菊と刀と蕎麦

猫丸

其の一

「ほう、あれが噂に名高い〈バルダーの門バルダーズ・ゲート〉か!」


 オレは感嘆の溜息とともに、思わず声を上げていた。

 眼前には、対岸までゆうに二千フィートはあろうかというチオンター川が、音もなく静かに流れ行く。川の中ほどには水面に突き立つ小島があって、巨大な跳ね橋を備えた城の如き建物がそそり立っていた。島と両岸を繋ぐように石橋が渡されて美しい弧を描いており、橋の両側には家屋や露店が立ち並んでいる。街の活況が橋上まで覆いつくさんばかりだ。

 バルダーズ・ゲート市内へ向かう人々は、吸いこまれるように建物が作るトンネルを潜っていく――すると背後の荷馬車の上から、ハハハッと陽気な笑い声が聞こえ、この隊商キャラバンを率いる香辛料スパイス商人が答えた。


「キクさん、あれはこの街を守る砦さ。〈竜渡りワームズ・クロッシング〉地区の要、〈竜岩砦ワームズ・ロック〉だね。門はホラ、もっとずっと先、〈市上層アッパー・シティ〉にあるよ」


 ハキームという名のカリムシャン商人が指差す西の方を見れば、切り立つ断崖の先に霧にかすむ港と丘の街が広がっていた。

 キクとはすなわち、東方〈〉国より遥々訪れし剣士であるこのオレ、秋津菊千代アキツ・キクチヨのことである。

 故郷を離れて早幾年月はやいくとせ。幼き頃から憧れた〈世界の果て〉をこの眼で確かめたいとこいねがい、先祖伝来の名刀・神威奏弦カムイ・ソウゲンの大小をば引っ掴み、五色の備えの証たる赤き具足を身に着けて、流れ着きたるは霧たちこめる港街。

 この地に至るまでには様々あった。元服せいじん前の若造が、一人で大陸フェイルーン横断の旅を続けるのは困難で、その日を生きるのに必死だった。ある時は路銀ろぎんを稼ぐため傭兵として合戦に参陣したし、またある時は慣れぬ水夫かこの真似事をしたこともある。騙されて金を巻き上げられたこともあったが、黴たパンを齧り泥水を啜りながら何とか生き延びて、小さな島国出身のこのオレも世間を学んだのだ。今では酒や煙草の味も覚えたし、小博打を打つこともたまにはあるし――まァ、その何だ――も知った。


「はァん、なるほどなァ」


 どうやら街の名前の由来となった門は別の場所にあるようで、城とも巨大な門とも見紛うそれは、都市を護り税をとるための砦であるらしい。


「まァ、見間違えるのも無理はない。どうだい、立派な街だろう」


 この街の出身であるハキームは我がことのように誇らしげだ。積み荷を満載にした荷馬車は、ガタガタと車輪を軋ませながらゆっくりと進む。市内へと向かう人々の群れで街道はごったがえしていた。


     *


 人相の悪い衛兵に、荷車一台につき銀貨シャード一枚の通行税を支払って、異国の香辛料を満載にした隊商の列が、大きな石橋を無事に渡り終える。

 カリムシャン商人は、ようやく長旅の終わりを思って肩の力が抜けたようだった。久しぶりに戻った故郷の街並みを懐かしそうに眺めながら、この街の大きく三つの地区に分かれる地割りやその特徴について語った。

 いわく、バルダーズ・ゲートは高い壁に囲われた城塞都市であり〈市上層アッパー・シティ〉は貴族やその召使たちが暮らす丘上の街区、〈灰色港グレイ・ハーバー〉を擁する〈市下層ローワー・シティ〉は職人や商人や水夫たちが急斜面に張りつくように住む下世話な街区であって、そしてそれ以外の、街を護る城壁の外に広がる無秩序こそが〈門外アウター・シティ〉である、と。

 〈門外〉は西に街を見下ろす花崗岩の岩山、〈塵鷹の丘ダストホーク・ヒル〉を大きく迂回しながら、市内へと続く〈石蜥蜴門バジリスク・ゲート〉へと至る。未舗装で泥濘ぬかるむ街路には、家屋の大きさも様式もてんでバラバラな混沌とした街並みが広がっていた。あちこちで客引きの声や家畜の鳴き声や喧嘩の罵声が飛び交い、辺りじゅうに獣の臭いや食物の匂いが入り混じって漂っている。活気と生命と混乱に満ち溢れた貧しき者たちの街だ。

 街路は門へ続いていき、市内へと至る途中にハキームや彼の同郷人たちが肩身を寄せ合い暮らす、〈カリムシャン街リトル・カリムシャン〉があった。様々な民族や種族や文化が入り混じった〈門外〉にあって、幾つもの尖塔を戴き、漆喰の壁で周囲をぐるりと囲われた一角は特異で目を引いた。辺りに漂う香料の匂い、奇妙な旋律の笛の音色、賑やかな〈門外〉の中でもひときわ騒々しく、飛び交うのは異国の言葉。街の中に別の国が存在しているかのようだ。

 〈カリムシャン街〉への入り口であるアーチ型門の前で、雇い主であるハキームは立ち止まって、契約の満了をオレに告げた。


「助かったよ、キクさん。無事に故郷に帰ることができた。みんなあなたのおかげさ」

「こちらこそ、ハキーム。あんたには道すがらの仕事をもらえたし、美味い飯もたらふく馳走になった」


 南の街道で、ハキームの隊商が小鬼ゴブリンの群れに襲撃されていたところを、たまさか通りかかったオレが退治してやって以来ひと月ほど。この街に辿り着くまでの契約で、オレは用心棒を引き受けたのだった。先の小鬼の襲撃以外はたいした力仕事もなかったが、野営の見回りに出たついでに、弓矢で野鴨を射止めて持ち帰った折は(オレは剣だけでなく、弓の腕前もなかなかのものなのだ)たいそう歓迎された。

 もちろんその野鴨は大量の香辛料とともに調理された。刺激的な香りと辛味とが口内いっぱいに広がり、食欲と共に大量の発汗も促す料理で、ハキーム達は伽哩カリーと称した。もっとも彼らが作る料理は、具材と使用される調味料にこそ細かな違いはあったが、大抵の場合伽哩と呼ばれていたのだが。

 そう、この高価な調味料が曲者なのである。入手が困難で貴重な香辛料で作られた料理の数々は、当初こそ味も香りも楽しめたが、それがひと月近く毎日続くとなると話は変わってくる。具材毎の小さな差異はすべて香辛料の海に沈み、伽哩という大きな渦に呑みこまれてしまう。けっして不味いわけではないが、肉だろうが魚だろうが野菜だろうが味はすべて伽哩味ということなのだ――まァ、要するにオレは――伽哩にいささか飽きていたのである。

 そんなオレの思いを知ってか知らずか「これは感謝の気持ちだよ」と、ハキームは報酬の金貨が入った皮の小袋以外にも小瓶をひとつくれた。中には赤い粉末が入っている。当然ながら中身は香辛料なのだろう。


「この街に滞在中、何か困ったことがあったらいつでも訪ねてきてくれ。私にできることであれば力になるよ」

「ありがとう。そうさせてもらう」


 オレは礼をいって〈カリムシャン街〉を後にした。眼前に広がるのは〈門外〉の活気あふれる無秩序な街並みである。

 まだ陽は高く、太陽の昇り具合からすると正午前といったところだろう。今日の宿を決めるには少々早すぎる――と、グゥと大きな音をたてて腹が鳴った。そうだな、飯の頃合いだ。そう思って周囲の食い物屋らしき商店を見渡していると、オレの両の眼に懐かしき故郷の表意文字ひょういもじ――墨跡も鮮やかな『蕎麦そば』の二文字――が飛び込んできたのだった。

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