、見なかったフリをした。


 歩いている間に、排水分析を主に担当している岩城さんは、色々と解説してくれた。また定位置にもどった前髪のせいで目もとは見えなくとも、明らかにドヤ顔をしているのがわかる。


「水を汚染おせんしないように、工場から下水道に排出される排水はきれいじゃないといけないんだ。これは法律で決まっている。きれいって言ってもそれはまったく汚れてないっていうわけじゃなくて、簡単にいうと有害物質が含まれているかいなかというところで……」

「へー」

「有害物質といえば、例えば、カドミウム、シアン、なまり六価ろっかクロム、水銀すいぎん、トリクロロエチレン、テトラクロロエチレン、ジクロロメタン、硝酸性窒素しょうさんせいちっそ……」

「へー」

「有害物質だけじゃなくて水質を悪化させるものとして、浮遊物質ふゆうぶっしつ、ノルマルヘキサン抽出物質ちゅうしゅつぶっしつやら他にもいろいろあるけど、それぞれについて基準値以下に……」

「へー」

「浮遊物質は読んで字のごとく水に浮いてる固形物で、濾過ろかした水の残渣ざんさの重さをはかって、ノルヘキはヘキサンにけ出した鉱油類こうゆるい動植物油脂類どうしょくぶつゆしるい含有量がんゆうりょうを測ることによって……」

「へー」

「有害物質が入ってないかどうか、様々な分析装置を使って確認するんだ。液体クロマトグラフィーやガスクロマトグラフィーや誘導結合プラズマICP−質量分析MS装置や水銀測定装置や……」

「へー」

「聞いてないだろ」

「へー」

「島津さんの誕生日は三月三十一日」

「へー……え!?」


 最後にすごく重要な情報があった気がするけど、溶けそうな暑さのなか、専門用語いっぱいの話を聞いたって頭には入らない。つまり、工場から出してる排水が汚なすぎないかどうかを調べてるんだよ、ということだけはわかった!



 目的のマンホールに到着すると、岩城さんが先の曲がった鉄棒を使ってマンホールを開けた。


「岩城くん、採水の様子、一応見せてくれる? 問題ないとは思うけど」


「はーい」


 岩城さんはマンホールに流れる水に目をらした。僕も邪魔にならない程度にのぞいてみると、正直なところ、みるからに汚い水が流れている。白っぽくにごっていたり、トイレットペーパーやうんこが流れてきたり。

 岩城さんはそんな中でもなるべくんだ水が流れてきたときに、ヒシャクで水をすくった。


「でも……これってズルじゃないんですか?」


 僕は思った事を言った。


「だって、実際はこんなに汚れているのに、キレイそうなところばかりるなんて」


 島津さんと岩城さんは苦笑いだ。


「わかってるんだけどね。でも、サンプリングの現実ってそんなものだったりするのよ。全部が全部とは言わないけど。

 分析屋はデータを出すだけ。そのデータを使うのは依頼者で、依頼者の頭の中には“こうあって欲しい”結果があるのよ。

 分析の過程や出てきたデータは依頼者側はごまかせないけど、サンプリング時点やデータの取捨選択しゅしゃせんたくは、ある程度できちゃうわよね」


 知ってはいけない大人の事情ってやつを垣間見かいまみてしまった気がして、なんだか複雑ふくざつな気分だ。



 分析室に戻ると、冷たい空気が出迎えてくれた。三人ともが、「はぁああ」と暑さから解放された嬉しさをもらす。

 岩城さんは汲んできた排水のびんを作業台に置き、白衣を着てテキパキと分析作業の準備を始めた。でも、島津さんがそれにストップをかけた。


「ここのところ毎日、岩城くんに排水の項目ほとんどをやってもらってるから、今日からお盆休みまでは、私が全部やるわ。かかえてた依頼も一区切ひとくぎりついたし」


「いや、俺やりますよ!」


「でも、最近、コレのせいで残業多いでしょ?」


「残業代稼ぎたいですし! やりますって」


「排水以外の経験も積んで欲しいしね?」


 こんな感じで、ああだこうだと言い合っていたが、結論としては岩城さんが折れて、島津さんがやることになったようだ。

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