第27話 寄生

 ゆっくりと、だけど明らかに不自然な足取りで、道の真ん中を目指して私は歩いた。


 殺虫剤を吹きかけられた虫が足をひきずってもがくように、自重に翻弄されながら銀色の輝きめがけて私は飛ぶ。


 そのとき、ようやく私は理解した。


 もしかしたら私は、羽化不全とか、以前の問題だったのかもしれない。


 そうだ、考えればわかることだ。私はそもそも、産まれた場所から間違えていた。この世に産まれ落ちたときに、この身体の中によくないものが入り込んでしまったのだ。


 そのよくないものは、身体から、脳へ侵入し、宿主の行動を制御する。


 私はとっくに、寄生されていたのだ。


 私に棲み着いた寄生虫は、痛みを感じたときに生じる脳の電気信号を食べて生きている。だから宿主が自ら痛みがある場所へ足を向けるよう、神経系を刺激して私を操作しているのだ。


 好きとか嫌いじゃない。私の頭の奥に棲み着いた虫に、そうなるように仕向けられている。


 今だってそうだ。


 まるでハリガネムシに寄生されたカマキリが水際にフラフラと近づくように、私はナイフを持った男に吸い寄せられるように向かっていっている。


 こうして足取り悪く、整然でない歩き方をするのはおそらく、私が獲物に食べられやすくするためなんだろう。鳥は動かない虫よりも、動く虫を好んで食べる。しかしあまりに機敏に動きすぎたら警戒されてしまう。


 だから、弱っているような動きを見せる。実際、この周辺で一番餌として適切なのは私だ。足も、視界も不自由。羽虫を一斉に十匹放ったとして、鳥が最初に食べようとするのは翅がもげて上手く飛べない個体のはずだ。


館羽たては、どこ行くの?」


 後ろから、瑠莉るりちゃんの声が聞こえた。だけど、鼓膜に届くばかりでその奥には伝導しない。頭にも、心にも。私が今一心不乱に目指しているのは痛みがある場所だ。


 男との距離は五メートルもない。男は私を見て、口元を歪めた。


 懐かしい。瑠莉ちゃんが初めて、私をトイレに連れて行ってくれたときも同じ顔をしていた。


 この人も、きっと上手に羽化できなかったんだろう。


 百人近く通るこの道で、私と、あなただけが上手に歩けていない。それがなによりの証拠だ。


 ナイフの刃渡りも充分。あれならきっと、骨の奥すら突き穿ってくれる。削り取られていく生命力を想像すると、緊張してきた。


 これから、しちゃうんだ。されちゃうんだ……。流れるのは冷や汗ではなく、身体を活性化させる潤滑油であった。


「止まって、止まって! 館羽!」


 つんざくような声が、街全体に響き渡った。


 瑠莉ちゃんは私の前に出ると、目の前の男を見据えていった。


「あんた、なんなの、なに、その、ナイフ……下ろして、下ろしなさい!」


 足が滑稽なほど震えていた。


 瑠莉ちゃんの背中に、溢れんばかりの恐怖が滲んでいる。


「館羽、下がって! 誰か、誰か警察を呼んでください! こいつ、刃物、刃物を!」


 止まることのない男の様相に、瑠莉ちゃんも後ずさる。


 周囲の視線が、男の手元に注がれた。鋭利な刃先になぞられるように、一気に緊張感で空気が張り詰める。


 しかし、男は止まらない。


 止まれない気持ちが、痛いほど分かる。


 止まらないのではなく、止められない。


 まばたきは、我慢できない。意識しようが、しなかろうが、瞳を潤すその行為に準ずる安堵と心地よさは、欲求の奥底に眠るものをこれでもかというほど駆り立てる。


 抗うことなど、できないのだ。


 ――瑠莉ちゃんの身体が揺れた。


 男と瑠莉ちゃんは、もう、ほぼ密着した状態だった。


 時間が、止まったかのような沈黙が夜の街に訪れる。


 男が瑠莉ちゃんから離れた。その手に、ナイフは握られていなかった。


 瑠莉ちゃんが、膝を着いてうずくまる。


 力なく丸まっていく背中に、白いシャツに、赤いものが滲んでいた。


「瑠莉ちゃん?」


 駆け寄って、瑠莉ちゃんに声をかける。


 瑠莉ちゃんは苦悶の表情を浮かべて、脇腹を手で押さえていた。


「あ」


 瑠莉ちゃんのお腹から、何かが生えている。


 ……違う。


 あの長くて鋭利なナイフが、誘惑するような銀色の輝きが、瑠莉ちゃんのお腹に突き刺さっているのだ。


 どんどんと広がっていく赤いシミは、すでにシャツの前面をほどんと埋め尽くしていた。


「館羽」


 瑠莉ちゃんと目が合った。曇り空のような瞳の奥に、灯籠のような光がぼやけて浮かんでいる。


「……怪我、してない?」

「うん」

「そっか……よかった……」


 瑠莉ちゃんの言葉尻には不規則な呼吸が混じっている。


 その息遣いは、私がよく知っているものだ。


 耐えがたい痛みに、身体が麻痺して、呼吸の仕方を忘れる。自分が今吸っているのか吐いているのかも分からないまま酸素を求める。意識は輪郭を失っていき、手足には痺れが混じりはじめる。


 ……羨ましい。


「君! 大丈夫!? 今救急車呼んだから!」


 通行人が、スマホを持って近寄ってくる。瑠莉ちゃんは「ありがとうございます」と言ったようだったが、後半はすでに消えかかっていた。


 人だかりができてきて、その中で瑠莉ちゃんはただひたすら身体を丸めて、ナイフの刺さった場所を押さえている。


「瑠莉ちゃん」


 そんな瑠莉ちゃんに、私は声をかける。


 きっと、今しかない。今じゃないと、聞けない。


「痛い?」


 その傷口に宿るものはなに? 血の抜けた身体が求めたのはどんな色? 心臓は鳴ってる? 体温が冷たくなっていくのを感じる? 状況が分からないまま刃物を刺されるのは気持ちが良い? まるで小さい頃見たアニメのヒロインみたいに絶体絶命の危機に瀕して苦悶の表情を浮かべながら助けを待つのはとんな気持ち?


