第21話 蓄積
ホームルームが終わって、カバンに教科書を詰めていると
「帰ろ、
差し伸べられた手のひらと、浮かんだ笑顔を一瞥して、私はカバンを肩にかけて席を立った。
私が廊下に出ようとすると、瑠莉ちゃんが割り込むように先に出る。出る順番になんの意味があるのだろう。廊下を歩きながら、瑠莉ちゃんの横顔をジッと見つめた。
「この前オススメした曲、聴いてくれた?」
顎の輪郭をなそるように垂れた髪が、瑠莉ちゃんの顔の動きに連動するように跳ねる。
「聴いてない」
そして私の声は、跳ねることなく地に落ちた。
どうしてだろう。最近、喋り方を忘れたような、口から出る言葉が自分のものじゃないような感覚に陥る。
「そっか、思い出したときでいいよ。絶対聴けーってわけじゃないし。それになんか、あれだよね、あんまり熱烈に布教されると逆にドン引きされる現象? みたいな? あるよね、そういうの」
「知らない」
頭に靄がかかったみたいだ。適切な単語が霧にかかってぼやけてしまう。
階段を降りようとして、右足がガクンと曲がった。力が入らなかったのだ。転ぶ、と思ったときには瑠莉ちゃんに脇を抱えられていた。
「ゆっくりでいいよ。手すり、捕まって」
たった一回、右足が上がらなかっただけだ。それなのに、瑠莉ちゃんは私の一挙手一投足に目を見張り、まるで介護するように足並みを揃える。
部活動中のバスケ部員が、ドリブルをしながら階段をあがってきた。昇りながらドリブルできるのすごくねー? とはしゃぎながら、こちらに近づいてくる。
瑠莉ちゃんは足を止めて、私の身体を覆うようにした。その間、跳ねているボールの行方を細めた目が注視している。バスケ部員が通り過ぎると、瑠莉ちゃんが私から離れた。
校門を出て、また瑠莉ちゃんが道を先行する。そのときに、瑠莉ちゃんが常に私の右側に位置しようとしているのが分かった。
「そういうの、いいよ」
感傷に浸られている気分になって、奥歯が軋んだ。
飛べない雛を介護する人間の自分勝手な笑みを思い浮かべて、怖気が走る。何かを救うことで自分が救われるなんて、薄気味悪い。じゃあ、救われた側は出汁に使われただけじゃないか。味の染みこんだエゴは、箸で突けば崩れてしまうほどに脆い。
「病院食って薄いって聞くけど、どうだった?」
私の言うことなんか無視して、瑠莉ちゃんが会話を始める。
セミの死骸が混じる街路樹の下を歩きながら、私は自分のつま先を見下ろしていた。
「薄かった」
「そっかぁ、やっぱり塩分とか気にするとそうなっちゃうのかな。でも、怪我で入院してる人の分は別にいいじゃんねーって思う」
「それは、そうかも」
「どういうのが出たの? カレーはさすがに出ないか」
「肉じゃがは、出たかも。あと焼き魚とか」
「あー、肉じゃがは出るんだ」
「瑠莉ちゃんの作ったやつのほうが美味しかった」
病院で食べた肉じゃがには甘味が含まれおらず、ほぐれたじゃがいもから微かに香る土の風味を感じる料理に風変わりしてしまっていた。
あれなら瑠莉ちゃんの作ってくれる肉じゃがのほうが美味しい。
「……そっか」
ブラウスのリボンをいじりながら、口を尖らせる瑠莉ちゃん。何かを堪えるように目尻がピクピク動いていた。
家に着くと、瑠莉ちゃんが玄関の前で立ち止まった。「それじゃ」と口走った瑠莉ちゃんが、手を後ろに回してかかしのように左右に揺れる。
「あがっていけば」
自分でもどういう感情か分からなかった。心底めんどくさそうに、瑠莉ちゃんを家に招き入れる。瑠莉ちゃんはつま先を浮かせて、背筋をピンと張った。
「じゃあ、お邪魔しようかな」
はにかむ顔の奥底には、きっと期待のようなものが含まれていたんだと思う。安堵したような表情で、瑠莉ちゃんが玄関で靴を脱ぐ。
「ねぇ、館羽」
部屋に入るなり、瑠莉ちゃんが私の名前を呼ぶ。
クッションを丸机の横に置きながら「なに」と雑に返事をした。
「変われないって、昨日、言ってたけど」
風が吹いたのか、それとも私の相づちだったのか。微妙な音が部屋を流れた。
「瑠莉ちゃんはさ、やめてほしいんでしょ。痛いこと」
