第19話 余熱

 

 私が病院ではなくトイレで産まれたのだと知ったのは、両親から離婚を告げられる前夜、お父さんがそのようなことを話していたのがリビングから聞こえたからだ。


 産んだからには育てろとか、そんなようなことを言っていたのだと思う。トイレで産まれることの何が悪いのか当時の私には分からなかったけど、次第にそれが普通ではないことに気付いていった。


 普通の産まれ方をしなかったから、普通にはなれなかったのだろうか。病院で産まれてさえいれば、私はちゃんとした形を保って、翅を広げられたのだろうか。


 けれど、お母さんは私をちゃんと育ててくれている。家に帰れば必ずご飯はあるし、貰っているお小遣いが周りの子の何倍もあることも知っていた。


 甘やかされている自覚はある。お母さんは優しい。生活に困ったことなど一度もない。


「退院までの間に業者さんを呼んでリハビリ用の道具を家に取り付けてもらうわ。先生に話を聞いて、一人で出来るリハビリをこのノートにまとめたから。分からなかったらこれを読みなさい」


 私は病室のベッドに横たわっていた。


 病院はどこもかしこも白色に埋め尽くされていて、空気を吸えば肺にアンモニアの香りがなだれ込んでくる。居心地はあまりよくなく、これなら私は、トイレで産まれたほうがいいなと感じていた。


「お母さんもう戻らなきゃだから、他に分からないことはないわね?」

「うん。ありがとうお母さん」


 赤いドレスを着たお母さんは、病室で浮いていた。色彩も、そのバラの香りも、世界を穿つ特異点であるかのようだった。


 入院してから三日が経った。


 窓から落ちたあと、私は病院に運ばれた。


 目を覚ましたころにはすでに点滴が繋がれていた。担当医師の話によると、私の怪我は全治二週間。頭からは出血していて、MRIで特に目立った異常は見当たらなかったが、経過観察のために一ヶ月の入院が必要とのこと。


 落ちたときに首を強く打っていて、もしかしたら手足のどこか麻痺が残るかもしれないと言われた。


 担当医師の説明通り、私の右足には麻痺が残っていた。歩けないほどではないが、ふとした拍子に足があがらず転んでしまうことが多い。麻痺は一生残るかもしれないが、リハビリによってこれまで通り歩くことは可能になるそうだ。ただし、感覚が残っている左足に比べて筋肉量が落ちやすいので毎日のマッサージが必要なのだそうだ。


 リハビリ内容はマッサージの仕方などは、お母さんがノートにまとめてくれた。先生の話を聞くお母さんの顔は真剣そのもので、漏れがないよう何度も先生に質問を投げかけていた。


 入院して一週間が経つと、担任の先生とクラスの子たちがお見舞いに来てくれた。すでに夏休みに入っているということもあって、みんな私服姿だった。


「心配させてごめんね。私、うっかりしてて」

「うっかりしすぎだよー! 浅海あさみさんが落ちてきたとき、心臓止まるかと思ったんだから!」


 静かな病室に鳴り響くクラスメイトたちの声だったが、看護師さんたちは黙認してくれていた。私が大事に至っていないことを知ると、クラスメイトたちは花束を残しホッとした様子で帰っていった。


瑠莉るりちゃんも、来てくれてありがとう」 


 お見舞いに来たクラスメイトの中で、瑠莉ちゃんだけが一言も喋っていなかった。ただ、病室のベッドで横たわる私と目が合ったとき、瑠莉ちゃんの瞳は曇りガラスのようにぼやけていた。


 瑠莉ちゃんは何か言おうとしたが、廊下のクラスメイトに呼ばれたことで震えた唇は再び閉ざされてしまった。


 退院当日。すでに夏休みは終わり、セミの鳴き声も鳴りを潜め始めた頃だった。迎えに来てくれるはずのお母さんは仕事が忙しく、私は一人で家に向かった。


 入院中もリハビリは続けていたものの、まだ右足、特に太もものあたりの感覚が曖昧で、時々転びそうになることがある。


 よろよろと帰りながら、ふと、私は道路を一瞥した。


 窓から落ちて、分かったことがある。


 私は何も、意識が飛ぶほどの激痛ならなんでもいいわけではないらしい。重力によってもたらされた神経を焼き尽くすような感覚は、強烈ではあったが心の奥底に眠るものを歓喜させるほどではなかった。


 もしかしたら、人の手が加わっていなければダメなのかもしれない。


 抵抗むなしく散る姿、懇願が聞き入れられない理不尽な状況、無様なほど傷つけられた身体に、血反吐を吐きながら頭を押さえつけられる屈服感。それらを伴う痛みでなければ、私の空いた隙間は満たされない。


