其の五
「あ、あんたァ、本当に取り戻してくれたのかい……」
オレが蕎麦屋へ麺切り包丁を持ち帰ると、店主の親父は〈
「そんなに大事なモンだったかい? たかが麺切り包丁だろう……」
そうオレが口にするや否や、親父は「なァにいってやがんでいッ!」と、こんどは血相を変えて怒り出す。泣いたり怒ったり、まったく忙しいことだ。
「……そしたら、あんたらお
「天國ィだあ!?」
親父は眉間に皺を寄せ、口角泡を飛ばさんばかりに力説した。
天國といえば、
「こいつをひと振りすりゃあなァ、
「わかった、わかった。包丁の素性にゃ異論はねェよ。じゃあその逸品でよう、自慢のモリ蕎麦作ってくんな」
石臼で蕎麦の実を挽いて粉にしていた親父は、ようやく仕事への意欲を取り戻したようで、オレにカウンター席につくよう促すと「儂からの礼じゃ、一杯奢ろう」といった。
どうやら、ようやく飯にありつけそうである。オレはカウンター越しに親父の手さばきを
こね鉢に挽いたばかりの蕎麦粉を
次第に大くなる蕎麦玉をひとつにまとめ上げ、手早く何度も
へそのように突き出した先を押しつぶして丸く伸ばす、丸だし。続いて麺棒で四角い生地へと形を変えていく、角だし。更には厚みを薄く均一に伸ばしていく、本延しまで。
その所作のひとつひとつが無駄なく洗練されていて、美しい。オレは驚き、感心し、感動に打ち震えていた。やはりこの親父、ただ者ではない。
――そんな風にオレが親父の手つきに見とれていた時だった。背後から、聞き覚えのある声が近づいてきたのである。
「……姉御こちらでさァ」
「あそこです。あのチンケな麺屋の親父が寄こした……」
聞き覚えがあるというよりは、つい先ほどまで聞いていた声。オレは背中に悪寒が走るのを感じた。恐る恐る背後を振り返ってみる。
果たしてそこには、肩を怒らせ足を踏み鳴らしながら近づいてくる、ヒューマンとハーフオークの姿があった。細目と牙折れである。
ハァ、ようやく飯にありつけるって時に、面倒なことになってきやがった。
「やっぱりここにいやがったな、
「こんの野郎、よくもやってくれたなァ」
「やめな。誰彼かまわず噛みつくんやないって、いつもいってるやろ」
「けど、ウィーゼルの
「だってよォ、姉御ォ」
――と、いきり立つ男たちを
不満の声を制しながら手下の背後から現われたのは、
「手下どもがお世話になったようやね」
「たいしたもてなしは受けてないさ」
「うちは〈
「〈
「うちらはその呼び名は使わない。ここいらで〈
奇妙な
「その〈
「なにィ、い、い、イカサマぁ? 儂ァ、騙されとったんか!?」
またもや怒りだす親父をなだめながら、相手の出方をみる。「
ハーフリングがピン!と指を弾くや、何かがオレに向かって放たれた。
オレは瞬時に機動を見切り、それが顔にあたる寸前でつかみ取った。握った拳を開くとそこには、一枚の
「その金は、あんたに返す。そこの親父がこしらえた借金も、棒引きにしてやってもいい」
「なんだと?」
「ぼうびきィ?」と色めき立つ親父を押さえつけながら、オレは眉根を寄せ思案した。いくら
「……そのかわり」
そらきた。やはり、だ。
「そのかわり、あんたにやってもらいたい仕事があるんや」
「仕事ってなんだい。盗みか、荒事か……どちらにしろ非合法な仕事なら……」
「その腕を見込んで、鼠退治を頼みたい」
「鼠?」
「そう……とても大きな、鼠や」
ウィーゼルと呼ばれたハーフリングの女は、なぜか少し苦しそうに答えた。
*
「嫌だね、断る。あれはいつだったか、夜に沼地で野営した時だ。休んでいたところを野鼠に鼻を齧られそうになって以来、オレは
「……そこを曲げて頼む」
「無理なんだよ! あの飛び出た歯をみるだけで背筋に寒気が走る」
オレは申し出をすぐさま断った。親父が恨みがましそうな目でこちらを睨むが、知ったことではない。
ウィーゼルの手下たちも、上役を前に罵詈雑言は吐かないが「姉さんの頼みを断るたァ、許せねえ」と、刺すような視線をオレへと向けてくる。
「あんたは、こいつらを一瞬でのしてもうた。うちは隠れてみててん」
「あの狭い賭場に隠れる場所なんかあったかァ?」
「あんたくらい腕が立つ剣士を、うちらは他に知らんねん……もうあまり時間がないんや。もし、もしもやで……この仕事が上手くいったら、許可証を返してやってもいい」
「許可証……って、なんだそりゃ」
振り返って親父の方を見れば、突然に降って湧いた幸運に目を輝かせながら、
「本当か! 返してくれるんだな、〈
――と、大声で叫んだ。
ははァ、そういうことか。最初に親父がいっていた「やる気がねェ」という事情には、こういう経緯があったわけだ。大方、博打で
今度はオレがキッと睨むが、親父はオレとウィーゼルに交互に目を走らせつつ、すがるような視線を向けてくる。オイオイオイ、よしてくれよ。オレはただ腹が減っているだけなんだ。
「〈
親父は悪びれずにそういう。「きっとあんたなら、最後までやるんだろう?」と確信しているようですらある。オレは腕を組み、空を仰ぎ見ながら逡巡した。たった一杯の蕎麦を喰う為に、随分とややこしい話になってきた。
「乗り掛かった舟ってわけかい……」
ここまできて飯にありつけないのも
「……はァ、よしわかった。仔細を話してみな。とりあえず話だけは聞いてやる」
オレが溜め息混じりに小さく首肯すると、ウィーゼルは他の誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ口の端を緩めた。
*
ウィーゼルのいう鼠退治とは、バルダーズ・ゲート市内の下水道に巣くう〈
愛刀の
「誰か腕の立ちそうな、
「助っ人は他におらんけど、道具なら手配ずみや」
「
「それはわかっとる。夕刻までにあの賭場まできてくれるか」
いつの間にか鼠退治を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます