第28話 墓石

 墓というものを信じ切れていないのは、きっとお墓参りという明確な理屈もない行事に、黒い服を着なければならないという謎の規則があるからだろう。


 死人からは黒がよく見えるようになるという科学的根拠があるならまだしも、そのような幽霊やら死人の魂やらの実態は解明されていないのだから、黒い服で揃える意味はないはずだ。そもそも国によって死人の葬り方が違うという時点で墓という代物の信憑性も怪しくなってくる。


 手を合わせるのも、お供え物をするのも。死人はお盆に帰ってくるという迷信も、信じることが常識であり、それに逆らい、疑問を抱くのは斜に構えていると捕らえられかねない。だから心の中でこの儀式に意味がないことを理解していながら、手を合わせる。


 合わせた手のひらの隙間に、滅びた命は何を見るのだろう。私も死んだら、いちいち手を合わせられるたびに墓の前まで呼び出されて黒い服を着ている人を探さなくてはならないのだろうか。そう考えると、お墓を作るという行為も面倒に思えてくる。


浅海あさみさん、そろそろバスが来るわよ」

「うん」


 空を見上げると、生憎の雨だった。


 墓石に水が滴り、地面に同化していく。


「降水確率九十パーセントの予報なのに傘を持ってこないなんて、浅海さん。あなたもしかして少ない確率の方を信じる人?」


 私の頭上だけ、雨が止んだ。くるるちゃんからビニール傘を受け取って、土に汚れた手を袖で拭いた。


「わあ、枢ちゃんありがとう。もしかして、わざわざ持ってきてくれたの?」


 透明だから、枢ちゃんの顔がよく見えた。水滴の中で、枢ちゃんは得意気に癖のある髪をかきあげて鼻を鳴らした。


「学校に置きっぱなしだったのを忘れてたのよ」

「あはは、忘れるよね、ビニール傘って」

「そうなの。けれど、おかげでストックは七つあるわ。不意の雨の日には、是非あたしを頼ってちょうだい」


 ということは、七回も傘を学校に忘れて、そのたびに家から持ってきていたということなのだろうか。枢ちゃんの生態が、また私の中で揺らぐ。


 最初は落ち着きがあって、大人っぽくて、いかにも秀才というような印象を受けたのだが。枢ちゃんはどうやら、今年の夏休みはその大半を補習で消費したらしい。英語の点数を聞いたら枢ちゃんは「七点ね」と得意気に言った。中学のときより点数がよくなっている傾向にあると枢ちゃんは説明してくれたが、私は乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。


「それは、お供えもの?」

「うん。好きだったんだ。多分」


 枢ちゃんと話しているうちに、向こうにバスがやってきているのが見えた。


 私は墓石を一度撫でてから、枢ちゃんとバスに乗り込んだ。


「雨の日は毛先が丸まるから嫌なのよ」


 枢ちゃんは前髪をつねりながら、窓に当たる水滴を恨めしそうに眺めていた。


 九月の雨が夏の余韻を洗い流し、もうじき到来する秋への準備を進めている。秋といえば紅葉、焼き芋、あとは、文化祭? それくらいしか思い浮かばない。久しぶりに感じる肌寒さをブランケットで覆いながら、降車ボタンの赤いランプをじっと見つめた。


「浅海さん」


 窓から見る景色に飽きたのか、枢ちゃんは頬杖を付いてこちらに顔を向けた。


「あなたのせいでは、ないからね」


 もう、何度お聞いたセリフだった。


 けれど、じゃあ誰のせいなんだと、宙に浮いた原因を手で掴もうとする。事故や天災でないのなら、そこには必ず何者かの意思と目的があったはずだ。その中に間違いが一つ紛れ込んでいて、それを見つけられなかったとき、悲劇というものは起きてしまうのではないだろうか。