用意したクッションに瑠莉ちゃんが座る。私も向かいに腰掛けて、ベッドに背を預けた。
「うん、やめてほしい」
曖昧なものを捨て去った、きっぱりとした口調と共に瑠莉ちゃんが頷く。
「でもさ、痛みは私にとって大切なものなんだよ。それを瑠莉ちゃんは奪うの?」
「そうだよ」
「また飛び降りちゃうことになったとしても?」
「もう飛び降りさせない」
「するよ、絶対。だって痛みは、私が摂取しなければならないものなんだから」
「どういうこと?」
瑠莉ちゃんはまだ、分かっていないようだった。人間が、生き物が、どうやってこの世界を生きていくのか。産まれてから死ぬまで、どういったプロセスを踏み抜いて歩いていくのか。
私は窓際に置かれていた虫かごの蓋を開けた。
瞬間、土が腐ったような香りが舞い上がってくる。手招きすると、瑠莉ちゃんも近づいてきて、眉間にシワを寄せた。
「これ、瑠莉ちゃんが飼ったら? って言ってくれたアゲハチョウ」
「……これが?」
もう死んでから、二ヶ月くらい経過しただろうか。すでにアゲハチョウの死骸は黒くくすみ、頭部や足は腐って落ちていた。胴体からは肉感が消え、ぶよぶよとした皮が伸びるように垂れている。
「頭が変でしょ? これ、羽化不全って言って、蛹から成虫になるときに外からの衝撃とか、ホルモンの異常で起きるものなの。このアゲハチョウはね、蝶になっても頭が幼虫のままだった」
瑠莉ちゃんは直視できないのか、目を違うところに逸らしている。
「幼虫の頭ってことは、ストローがないから蜜を吸えないでしょ? 代わりに葉っぱを食べるしかないんだけど、でも胴体は成虫だから葉っぱを消化できない。その結果、こうやってお腹をパンパンに膨らませて、死んだの」
「それと、館羽の何の関係があるの」
「私たちって、今、蛹の状態なんだよ」
虫かごに蓋をして、元の場所に戻る。
「心も体もドロドロの状態。これから成虫になろうっていう大事な時期。でもそこでね、障害が発生すれば当然、成虫になるときに羽化不全を起こす。小学校中学校の頃は幼虫で、今が蛹。大人になる準備をしているこの段階で問題が生じてるってことは、どう足掻いても形を保ったまま羽化できないの」
「館羽が言いたいこと、よくわかんない」
「だから、無理なんだって。私はもう、おかしくなってるの。蛹の段階で、痛みなんて普通の人が避けて通るものを欲してる。私の身体や心を形成するドロドロの液体に、よくないものが混じってる。そんな私が成虫になったときのことを想像してみて? 死んだアゲハチョウみたいに、どこかがおかしい状態のまま、社会に出なきゃいけない。蜜を食べろと言われても、私は食べられなくって、じゃあ何を食べるかって言われたら当然、葉っぱでしょ?」
私はお腹をさする。きっといつか、パンパンに膨れ上がるであろう、正常な胴体。
「同じなんだよ、人間も、昆虫も。蛹の頃に間違えてしまったら、もう戻れない。いくら痛み以外のものを愛せと言われても、それを摂取する気管がないの。……私の言ってること、分かってくれた?」
瑠莉ちゃんは手元のマグカップをじっと見て、口をキュッと締めている。
私は芳醇な香りの紅茶を喉に流し込んで、息を吐く。
「館羽の言ってることは、わかった」
「本当? じゃあ、もう変えようなんて思わないでね」
虫かごも、アゲハチョウも、いつ処分しようか考えながら、ベッドにもたれかかる。
「というか、瑠莉ちゃんだって例外じゃないんだよ? 瑠莉ちゃんは、平気で人を虐めることのできる人間でしょ? 幼虫の時点でね、瑠莉ちゃんは普通じゃないものを食べて生きてたの。加虐を幸せと捉えて生きてきたわけ。瑠莉ちゃんの中にはね、今小さい頃に蓄えたドロドロの黒い栄養素がたくさん詰まってる。蛹になったとき、そのドロドロが身体を溶かして、成虫の身体を形作る」
薬物の付いた葉っぱを食べて育った幼虫は、蛹になると死ぬか、羽化不全を起こす。身体が黒くなるので、薬物を摂取してきた幼虫は蛹になると一目で分かる。そして、瑠莉ちゃんも同じだった。
