第20話 死神
包丁を太ももに刺してみたが、目の前で起きている光景と自分の感覚に齟齬があった。
どう考えても刃先は肉を穿っているはずなのに、痛みはまったくやってこない。それどころか、何かが触れているという感覚さえなかった。
歯医者で麻酔をかけられたとき、歯が浮くような感覚と共に血だけが口から吐き出されたのを思い出して、それに近いなと赤く滲んでいく自分の右足を見た。
感覚麻痺とは、つまり痛覚すらも和らげる。もし、
こうやって一つずつ、奪われていくのか。
頭だけが幼虫だったとしても、それは直接的な死因ではない。合併するその他の事実が、生きることを蝕んでいくのだ。
こうやって、痛みのハードルが上がっていき、より強いものを求めはじめ、そして、自分でも気付かないうちに生命を脅かすほどの痛みに手を出す。まるで死神が手招きしているように、私の身体は部分的に失われつつある。
最初は右目、次に右足。次はなんだろう。右手か、それとも、声か。ピアスを引きちぎったことも考えると、聴力の可能性もある。
不自由を幸せと捉えたことなんか一度もない。生活に不便が生じると困るし、身体が動かなくなるのは当然怖い。
できることなら、危ないことなんかやめたいに決まってる。
だけど、気付いたらやってしまうのだ。まばたきを、我慢できないように。
リビングのテーブルに、三万円のお小遣いが置いてあった。今月は、いつもよりちょっと多いようだ。手にした紙幣は、冷房が当たっていたせいか、ひどく冷たかった。
久しぶりの登校に、クラスのみんなはお祝いの言葉をかけてくれた。昨日話したばかりの瑠莉ちゃんは、じっと私を見ている。その瞳の奥の困惑と迷いが、私という種から発芽したのはすぐに分かった。
「って、うわ、
クラスメイトに言われて初めて気付いた。
血管のように足を這う血の出所は、スカートの中だった。そういえば、朝に包丁を刺して、処置もしないまま学校に来てしまった。
「そうだね」
本当だ気付かなかったぁ。
いつものように喋ればいいだけなのに、喉の筋肉が弛緩したように動かない。体たらくで、なんの意識も繋がっていない声が泥のように口からこぼれる。
クラスのみんなが互いに顔を見合わせて、怪訝な表情を浮かべた。
「
いつのまにかこちらに来ていた瑠莉ちゃんが、肩を落としてため息を吐いていた。
なんのことか分からずに、首が肩に落ちる。
「前もそれで足切ってたでしょ。館羽の通学路にショートカットできる道があるんだけど、整備されてないせいで草がボーボーなの。だからたまに切っちゃうんだよ。なんで紙とか草で切ったときって、全然痛くないんだろうね」
瑠莉ちゃんが私の前に立って、説明するように言う。クラスのみんなは「わかるわー、絆創膏もらってきなよ」と納得したように各々が席に戻っていく。
「そうする。館羽、保健室行こ」
瑠莉ちゃんの手に引かれて、私は廊下に出た。
「さっきの、なんのこと?」
保健室に直行する瑠莉ちゃんの背中に問いかける。
「館羽は気にしなくていいよ。ただの嘘だし」
「よくあんな嘘がペラペラ出てくるね」
まるで昨日あったことを話すみたいに、その語り口に淀みはなかった。
「……誤魔化すのは得意だから」
自信というものが一滴も入っていない声のままそんなことを言われても、どう称えればいいか分からない。そもそも、誤魔化すのが得意な人間というものは、褒め称えられるべきなのだろうか。
保健室は朝から開いていた。ちょうど先生はお湯を沸かしているところで、瑠莉ちゃんが声をかけると「お好きにどうぞ」と返ってきた。
丸椅子に座って、私はスカートをめくる。
やはり、太ももから血が流れていた。とはいえもう止まっているらしく、足を這う血もすでに渇ききっている。
瑠莉ちゃんが濡れたハンカチで私の足を撫でていく。その際に太ももに手を添えられたが、冷たくも、温かくもなかった。
「やっぱり、自分でやったんだ」
太ももに出来た傷を、何故か恨めしそうに見る瑠莉ちゃん。瑠莉ちゃんが付けた傷だって、まだそこかしこに痕として残っているのに、何故そんな表情ができるのか疑問で仕方がなかった。
「でも、意味なかったよ」
窓の外を眺めながら、肩を落とす。
「全然痛くなかった」
「痛いでしょ、こんな深く刺したら」
「痛くないよ。感覚があんまりないから」
そう言うと、瑠莉ちゃんが渋い顔で私を見上げる。
ああそうか。瑠莉ちゃんにはまだ言ってないんだ。
「落ちたときにね、首を打ったの。そのせいで、右足の太ももに麻痺が残ってるんだ」
「それは……大丈夫なの?」
「いつも通り歩けるよ。でも、たまに転びそうになるから、まだリハビリはいるって先生が」
松葉杖とかはいらないし、と両手をあげて開閉する。しかし瑠莉ちゃんの表情は土砂降りのまま晴れることはなかった。
「今日、ホームルームが終わったら教室残ってて」
「なんで?」
「一緒に帰ろ」
そういうときだけ、瑠莉ちゃんは私の顔をみない。代わりというべきか、太ももに絆創膏をゆっくり貼ろうとする手は、プルプルと震えていた。
面倒ごとが増えたな、と思った。
一緒に帰ったところでなんの意味もないし、瑠莉ちゃんを家に呼んだところでするのは、音楽の話くらいだ。瑠莉ちゃんに教えてもらっていた音楽も、もう最近は聴いていない。
そもそも、音楽をいいと思ったことなんか一度もない。私はただ瑠莉ちゃんに話を合わせて、瑠莉ちゃんの機嫌を伺って、私のお願いを聞いてくれるようにお膳立てしていただけなので、正直音楽の話をしていても楽しくない。
「わかった」
それでも瑠莉ちゃんとの約束を断らないのは、一縷の希望があるからなのだろう。
もし手足を拘束されて、精神病棟に隔離されたら、私は同じ手口を使う。
言うことを聞いているうちに、あちらが先に折れてくれるかもしれない。
木の葉に絡まるように擬態して。
私は、瑠莉ちゃんのその優しい瞳の奥に再び黒い炎が灯ってくれることを、ひたすら待ち伏せている。
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