 降りるバス停の名前をど忘れしていたら、枢ちゃんが先に降車ボタンを押してくれた。


 ありがとう、とお礼を言うと枢ちゃんは腕を組みながら「いいのよ」と言った。鼻が天狗みたいに伸びていた。表情は変わらないのに、どうしてこうも喜怒哀楽がわかりやすいのだろう。不思議な人だ。


 そんな枢ちゃんの背中を追って、バスを降りる。


「あれ、本当にここ?」


 周りには田んぼだらけで、かろうじて遠くに学校が見えるくらいだった。


「しまった……もう一つあとのバス停だったわね。仕方ない、歩きましょう。浅海さんはそれでも平気? 足が……まだ後遺症があるんだったわね」

「ううん、歩くくらいなら大丈夫だよぉ、気にしないでっ」


 枢ちゃんは私を気遣ってバス停の時間を見に行ってくれたが、次のバスが四十分後なのに気付いて肩を竦めた。


 結局、二十分ほど歩くはめになった。枢ちゃんは歩くのがとても早く、ツカツカと軽快にならす足音と共に、私からどんどん距離を離していく。


 私はほぼ走っているような状態で、枢ちゃんに付いていった。左側に映る枢ちゃんの横顔を見ると、妙な新鮮味を感じる。


 ああ、そうか。久しぶりなのだ、私の左側に誰かがいるのは。いつだって光を失った右側の役目を果たすように、歩いてくれていた誰かがいたから。


 ようやく目的の施設が見えてくる。


 その建物は、入り口から内装まで、白で埋め尽くされている。受付で案内を受けると、枢ちゃんと一緒にエレベーターに乗った。密室の中でえ、アンモニアのような香りが絶えず漂っていた。


 案内された部屋のドアを開けると、窓際のベッドにその人は座っていた。


「あれ、館羽たては? それに枢も」


 靴下を履き替えていた瑠莉るりちゃんが私たちに気付いて、嬉しさ半分、驚き半分というような表情を浮かべる。


 ……生きててよかったと思ったのは、私の倫理観がまだ欠け落ちていないからだろうか。


 命は惜しむべきで、むやみに散らすべきではない。悲しい終わりより幸せな結末を望む。それは私に備わった望みではなく、人間として、当たり前に思うことだ。


 だから、瑠莉ちゃんが生きていると知って、嬉しかった。


 安堵と共に吐き出す息は、きっとそのようなものなんだと思う。


 しかし、胸に詰まったもののせいで上手く言葉が出てこない。瑠莉ちゃんの元気そうな顔を見た途端、胃酸があがってくるような感覚に苦しくなる。


「何回連絡しても返事がないのだから直接来るしかないでしょう? 未読ならまだしも、既読にはなるんだもの」

「あー、いや、実は結構忙しくてさ。枢も警察の人とかとバッキングしたら嫌かなって」

「それで、悩んでいるあいだに、返信を忘れたと」

「考えている間に先送りになっちゃったんだよ。許して」

「別に責めてはいないわ。忙しかったのは、知っているから」


 通り魔に刺されたあの夜、瑠莉ちゃんは病院で処置を受けて一命を取り留めた。


 ナイフは肉を切りはしたが内臓までは達しておらず、軽い手術で済んだのだそうだ。


 通り魔はあのあとすぐに警察に取り押さえられ、同日起きた殺傷事件の犯人と同一人物であることが分かった。


 瑠莉ちゃんは入院が決まってからすぐに警察に事情聴取を受けたそうだ。それが終わったあとも新聞社やテレビ局の人たちから取材を受けていて、中々お見舞いに行く隙間がなかった。


 そのあたりの事情は、瑠莉ちゃんから直接メッセージで教えてもらった。


『生きてるよ』とメッセージを最初にもらったとき、心臓が強く跳ねたのを覚えている。それに対して、私はまだ返信をできていない。


 よかったね、というのも他人行儀がすぎる。ただ、庇ってくれたことに感謝はしていない。実際、私の邪魔をしたわけなのだから。そうやって堂々巡りにスマホの液晶に映るキーボードを眺めていたら、頭が痛くなったので返事はしなかった。


