菊と刀と蕎麦
猫丸
其の一
「ほう、あれが噂に名高い〈
オレは感嘆の溜息とともに、思わず声を上げていた。
眼前には、対岸までゆうに二千フィートはあろうかというチオンター川が、音もなく静かに流れ行く。川の中ほどには水面に突き立つ小島があって、巨大な跳ね橋を備えた城の如き建物がそそり立っていた。島と両岸を繋ぐように石橋が渡されて美しい弧を描いており、橋の両側には家屋や露店が立ち並んでいる。街の活況が橋上まで覆いつくさんばかりだ。
バルダーズ・ゲート市内へ向かう人々は、吸いこまれるように建物が作るトンネルを潜っていく――すると背後の荷馬車の上から、ハハハッと陽気な笑い声が聞こえ、この
「キクさん、あれはこの街を守る砦さ。〈
ハキームという名のカリムシャン商人が指差す西の方を見れば、切り立つ断崖の先に霧にかすむ港と丘の街が広がっていた。
キクとはすなわち、東方〈
故郷を離れて
この地に至るまでには様々あった。
「はァん、なるほどなァ」
どうやら街の名前の由来となった門は別の場所にあるようで、城とも巨大な門とも見紛うそれは、都市を護り税をとるための砦であるらしい。
「まァ、見間違えるのも無理はない。どうだい、立派な街だろう」
この街の出身であるハキームは我がことのように誇らしげだ。積み荷を満載にした荷馬車は、ガタガタと車輪を軋ませながらゆっくりと進む。市内へと向かう人々の群れで街道はごったがえしていた。
*
人相の悪い衛兵に、荷車一台につき
カリムシャン商人は、ようやく長旅の終わりを思って肩の力が抜けたようだった。久しぶりに戻った故郷の街並みを懐かしそうに眺めながら、この街の大きく三つの地区に分かれる地割りやその特徴について語った。
いわく、バルダーズ・ゲートは高い壁に囲われた城塞都市であり〈
〈門外〉は西に街を見下ろす花崗岩の岩山、〈
街路は門へ続いていき、市内へと至る途中にハキームや彼の同郷人たちが肩身を寄せ合い暮らす、〈
〈カリムシャン街〉への入り口であるアーチ型門の前で、雇い主であるハキームは立ち止まって、契約の満了をオレに告げた。
「助かったよ、キクさん。無事に故郷に帰ることができた。みんなあなたのおかげさ」
「こちらこそ、ハキーム。あんたには道すがらの仕事をもらえたし、美味い飯もたらふく馳走になった」
南の街道で、ハキームの隊商が
もちろんその野鴨は大量の香辛料とともに調理された。刺激的な香りと辛味とが口内いっぱいに広がり、食欲と共に大量の発汗も促す料理で、ハキーム達は
そう、この高価な調味料が曲者なのである。入手が困難で貴重な香辛料で作られた料理の数々は、当初こそ味も香りも楽しめたが、それがひと月近く毎日続くとなると話は変わってくる。具材毎の小さな差異はすべて香辛料の海に沈み、伽哩という大きな渦に呑みこまれてしまう。けっして不味いわけではないが、肉だろうが魚だろうが野菜だろうが味はすべて伽哩味ということなのだ――まァ、要するにオレは――伽哩にいささか飽きていたのである。
そんなオレの思いを知ってか知らずか「これは感謝の気持ちだよ」と、ハキームは報酬の金貨が入った皮の小袋以外にも小瓶をひとつくれた。中には赤い粉末が入っている。当然ながら中身は香辛料なのだろう。
「この街に滞在中、何か困ったことがあったらいつでも訪ねてきてくれ。私にできることであれば力になるよ」
「ありがとう。そうさせてもらう」
オレは礼をいって〈カリムシャン街〉を後にした。眼前に広がるのは〈門外〉の活気あふれる無秩序な街並みである。
まだ陽は高く、太陽の昇り具合からすると正午前といったところだろう。今日の宿を決めるには少々早すぎる――と、グゥと大きな音をたてて腹が鳴った。そうだな、飯の頃合いだ。そう思って周囲の食い物屋らしき商店を見渡していると、オレの両の眼に懐かしき故郷の
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