普通の人にはできないことが、瑠莉ちゃんにはできる。
「右目を潰したでしょ? それから、首も絞めたでしょ? あとは水に顔を突っ込んで溺れさせようともした。あとは、あ、ピアスも引きちぎってくれたよね。……ねぇ、よく考えてみてよ。それって普通、断るよね? 断らないってことは、瑠莉ちゃん普通じゃないんだよ。もうとっくに、黒ずんでる。ほら、胸に手を当ててみて。思い当たる節があるでしょ? 普通じゃないんだって」
これを言ったら瑠莉ちゃんが悲しむだろうから、今まで言わなかったけど。でも、もう瑠莉ちゃんの機嫌を取る必要もないのだ。
瑠莉ちゃんは私の言った通り胸に手をあてて、目を閉じた。
「うん、普通じゃない」
「そうだよ、瑠莉ちゃんは小学校の頃から本質的な部分では変わってない。じゃあ、大人になっても変わらないよね? 自分の求める本能的な欲求は、変えることができないものなの。だからもう、私を変えようなんて思わないで」
「でも、私は、昆虫じゃないし、館羽だって、そうでしょ」
なんで分からないのか、見下すようなため息が、お腹の奥から噴出される。
「そもそも、痛みは私が私を慰める唯一の手段なの。これが幸せなの、これじゃなきゃダメなの」
「だからって、自分を傷つけていいわけじゃない」
「そうだよ、私だって自分でなんかしたくないよ。誰かにやってもらえたらどれだけいいか。本当は瑠莉ちゃんにしてほしいよ。でももうしてくれないんでしょ? じゃあ、自分でまかなうしかない」
「それ以外の方法が絶対あるはず。痛みじゃなきゃダメなんて、そんなことあるわけないよ」
外から受ける暴力的刺激は、決して自分では手には入らない。分かっていながらも、それに限界まで近づいて、似通った感覚を探す。まるで誰かにしてもらっているような、そんな感覚を、何も見えない暗闇の中を正解かどうかも分からないまま手探りで進むしかない。
「そんなに言うなら教えてよ」
「え?」
「痛み以外に、何を幸せと思えばいいのか」
「それは……」
「瑠莉ちゃんにもあるんでしょ? 私にとっての痛み。他人から受けるべき刺激を、自分の手で消化する手段、開いた隙間を埋めるための行為が」
瑠莉ちゃんは手を腰の近くまで持っていって、そこで止まった。
「ある、けど」
「じゃあ、見せてよ」
「え、でも……」
「どうすればいいの? 痛み以外に、どうやって自分を満たせばいいの? いつも瑠莉ちゃんはどうやって自分を慰めてるの? 目の前で、見せて、教えてよ」
痛みなんかが人を満たすことはできない。そんなの分かってる。分かってるうえで、身体が求めるのだから、回避のしようがない。
もしそれを塗り替えるほどの行為があるのなら、それが正常であるのなら。
「どうすれば……ちゃんとした大人になれるの」
教えてほしい。
震えた声が、行き場所を求めて空を彷徨う。ふらふらと、迷いながら辿り着いたのは、瑠莉ちゃんだった。
視界が一瞬ぼやけて、前が見えなくなる。
羽化不全を起こしたアゲハチョウなんて、私だって見たくなかった。だけど、それが生き物として、絶えることなく生まれ続ける命の代償として、仕方がないものだから受け入れた。
これだけ命が産まれる回数が試行されているのだから、エラーが起きるのも確率的に仕方が無いことで、そのエラーの中に自分が含まれているのは、避けることができない現象だ。
でも、もし、すべての命が平等になれるのなら。羽化不全なんて起きえない世界になってくれたら、きっとそっちのほうがいいに決まってる。
しょうがないんだ。
諦めるしかないんだ。
胸の奥で湧き出るものを、しらみつぶしに消していく。
もしかしたら、という希望ほど絶望に近いものはない。
だから潰す。潰すと、ぐちゅぐちゅと汁のようなものが湧き出てくる。行き場をなくしたその液体は、もう光を失った、右目の奥に蓄積されていく。
「……分かった」
瑠莉ちゃんはそう言うと、リボンを解いて、ブラウスのボタンを一つ一つ外していった。
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