「でもまさか、二人してご登場とは思わなかった」

「私がお願いしたの。病院の場所も、生き方も分からないから枢ちゃんに相談して……おかげでなんとか辿り着けたよぉ。ありがとうっ」


 瑠莉ちゃんが目を丸くして、私の口元を凝視している。


「いいのよ。あたしも早く会いたかったから。本当、無事でよかった……」


 枢ちゃんは呆れたような、だけどその顔色からは心配の色が鮮明に見て取れる。友達として、心から安心しているのだろう。


 本来、瑠莉ちゃんの無事を確認できたとき、こういう反応をするべきなのだ。


 私はできなかった。


 瑠莉ちゃんが生きてる。


 それを知って産まれたのは、マグマのように、ぐつぐつとした何かだった。それは押さえていないとドロドロと吹き出すような危うさと、不安定さを持っていた。


「売店で飲み物買ってくるけど、二人は何がいい?」

「え、悪いよぉ」

「歩かせてしまったお詫びよ。遠慮はいらないわ」

「歩かせてしまったって?」

「あたしがバス停ひとつ降り間違えてしまったのよ」

「うわあ出た枢のポンコツ。館羽気をつけなよ、枢は頭良さそうに見えるけど普通にバカだから。あ、私はコーラがいい」

「コーラね。浅海さんは?」

「えっと、じゃあ……ウーロン茶で」

「了解。ボジョレーヌーボーね」


 そんなものを買ってこられても困るし飲めないしそもそも売ってるの? 言葉が追いつくより、枢ちゃんが退出する方が早かった。


 もう慣れっこなのか、瑠莉ちゃんは肩を竦めて笑っていた。


「えーっと、館羽」

「なに」


 私の声色が、ぼとっと病室の床に落ちる。


「来てくれてありがとう。実はちょっと寂しかった」

「そう」

「お母さんとは、どう? あれから」


 私は首を横に振った。


「知らない男の人が毎日来てる。だから夜は、家にはいられない」


 あの男の人が家に来るようになって、一週間が経った。だいたい来るのは夕方で、お母さんもそれぐらいの時間に一緒に帰ってくる。


 あの強い香水のにおいは変わらず、聞こえてくる下品な笑い声と不気味な笑い声の模造品はいつも家の中で響き渡っている。亡者がケタケタと蠢いているようで、地獄の様相に近かった。


 私は夜、あの駅にはもう行っていない。その代わり、時間まで近くの神社で寝ることにしている。瑠莉ちゃんの言っていた、もしものときは神様が助けてくれるという言葉を思い出したのだ。


 神様だって幽霊だって、信じていないわけじゃない。


 ただ、根拠がないから怪しんでいるだけで、本当は信じてみたい。いてほしい。


 だから私は、学校の裏の街路樹にアゲハチョウのお墓を作ったのだ。


 羽化不全を起こして死んでしまったアゲハチョウに、きっと意思や後悔なんてなかったはずだ。そう感じることをできる気管すら、心すら、なかったのかもしれない。


 蜜は最後まで飲めなかった。そうするべきだと諭される当たり前の生き方すらできなかったアゲハチョウだったが、それでも蛹から羽化して初めて部屋を飛び回っていたときの姿は楽しそうで、希望に満ちあふれていた。


 蜜が食べられないのはしょうがない。でも、葉っぱを食べるのがおかしいなんて、そう言い切ってしまうのも可哀想だった。だってあのアゲハチョウは、そういう風に生まれてきたのだから。そういう命だったのだから、そういう存在だったのだから、形状に従って生きるのは機械的と思われるかもしれないが、私はそれもまた、美しいと思った。


 お供えしたミカンの葉っぱを見て、死んだアゲハチョウはどう思っているのだろう。肉体が滅んだ今、葉っぱではなく蜜を摂取したがるのかもしれない。もしくは、たとえストローがあったとしても、葉っぱを欲したその本能は消えないのか。

 

