第26話 希望

 瑠莉るりちゃんが来たとき、声をかけられたわけではなかった。


 ただ、聞き慣れた足音が、こちらに向かっている独特のリズムが、小学校の頃から何一つ変わっていなくて、顔をあげたらそこに瑠莉ちゃんがいた。


 汗で前髪が額に張り付いた瑠莉ちゃんは、ベンチに座る私を見つけると一直線に歩み寄ってきた。心配するような瞳の色とは裏腹に、キツく締められた唇は怒りに震えているようだ。


「瑠莉ちゃん……」

「どうしたの、こんな時間に」


 瑠莉ちゃんはシャツにハーフパンツと、軽装だった。手にはスマホ、膨らんでいるポケットにはきっと財布が入っているのだろう。手元には当然、鋭利な銀色は見当たらない。


 落胆と、それに準ずる平静が、口元から漏れ出る。


「ダメだった」

「ダメ? どういうこと?」

「今日、お母さんと話をした」


 目線を下に落とすと、瑠莉ちゃんのスニーカーが視界の端に映る。


 緊張を伴う沈黙が、隣から伝わってくる。


「それで、たまに、帰ってきてほしいって言った」

「そっか、ちゃんと言えたんだね。偉いよ」

「でも、お母さんは反対に、私を家から追い出した」

「……なんで? 意味が分からないんだけど」

「私も、わかんない。ただ、知らない男の人が家に来て、それで……九時過ぎるまで家には帰ってくるなって。だから私、時間潰すためにここへ来たの」


 淡々と事実だけを伝えているはずなのに、私の声にはそれ以外の何かが乗っているかのような鈍重な響きが混入していた。


 夜の街から、笑い声が聞こえてくる。


 そういう、人間としての輪。家族としての繋がり。存在を証明するかのように街を照らす照明の中に、私は含まれていないんだと思うと膝の上に置いた手のひらが自然と拳を作っていた。


「それで、蝶のヘアピンのことも、聞いたの。だけど、お母さん、覚えてないって。そんなもの知らないって……」


 続く言葉が、見当たらない。だからなに? だから、私は、何を感じて、どう思った?


 言われたあの瞬間、背筋が凍るような、全身の血液が一斉に奥へと収納され出てこなくなったかのような、強烈な虚無感に襲われた。


 お母さんの後ろ姿に、恐怖すら覚えた。防衛的な危機管理ではなく、ただ絶えず放浪する存在価値と、生かされ続けた時間に見合わない興味の矛先にえもいわれぬ違和感がこびりついて離れなかったのだ。


「瑠莉ちゃんの言った通り、ちゃんと話したのに」


 やはり、病院で産まれていないと、正常な誕生はできないのかもしれない。臍の緒を無理矢理引きちぎられたときに、私とお母さんの間にある大切な何かも、一緒に裂かれてしまったのだ。


 施すもの、授けるもの。その全てを便器の奥へと洗い流し、生まれた私は、実際のところ普通ではなかったのだからその証明にはなっているはずだ。


館羽たては


 私の手に、瑠莉ちゃんの手が重なった。


 手汗でじっとりとしている。まるで互いの肌と肌が、求め合うように吸着する。


「瑠莉ちゃん、私……帰れない」

「うん」

「帰りたくない」

「……うん」

「だからね」


 帰る場所がないのなら、作ればいい。


 居場所というものは、失ったときに補うものであって、常時そこにあるべき救済装置ではないのだ。


 大丈夫、私には瑠莉ちゃんがいる。


 手を握り返して、瞳を見つめる。


「刺し殺して」


 水面に揺らぐその月の光を追う。


「シャーペンなんてもういいから、ナイフで、私を刺して欲しい。血が飛び散っても、やめないで。ザク、ザクッて、鉱脈を掘り進めるみたいに肉を切り裂いて抉ってほしい。骨に直接刃が当たるまで、徹底的に刺して、苦しめてほしい」


 どうせ、この身体に流れる血になんの思いも含まれてはいない。なら、全部出してしまえばいい。全部全部排出して、噴水みたいに吹き上げて、赤黒いその血と一緒に痛みを欲するこの抗いがたい本能をかきだしてほしい。痛みというものを感じないように神経を取り除けるのなら、血を抜いたっていいはずだ。


 きっと全身が冷たくなった頃、私はようやくそこで、羽毛に横たわるような心地よさを手に入れる。


「腕がもげ落ちたっていいから、首から血が噴き出してもいいから。全身全霊の殺意で、本気で私を思ってほしい。そこのホームセンターでナイフが買えるから。さっき下見したの。ほらっ、行こうっ」


 死にたくなんかない。でも、痛みの先にある究極の進化形が命絶えることであるならば、それを受け入れるしかない。私が魅入ってしまったのは、そういう代物なのだから。


「私、瑠莉ちゃんになら殺されてもいい」


 真っ白い個室で産声をあげてから、一度も吹き抜けるこのなかったこの密閉された命に風穴を開けてくれたのは瑠莉ちゃんだ。あの日、私の右目を穿ってくれた銀色の先端が、一陣の風を吹き上げ、散り積もっていた花びらの残骸を吐き出してくれた。


 瑠莉ちゃんのおかげで私の人生は始まったのだから、その瑠莉ちゃんに殺されるのは自然の道理であるはずだ。


「バカ言わないでよ」


 瑠莉ちゃんは立ち上がると、私の手を引っ張った。


 地上にあげられた瞬間、靴の中に雪が入ってきたかのような冷たさを足の裏に感じた。


「お母さんとのことは、残念かもしれないけど、でも、何か、事情があるんだよ。それはしょうがないことで、でも、今だけかもしれないから、だからっ、館羽が、大事にされてないとか、そういうわけじゃ」


 ああ、きっと瑠莉ちゃんは、その手を汚さないための詭弁を必死に探しているんだろうな。


 何度も壁に当たりながら、方向を変えて、言葉を選んでる。でも、そのどれもが根拠のない綺麗事であった。信憑性の高い現実的な解決案ではなく、ただの感情論だ。


「私の家、行こ」

「瑠莉ちゃんの家?」

「事情を話せば泊めてくれるはずだから。もし親がダメって言っても、内緒で入れば平気だし」


 ぐんぐんと進んでいく瑠莉ちゃんの歩幅に合わせることができずに、私はつまずいて片膝を着いてしまう。


「ご、ごめん館羽」

「ううん」


 カクン、と力なく折れる膝に手を当て立ち上がろうとしたそのとき。


 ――私の視界に、光が灯った。


 それは、この世界に差した一筋の希望。耐えがたい苦悶から私を解放してくれる唯一の手段であり、それを完遂できる武器であった。


 周りの人も、瑠莉ちゃんも、きっと気付いていない。気付いているのは私だけだ。私だけは、この街に来てからずっと、それを探してた。


 瑠莉ちゃんに虐められているとき、シャーペンを刺されるのが好きだった私は、いつも瑠莉ちゃんの手元を確認していた。その長い指先の間に、鋭利な銀が見えると私は身体を熱くしながらこのあと始まるであろう行為を想像し、興奮していた。


 ああ、あれで刺すんだ。刺してもらえるんだ。


 お願い、早くトイレに連れて行って。


 だからずっと、人の手元を見るのが癖になっていた。目の前にいる人が、私を傷つけることのできる人なのかどうか。その手に、武器は握られているか。


 そうやって長い間鍛えてきた、洗練された、視線が、たった一つ、残された光である左目が。


 前からこちらに歩いてくる、フードを被った男の手元で光る、鋭利なナイフを確かに視認した。

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