第三章
第18話 羽化
羽化不全というらしい。
それは成虫になった昆虫の外見に不具合がある状態を指す言葉ではあるが、実際には
羽化不全を起こすと、最悪脱皮できずに死んでしまったり奇形になってしまったりする。蝉なんかは脱皮途中に力尽きてしまったり、木から落ちてしまって殻の中で絶命してしまうことも多いそうだ。
奇形で有名なのはカブトムシやクワガタで、蛹の状態でなんらかの衝撃が加わったり、蛹になる際に形成される蛹室と呼ばれる空洞が崩れてしまうと、角が曲がったり、
蛹のまま死んでしまうこともあるようで、その様な蛹は腹部の節の間が黒く変色してしまう。普通なら眼や翅の色が透けてくるのだが、形成そのものが失敗しているので、蛹の中ではドロドロになった幼虫がそのまま腐ってしまうのだ。
そして羽化不全を起こすのは蝉やカブトムシ、クワガタだけではない。
蝶も羽化不全をよく起こす種として知られている。
羽化した蝶は固まった翅を伸ばすために枝などにぶら下がり、重力を使ってその翅を広げていく。しかし捕まる場所がないと広げることができず、翅が固まってしまう。そうするとその蝶は飛べない身体のまま、一生を過ごすことになる。当然餌にはありつけず、餓死は必至だ。
そもそも羽化というのは昆虫にとって最後の試練といえる瞬間であり、アゲハチョウの羽化率は一パーセントにも満たないと言われている。自然界の厳しさ故、仕方がないと言えば仕方がないのだが。
一つだけ、どうにも解せない羽化不全が存在する。
外傷もない、周りの環境も良い。敵に見つかることもなく、安全な場所でしっかりと蛹になった個体が、何故か羽化に失敗することがある。
蛹の中は成長ホルモンを含んだ液体と、僅かな筋肉のみで形成されている。その成長ホルモンに障害が発生すると、外的要因が一切なくとも羽化不全が起きてしまう。
私の飼っていたアゲハチョウも、その類いだった。
羽化のことは調べたはずだ。幼虫のときには農薬の一切含まれていない野草だけを食べさせたし、蛹になるときに捕まりやすい段ボールも用意した。蛹には朝日をちゃんと当てたし、羽化したとき捕まるようの止まり棒も置いておいた。
しかし、羽化した成虫は、本来の形をしていなかった。
最初、頭がないのかと思った。
だが、よく見るとないのではなく、丸いのだということに気付いた。蝶の成虫といえば蜜を吸うためのストローと、花を見分けるために複眼だが、それがない。
変わりに、牙のある顎がついている。
羽化した蝶は、頭だけが、幼虫のままだったのだ。
翅を上手く広げられた蝶は、成虫になれた喜びを表現するかのように部屋を飛び回った。
用意していた、砂糖水を染みこませたティッシュを目の前に差し出すと、蝶は飛びつくように近づいて来た。
だけど、顔を近づけて、困ったようにウロウロしている。
そうだ、水を吸うための気管がないのだ。
これでは餓死してしまう。
蝶は必死に顎を動かし餌を探していた。
まさか、と思い幼虫のときに食べていた葉っぱを近づけた。
すると蝶は葉っぱをもりもりと食べ始めた。一生懸命、羽化に使ったエネルギーを回復するために、無我夢中で葉っぱを食べ尽くした。
翌日、学校から帰ってくると蝶が死んでいた。
お腹がパンパンの状態で、排尿口と思われる部分から茶色い汁を出して絶命していた。
蝶は幼虫の頃には葉っぱを消化するための器官があるが、成虫になるとそれは葉っぱを食べるための顎と共に失われ、代わりに蜜を吸うためのストローとそれを栄養に変えるための気管が新たに生成される。
しかし、この蝶はストローを形成できなかった。だが、胴体は成虫なので、消化器官は葉っぱではなく、蜜を分解するためのものに変わっている。
それなのに、葉っぱを食べてしまった。葉っぱしか、食べられなかった。
摂取しなければならないものと、摂取できるものが合っていない。