「ねえ館羽。前も行ったけど、うちに来なよ。夜遅い時間に出歩くのはやっぱり危険だし、私の家なら、きっと両親も許してくれるはずだから」

「いいの?」

「館羽がよければ……だけど」


 行く当てなんかどこにもない。


 神様だって、きっと私を守るのに疲れた頃合いだろう。それに、この先なにかあるたびに神様とか幽霊とか、形のないものに頼るようでは、私の足取りすら煙のように不明瞭になってしまいそうだ。


「私、瑠莉ちゃんの家に泊まりたい」


 選択と呼べるほど強い意志決定があるわけではなかった。


 だが、あの日。


 瑠莉ちゃんの涙を見たとき、強烈に心臓が痛くなった。


 これまで経験してきたすべての痛みを凌駕しながら、心地よさは微塵も付いてこなかった。あの、強烈ながら不可思議な痛み。あの正体を知りたい。


 それはきっと、瑠莉ちゃんの中にしかない。


「瑠莉ちゃんがいい」

「あ、うん」

「今日泊まる」

「えっ? いや、私、まだ入院中だし」

「いつ退院するの?」

「えっと、明後日」

「じゃあ明後日泊まりたい」


 傾斜を転がるみたいに、瑠莉ちゃんに近づく。


 ベッドに腰掛けた瑠莉ちゃんは、仰け反りながら両手を突き出した。


「わ、分かった」

「絶対」

「……うん」


 病室の白に、瑠莉ちゃんの朱が加わる。


 枢ちゃんが売店から戻って来て、両手にはサイダーとほうじ茶が握られていた。どちらも微妙に外されていて、瑠莉ちゃんがベッドからずっこけそうになる。


 枢ちゃんの分は? と聞くと、枢ちゃんはキョトンとした顔で「忘れた」と言って売店に戻っていった。


 戻るなら、サイダーとほうじ茶だけでも置いていってくれればいいのに。


 瑠莉ちゃんの言う通り、枢ちゃんには高価な装飾がされた、中古の家具みたいなギクシャクさがある。


 そんな枢ちゃんが消えていった廊下を眺めていたら、隣からくすっと笑い声が聞こえた。


「おかしいよね」

「うん」


 瑠莉ちゃんももしかしたら、同じようなことを思っていたのかもしれない。


「お母さんとのことは、ゆっくり考えよ」


 そっと、私の頭に手が乗せられた。


 柔らかいその温もりは、この充満したアンモニアの香りが融解させていくようだった。


「瑠莉ちゃん」

「ん?」

「前みたいに、抱きしめて」


 羽化不全も、トイレで産まれてしまった私の命も、きっと間違えではない。


 だけど、この病院で、アンモニアの香りに包まれたこの空間の中で。


 温かい感触の中、涙と笑顔に囲まれながら、その誕生を祝福されてみたかった。たくさんの人の想いを受け取ってこの世に産まれ落ちていたのなら、と、今更取り戻しようもない妄想をしてしまう。


 瑠莉ちゃんは私の頭をそっと抱き寄せると、ゆっくりと後頭部を撫で上げる。


「館羽はこれ、好き?」

「好き……かどうかは、分からない」

「そっか」

「でも、温かい」


 瑠莉ちゃんの体温を感じていると、まだ幼虫だった頃の私。


 未来のために、必死に葉っぱを食べていた頃の自分を思い出して、目尻が緩くなる。


 お母さんからもらった、最初で最後の宝物は、もしかしたらすべて私の勘違いで、ありもしなかった過去の憧憬なのかもしれない。それを確かめる術は、今の私にはないけれど。


 こうして瑠莉ちゃんに抱きしめてもらっている間は、あの記憶も、思い出も、やっぱり確かに、そこにあったんじゃないかと信じることができる。


 この温かさは、鮮烈で痛烈な、全身を焼き焦がすほどの痛みという感覚にはほど遠いけど。


 焼き爛れた皮膚が付着するように、離れるには大きな痛みを伴うのだった。


 

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