其の二
「まさかッ! こんなところでお目にかかれるとはッ!」
オレの
その角張った画数の多い字は、一文字が複数の
隣国〈
大鍋から沸き立つ白い湯気。
鰹出汁を効かせた甘辛い汁の香気。
卓上に置かれた薬味の
オレは脳天から爪先まで雷に撃たれたような衝撃が走るのを感じた。全身が総毛立ち、口内に泉の如く唾が湧出する。鼻がフゴフゴと勝手に蠢き、この場の空気を少しでも多く取り込もうとする。ゴクリと大きく喉が上下し、先ほどよりも大きな音で腹がグウウゥと鳴った。
*
そっけなく『蕎麦』とだけ書かれた小さな看板。建物側面は横に長いカウンターになっていて、路地に面した外側にはやはり長椅子が置かれている。カウンターの奥はすぐ調理場になっており、かまどや石臼、
つっかい棒で上方に持ち上げられた戸板は
壁面から下げられた木札には「モリ/カケ 三
この質素な店舗の面構えと、鼻腔をくすぐる出汁の香り。大陸各地で数々の麺を
「親父ィ! モリ一杯たのまァ」
オレは、厨房の暗がりで椅子に腰かけ、一枚刷りの
店主は注文の声が上がってものんびりとしていた。否、のんびりというよりはダラダラとした態度で、さも大儀そうに瓦版からこちらに目をやると、
「蕎麦なら、ねえよ」
――と、すげなく答えた。
「ああァん? ねえ、たァどういうことだ。こうして仕込みなら出来ているじゃねえか」
「ハァ……あのなァ、粉もなけりゃあ包丁もねぇ。ついでに
「大釜に湯はグラグラ沸いているし、カケ汁ツケ汁も良い
「仕入れようにも金がねぇんだよ」
客の抗議に耳を貸すつもりはないらしく、店主は露骨に面倒そうな溜息をもらして、ぞんざいな口ぶりだ。いかにも年季の入った料理人らしく、使い古されてはいるが小綺麗な身なりをしている。しかし、
この男は何か大事な精神の糸の様なものが、プツリと断たれてしまっていると思われた――ならば、蕎麦を諦めるか――いや、その選択肢はない。故郷を遠く離れた異国の地で、これほど素朴にして奥深い、あの懐かしき味に巡り合えたのはまさしく
「よし、わかった。ここにオレが代金にと出した金貨がある。こいつでオレが蕎麦を仕入れてきてやる」
「はァ? おめェさん、何勝手なこといってんだ。ンなことしたって、儂ァ打つ気はねえといってるだろ」
「
「そりゃあ……毎日の習慣でな、つい、よ……」
いくぶん威勢を失いながらも、親父は言い訳がましく答えた。
「まァ、オレにまかせておけって」
「あッ、ちょっと待ちなって、あんた……」
背中で食い下がる親父の声に
*
「……ほうほう、キクさんがそれほどご執心とは。一度私も食してみたいものですなぁ。私は
「それで蕎麦の粉、できれば質の良い実のままを扱っている店を知らないか」
蕎麦屋店主の前で
「直接の知り合いはいませんがね、〈
木陰のテーブルで、甘く煮だした
「〈市上層〉に行かれるならば、お待ちのかねの例の門を潜ることになりますよ」
「そうか! ついにッ!」
「でもまぁ、過度な期待はなさらないで。ただの壁だし、ただの門ですから」
〈市上層〉に住まう者たちに思うところがあるのか、ハキームは面白くもなさそうにいう。
「オイオイ、つまんねぇこというなよ。こちとら旅行客だぞ」
「念のためですよ。実物を見てがっかりされるよりは良いでしょう。それと……」
「まだ何かあるのか」
「市内に入るには入市税が、商人や旅人が〈
「何ィ、また金を払わされるのかよ!?」
賑やかな〈カリムシャン街〉にあっても、オレの声は一際大きく辺りに響き、幾人かの人足が
どうやら美味い飯にありつくためには、まだまだ先払いの硬貨が必要なようである。
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