 青信号になったのを見計らって、私は道路に飛び出してみた。


 重力は人の手が加わっていない。だけど、車なら? 人が運転している、アクセルを踏み抜く、その工程は、私が望むものにいくつか一致している。


 陽が長くなった夕方に、目がくらむほどの光が点滅した。


「ちょっと、危ないよ。どうしたの?」


 車は、私を轢いてくれなかった。


 私の目の前で停止すると、車から一人の女性が出てきて、心配そうに私の身を案じてくれた。


 どうして、アクセルを踏み抜いてくれないのだろう。


 この世界は、優しすぎる。優しさじゃ、私の世界に風穴を開けることなんかできない。


 でも、だからこそ、なのかもしれない。


 優しさというものが、人の痛みを抑制する。痛みを避けることこそが、優しさであり、それに突き動かされている人間の割合のほうが、きっと多い。


 だから私は、その優しさが微塵も含まれていない瑠莉ちゃんの加虐が好きだったのに。


 瑠莉ちゃんはもう、私を幸せにはしてくれない。


館羽たては!」


 クラクションが鳴り響く道路に、私を呼ぶ声が一陣の風のように耳の横を通過していった。


 声が聞こえて振り返るのと手を握られるのは、ほぼ同時だった。


 道路から歩道まで引き戻された私を見て、車を停めた女性は困惑したように車内に戻って車を発進させた。


 瑠莉ちゃんは肩を上下させて、こちらまで聞こえるほど大きな呼吸を繰り返していた。どうしてここにいるの、と聞こうとしたら、瑠莉ちゃんの視線とかち合った。


 瑠莉ちゃんはずるずると、腰を抜かすようにしたその場にへたり込んでしまう。


「やめてよ」


 零した小さな声が、道ばたに落ちた石ころと同化する。


「変わろうって言ったじゃん」


 もう、家に帰りたいのに、瑠莉ちゃんは手を離してくれない。震えた手を振りほどこうとしても、瑠莉ちゃんは何度も縋り付いてくる。


「なんでよ……!」


 その涙の意味が、私には分からなかった。瑠莉ちゃんにとって、最大の問題は過去の行いがクラスのみんなにバレることだったはずだ。しかし、その問題は瑠莉ちゃん自身が受け入れることであっさりと乗り越えられてしまった。


 私との交渉もこれによって決裂した。瑠莉ちゃんはもう、私を虐めてはくれない。となれば私たちの関係は、すでに終わったはずだった。


 私だって、もう瑠莉ちゃんに用はなかった。瑠莉ちゃんの声も、姿形も、この街の雑踏と、教室の喧噪に透過していき薄れていく。有象無象に紛れたクラスメイトの手を握り続ける必要なんかどこにもない。


「なんとか言ってよ、館羽」


 もう夕方だ。茜色の空が、私たちの影を引き延ばす。


「窓から顔出したら、危ないよ……」


 脇道のゴミ置き場で、カラスが群がっていた。そこにあるのは腐敗した生ゴミか、それとも何かの死骸か。どちらにしても、生きていないことに変わりはない。


「あんな所に立ってたら、車に轢かれちゃうよ……」


 生きていないものを求める生き物と、死んだものを求める生き物がこの世界にはいる。そのどちらかに優劣があるかなんて、誰が言えるはずもないのに。


「もう、やめようよ……」


 祈りを捧げるように、瑠莉ちゃんが額を私の手の甲に押しつける。流れる瑠莉ちゃんの黒髪が、風に揺られながら私の腕を何度も撫でた。


 瑠莉ちゃんはきっと、病院で産まれたんだろうな。


 だからこんなにも、人間の形に恋焦がれている。人の右目を潰したくせに、潰せる人間のくせに。瑠莉ちゃんは私と同じ側の人間であるはずなのに。


 なんで、こんな必死に変わろうとするんだろう。


 だから、変われないんだって。


 翅を広げられなかった蝶が一生地面を這いずって生きていくように、羽化不全を起こした私たちは、形を変えられないんだよ。生き方を変えられないんだよ。


 どうして気付かないんだろう。


「瑠莉ちゃん」


 詭弁なんていくらでも浮かぶ。人としての正常な生き方なんか教えられずとも理解している。


 でも、求めるものは違うから。


 ただそれだけのこと。摂取できる物に対応した消化器官がないだけで、溶け込むことくらい平気でできる。


 その擬態に、限りなく期限があるというだけで。


 いずれ、朽ちる物のことを考えると、気力というものがそぎ落とされていくようだった。先延ばしにすることに、何の意味があるのだろう。


「変われないよ」


 いつも声を出すときに意識する、喉の細め方を、私は忘れてしまった。


 だからつい、抑揚のない、低い声が出てしまう。


「少なくとも、私は」


 力の抜けた瑠莉ちゃんから手を引っこ抜いて、私は帰路に就く。


 振り返るのを忘れて、曲がり角で来た道を見返す。瑠莉ちゃんはすでに立ち上がり、目元を拭いながら向こうの道へ歩き出したところだった。


 その背中は小さく、とぼとぼと、頼りない足取りをしていた。


 なんで、私なんかに構うんだろう。もう瑠莉ちゃんの罪滅ぼしは、終わったはずなのに。


 瑠莉ちゃんに握られた手のひらに、余熱のようなものがほんのりと残っている。


 それを消し去ろうと手を空にかざしたが、九月の夜風は、熱を冷ますにはまだ熱すぎた。

 

  

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