其の二

「まさかッ! こんなところでお目にかかれるとはッ!」


 オレの両眼りょうのまなこは、驚きのあまり見つめる者ビホルダーの如く見開かれていたに違いあるまい。

 その角張った画数の多い字は、一文字が複数のオン意味クンを持つ表意文字ひょういもじであり、懐かしき我が故郷〈〉国の言葉である。蕎麦そばは蕎麦の実を挽いて加工し、甘辛いツユひたして喰う、〈倭〉国の代表的な麺料理だ。

 隣国〈小桜コザクラ〉では小麦で作る饂飩うどんの方が主流と聞くが、オレは断然に蕎麦、それも最初から汁に浸かったよりも、少量の濃い汁に都度麺を浸して喰うの方が好みである。吸いよせられるようにフラフラと向かった、〈倭〉国の長屋風建物を改装した店先には――。


 大鍋から沸き立つ白い湯気。

 鰹出汁を効かせた甘辛い汁の香気。

 卓上に置かれた薬味のねぎは青々として。


 オレは脳天から爪先まで雷に撃たれたような衝撃が走るのを感じた。全身が総毛立ち、口内に泉の如く唾が湧出する。鼻がフゴフゴと勝手に蠢き、この場の空気を少しでも多く取り込もうとする。ゴクリと大きく喉が上下し、先ほどよりも大きな音で腹がグウウゥと鳴った。


     *


 そっけなく『蕎麦』とだけ書かれた小さな看板。建物側面は横に長いカウンターになっていて、路地に面した外側にはやはり長椅子が置かれている。カウンターの奥はすぐ調理場になっており、かまどや石臼、水瓶みずがめや洗い場が見えた。

 棒で上方に持ち上げられた戸板はひさしを兼ねているようで、なるほど文字通り店をすぐに営業ができるというわけだ。

 壁面から下げられた木札には「モリ/カケ 三金貨ドラゴン」とあって、オレは思わずウウウムと唸り声を漏らしてしまった。蕎麦一杯に金貨三枚といえばかなり強気な値段で、平民が宿泊や飲食に使う一日分の生活費に相当するのだが――。

 この質素な店舗の面構えと、鼻腔をくすぐる出汁の香り。大陸各地で数々の麺を手繰たぐってきたオレの直感にピイイィンときた。こいつァ間違いなくだぜ。


「親父ィ! モリ一杯たのまァ」


 オレは、厨房の暗がりで椅子に腰かけ、一枚刷りの瓦版かわらばん(当地では新聞というのだそうだ)を読んでいた、店主らしき男に声をかけた。長椅子の端に腰かけ、懐の硬貨袋から金貨を取り出して卓上に重ねて置く。

 店主は注文の声が上がってものんびりとしていた。否、のんびりというよりはとした態度で、さも大儀そうに瓦版からこちらに目をやると、


「蕎麦なら、よ」

 

 ――と、すげなく答えた。


「ああァん? 、たァどういうことだ。こうして仕込みなら出来ているじゃねえか」

「ハァ……あのなァ、もなけりゃあ包丁もねぇ。ついでにわしもねぇ。蕎麦ァ打てねぇよ」

「大釜に湯はグラグラ沸いているし、カケ汁ツケ汁も良い塩梅あんばい。あとは麺の支度をするだけだろう。蕎麦粉を切らしているなら、仕入れればいいだろうに」

「仕入れようにも金がねぇんだよ」


 客の抗議に耳を貸すつもりはないらしく、店主は露骨に面倒そうな溜息をもらして、ぞんざいな口ぶりだ。いかにも年季の入った料理人らしく、使い古されてはいるが小綺麗な身なりをしている。しかし、禿頭とくとうをつるりとひと撫でする姿には、何とも覇気が感じられない。

 この男は何か大事な精神の糸の様なものが、プツリと断たれてしまっていると思われた――ならば、蕎麦を諦めるか――いや、その選択肢はない。故郷を遠く離れた異国の地で、これほど素朴にして奥深い、あの懐かしき味に巡り合えたのはまさしく僥倖ぎょうこうである。今喰わない選択肢は考えられない。オレは断じて蕎麦を諦めない――となれば。

 正門おうてが閉ざされている時は、裏門からめてを叩いてみるのもひとつの策。


「よし、わかった。ここにオレが代金にと出した金貨がある。こいつでオレが蕎麦を仕入れてきてやる」

「はァ? おめェさん、何勝手なこといってんだ。ンなことしたって、儂ァ打つ気はねえといってるだろ」

最初はなから打つ気がねぇなら、支度なんかする必要もねぇ。なのにあんた、店ェ開けてるじゃねぇか」

「そりゃあ……毎日の習慣でな、つい、よ……」


 いくぶん威勢を失いながらも、親父は言い訳がましく答えた。


「まァ、オレにまかせておけって」

「あッ、ちょっと待ちなって、あんた……」


 背中で食い下がる親父の声にガン無視を決めこむと、オレは活気溢れる市中へと歩き出した。


     *


「……ほうほう、キクさんがそれほどご執心とは。一度私も食してみたいものですなぁ。私はかゆ薄焼きガレット以外の食べ方を知りませんでしたよ」

「それで蕎麦の粉、できれば質の良い実のままを扱っている店を知らないか」


 蕎麦屋店主の前で大見得おおみえを切ったものの、初来訪となる地に知り合いは多くなく、オレは唯一といっていい既知を頼ることとした。商人ハキームは〈カリムシャン街リトル・カリムシャン〉入り口近くの広場で人足にんそく達に、香辛料がたっぷりつまった樽や木箱の荷下ろしを指示している最中であった。早速の再会にさほど驚く風でもない。


「直接の知り合いはいませんがね、〈市上層アッパー・シティ〉の〈大広場ザ・ワイド〉に行ってごらんなさい。大きな市場マーケットが夜明けから日暮れまで毎日開かれています。小麦でも蕎麦でも野菜でも、手ごろな値段で購入できるでしょう」


 木陰のテーブルで、甘く煮だした紅茶チャイを飲みながら優雅に水煙草シーシャくゆらせつつ、時折、香辛料の保存場所や保管方法に細かく注文をつけている。ハキーム達なら、さしずめ伽哩蕎麦カリー・ソバとでも呼ばれそうな食物を考案しそうである。


「〈市上層〉に行かれるならば、お待ちのかねのを潜ることになりますよ」

「そうか! ついにッ!」

「でもまぁ、過度な期待はなさらないで。ただの壁だし、ただの門ですから」


 〈市上層〉に住まう者たちに思うところがあるのか、ハキームは面白くもなさそうにいう。


「オイオイ、つまんねぇこというなよ。こちとら旅行客だぞ」

「念のためですよ。実物を見てがっかりされるよりは良いでしょう。それと……」

「まだ何かあるのか」

「市内に入るには入市税が、商人や旅人が〈バルダーの門バルダーズ・ゲート〉を潜るのにも通行税がかかります」

「何ィ、また金を払わされるのかよ!?」


 賑やかな〈カリムシャン街〉にあっても、オレの声は一際大きく辺りに響き、幾人かの人足がいぶかし気な視線をこちらに向けた。

 どうやら美味い飯にありつくためには、まだまだ先払いの硬貨が必要なようである。

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