「どう痛い? どこが苦しい? その痛みは1から10で言うとどれくらい? 教えて、お願い」


 瑠莉ちゃんの反応が鈍い。肩を揺らすと、近くの人に怒られた。


 だけど、答えてもらわなくちゃ、一生分からないままだ。


 だって、今、目の前で起きているのは、私がずっと、小さい頃から夢見てきた光景だ。もちろん私は当事者ではないけれど、少しでもその痛みの断片をかすめ取っておきたい。


「10、くらいかも……やばいくらい、痛い……」


 瑠莉ちゃんが、健気に答えてくれる。


「そうなんだ! や、やっぱり、一番痛いんだ!」


 興奮を抑えられなかった。


 打撃や圧迫を要する苦しみも捨てたものではないが、やはり、鋭い痛撃によって神経や肉を穿たれる瞬間の心地が人間が感じる痛みで最も強いんだ。


「瑠莉ちゃん、耐えられそう? その痛みは、我慢できるもの?」


 我慢できないのだとしたら、どうなるのだろう。我慢できない痛みとは、耐えきれず解放されてしまった正体不明のそれは、どこへ行き着くのだろう。やはり、死、なのだろうか。


「……我慢できるよ」


 瑠莉ちゃんは、不敵に笑って私を見た。


「だって、同じくらい。ううん、もっとひどいことを、私はしてたんだから……これくらい、我慢しなくっちゃ……」


 瑠莉ちゃんの手が、こちらに伸びてくる。


 血まみれのその指先が、私の右目に近づいてきた。


「刺されるのって……こんなに、痛かったんだね……」


 違う、そんなことが聞きたいんじゃない。


 私は、私がずっと求めていたものが辿り着く究極形を知りたいんだ。


 痛いのが好き。痛いのじゃなきゃ満足できない。痛み以外に興味がない。


 痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み。


 棲み着いた寄生虫が、脳裏で暴れ回っている。


「館羽……」


 その指が、その体温が。


 私の風穴に、そっと触れた。


「ひどいことして……ごめんね……」


 瑠莉ちゃんの目から、涙が零れる。


 その瞬間、心臓に、激痛が走った。


 意識を、脳みそごと洗浄されるような、強烈な白が目の前に広がる。


 なんだ、これ。


 痛い。


 胸が、痛くてたまらない。


 私が今まで感じてきたどんな痛みよりも強い。


 1から10では表現できない、強烈な痛みが心臓を蝕んでいく。


「……館羽?」

「い、痛い……」


 耐えられない。


 我慢なんかできるはずもない。


 どうしようもない痛みに襲われる。


 シャーペンを刺したときなんかよりも、傷口を火で炙られたときなんかよりも、耳を引きちぎられたときなんかよりも、ずっと、ずっとずっと痛い。


 こんな痛みがあったんだ、こんな、強い痛みが……。


 ナイフなんかきっと目じゃない。これこそが、きっと人間が抱く最強の痛みなんだ。


 だけど、なのに。


 全然、心地良くない。


「瑠莉ちゃん」


 嫌だ。


 こんな痛みは嫌だ。


 どうして? こんなに痛いのに。身体がバラバラになってしまいそうなほど、神経が焼き尽くされようとしているのに、心臓をかきむしりたくなるこの嫌悪感は、なんなんだ。


「死なないよね?」


 血が出続けているのか、それとも止まったのか、真っ赤なシャツの上からでは分からない。


「……わかんない」


 瑠莉ちゃんが光のない瞳で、虚空を見つめる。


 人だかりの中から、瑠莉ちゃんの身を案じる人も増えてきた。その中の一人が、瑠莉ちゃんのお腹に刺さったナイフを抜こうとする。


「抜いちゃだめ!」


 自分でも驚くくらい大きな声が出た。


 ナイフを抜いたら、血が出てしまう。塞き止められているものが、外に出てしまう。そうなったら瑠莉ちゃんは。


 遠くからサイレンの音が聞こえてきた。


 激痛に胸を押さえながら、私は地面に心臓ごと吐き出すように言った。


「死んじゃやだ」


 瑠莉ちゃんはどうしてか笑いながら、手を伸ばしてきた。私の頬に添えられた手が、撫でるように触れてくる。


 光を失った右目の奥に蓄積された液体が、ドクドクと外へと流れ出た。それを瑠莉ちゃんの指がすくいあげていく。


 瑠莉ちゃんの指先に浮かんだ水滴が、夜空の星々を反射するように光っていた。


 その水滴が、涙が、なによりの証拠であるかのように、翅を広げて空を目指す。


 ドロドロに溶けた身体が、いくつもの記憶と経験と、欲求と、本能を連れて肉体を形作っていく。


 目、鼻、耳。そして脳に詰まった異物を洗い流すように、瑠莉ちゃんの声が通り抜けていった。空洞となった血肉の中に、蠢くものはもういない。


 救急車が到着して、瑠莉ちゃんが担架で運ばれていった。


 遠ざかっていくサイレンを聞きながら、嗚咽を吐く。


 吐瀉物に混じった寄生虫の死骸が、瑠莉ちゃんの血の上で力なく横たわっていた。

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