だから消化することができず、腹部に葉をパンパンに詰めたまま、死んでしまったのだ。
……私を見ているようだと、そのとき思った。
私は
そもそも、自分で手に入れることのできる痛みには限界があり、私が摂取すべきものは瑠莉ちゃんからしか得ることができなかった。その瑠莉ちゃんがもう、痛いことはしないと言うのだから、私はもう食べるものがないのだ。
それでも我慢したのは、そうすることが大人になるということだと思ったからだ。
子供の頃に見てしまった憧れにも似た光景は、人前で言うにはあまりにも歪だった。
痛いのが好き、痛いのじゃなきゃ満足できない。痛みを伴わないもの以外には、興味が沸かない。そんな幼稚なワガママは、義務教育が行き届いている今のうちに捨て去らなければならない。
そんなの分かっている。だから私も、瑠莉ちゃんと一緒に足を洗った。
それなのに、日に日に増大していくのは、この身をバラバラに破壊してしまいたくなるような抗いがたい衝動で、それを日常生活の中で我慢し続けるのは精神的に大きな苦痛だった。
ある日、私は高所から飛び降りようと思い立った。
自分の力でだめなら、重力を借りればいい。しかし、死にたいわけではない。死に限りなく近い、死んでしまうと錯覚してしまうような絶望と苦痛を味わいたい。
屋上、四階、三階と順に下見をして、二階が最も手頃だと判断した。
屋上と四階は論外で、三階では、もしかしたら当たり所によっては死んでしまうかもしれない。一階では死なないだろうが、痛くもないだろう。多少の鈍痛程度では、満足できない。
もう、耐えきれないのだ。
タバコや酒に溺れた人が、禁断症状のようにそれらから離れられないように。
私も、痛みから離れられない。
我慢して我慢して、でも、我慢すればするほど、心がぐつぐつと煮立っていくようだった。全身がかゆくて、震えて、歯がガチガチと鳴りだす。
こんなこと、今までなかったのに。きっと、瑠莉ちゃんと出会ってしまって、私はおかしくなってしまったのかもしれない。
いや、おかしかったのは最初から。ただ、探していたものが確かに実在したんだと分かった上で、それを手放し諦めてしまうことは強烈なストレスになっていた。
時間も場所も、選ぶ判断能力はなかった。
私は二階の窓から顔を出し、身を放り投げた。
地面にぶつかるのは一瞬で、途端に味わう強烈なまでの鈍痛は意識を削り取るのに充分だった。
どこからか流れてくる血の波は、頬にまで到達した。
薄くなっていく意識の中で、私は確信した。
ああ、私は……こうやって痛みを探しているうちに、間違えて死ぬんだろうな。
二階がダメなら、三階で。運良く生きたから、今度は屋上から! きっと、味わったことのない痛みが待ってるんだろうなぁ! そうだ! 首も絞めてみたい! ドアノブにベルトを引っかければ上手い具合に締まってくれるかも!
そうやって、いつか、きっと。
遠くない未来に。
痛みを感じる間もなく死ぬのだろう。
あの、頭が幼虫なまま成虫になった蝶と同じだ。
私はこれから、痛みに執着したこの性根を隠しながら大人になり、社会に出る。集団の中の人間として、働き、交わり、恋をして、成虫として、正しい道を行こうとする。
だけど、それらを消化できる気管が私にはない。
私が消化できるのは、痛みだけだ。
消化できない人間の営みを摂取し続け、私の腹部はパンパンに張り詰めて、いつか、あの蝶のように静かに死ぬのだろう。
いつのまに、私は羽化に失敗していたのだろうか。
蛹だった記憶もないのに。
どうして私には、蜜を吸う気管がないのだろう。
なくなったところで誰も困りはしない、価値のない意識がプツンと切れる。
遠くから聞こえるサイレンの音に交じって、私の名前を呼ぶ声が、聞こえた気がした。
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