第17話 愚直

「ほら瑠莉るり、お弁当忘れてる」


 玄関で靴を履き替えていると、母親がエプロン姿のままリビングから出てきた。


「せっかく昨日張り切って作ってたのに。忘れたら元も子もないでしょ?」

「うわ、うっかりしてた! ありがと」


 ここ最近、私は自分で料理をするようになった。館羽たてはの分のお弁当を作ってあげるためというのもあったが、次第に料理自体が楽しくなり、時々母親の手伝いをしながら教えてもらっている。

 

 私が誰かのために料理を覚えたいと言ったとき、一番喜んでくれたのは母親だった。母親は私が館羽を虐めていたことを知って以降、あまり笑わなくなってしまったが、近頃はその表情もだいぶ穏やかになった気がする。


 あのとき、我が家はかなり荒れていた。私が館羽の右目を潰してしまったことで、母親は何度も館羽の家に謝りにいって、そのせいで憔悴しきってしまった。父親は躾けの一貫で私に暴力を振るうようになったし、私も自分のしてしまったことの重大さに心が抉られて、喋ることもままならない時期もあった。


 だけど今は、その影もない。


 父親は暴力を振るっていたことを謝ってくれた。それ以来、やりすぎというくらい過保護になってしまった。毎朝私の体調や様子を窺ってくる父親を煩わしいと思うことさえあったが、それもまた愛されている故なのだろう。


 なにより感謝しなければならないのは、母親だ。


 私のことを知っている人がいない中学に行きたいというワガママも、母親は許してくれた。新しい環境で、クラス委員になったり、応援団になったり、学校生活が充実していると伝えると母親は安堵したように笑ってくれた。


 私が何か、悩んでいたり落ちこんでいると、母親は私を呼び止めて、ギュッとハグをしてくる。母親は昔から優しい人だった。なにより暴力や野蛮なことが嫌いで、悲しいニュースを観るとほろりと涙を流すような人だった。


 そんな母親の娘である私が、誰かに暴力を振るっていたのだと考えると、申し訳なさで押し潰れそうになる。自分を嫌いになるし、死んだ方がいいんじゃないかって思ってしまったことさえあった。


 だけど、母親に抱きしめられるたびに、頑張ろうって思えた。


「いってらっしゃい」


 母親は何を思ったのか、今朝も私を抱きしめてきた。


「あなたなら、大丈夫よ」

 

 母親の目にはまだ、あの日の私が重なっているのだろうか。クラスメイトの右目を潰した虐めっ子の娘。そんな娘が今は、友達のためにお弁当を作っていくような人間になった。


 この温かさに、私は何度救われただろう。

 

 人の温もりは、自分だけじゃどうにもならない問題すら、氷解させてくれる。


 私もいつか、こんな風に誰かを救える人間になりたい。


「じゃあ、行ってるね!」


 気をつけろよーと、リビングから父親の声も聞こえた。母親からの激励も一緒に背中に受けて、私は家を出た。




 夏服の袖を捲るのにもだいぶ慣れてきた。ブレザーとは違う肩の重みが開放感とは違う寂しさと不安をもたらす。この二の腕を守ってくれるものがなくなるから、すれ違う鋭利なものに敏感になるのかもしれない。


 とはいえ、それでも袖を捲りたくなるくらい、今日も暑かった。


 廊下側の席になってしまったのも災いしていた。下敷きで風を作るも、生ぬるいものが頬を撫でていくだけで体感の温度は変わらない。むしろ疲れた手首が一層怠さを連れてくるようだった。


 移動教室の際にはみんな、ゾンビみたいに廊下を歩いていた。ブラウスを脱いでTシャツ姿で歩いている男子もいたが、あれはもうじき先生に注意されるはずなので先がない。我慢我慢……と私もブラウスのリボンを外したくなる衝動を必死に押さえた。


「人間って別に最近生まれたわけじゃないのに、なんでまだ暑いっていう感覚が残っているのかしらね」


 隣を歩くくるるは背筋を伸ばして姿勢がいい。首筋に汗を浮かべてはいるが、あまり気にしていない様子だった。毛の伸びた猫みたいにうねった毛先が、歩くたびに跳ねている。


「最初から地球の環境があって、そこに人間が生まれたのだから環境に適応した身体になっていいのに。神様がきっとサボったのよ。季節によって暑い寒いって嘆くなんておかしいわ」

「暑い寒いがあるから生きてられるってこともあるんじゃない? 暑いときにしか咲かない花だってあるんだし」

「じゃあ、暑いときには動かない人間がいていいわね」


 移動教室の方向とは反対を向いて、枢がからっとした様子で言う。


「サボるってこと?」

「あたしはヒマワリではないもの」


 無表情の裏に隠れた暑さへの憎悪が言葉の節々から感じ取れて、共感を呼ぶ。しかし私が「執行猶予付なので」と言って歩みを進めると、後ろからため息と足音が聞こえてきた。


「そう、なら手伝うわ」

「手伝うとは?」

「あなたがヒマワリになる手伝いよ」


 それだと夏にしか活動できなくなってしまうが、いいのだろうか。私はどちらかというと夏よりも冬が好きだ。朝起きたときの身を刺すような寒さと冷たい廊下から足の裏に伝わってくる冷気。眠気に目を擦りながら顔を洗う朝、みたいなものが存外良い記憶として根付いている。


「枢、ありがとね」

「どういたしまして」


 まだ内容を言っていないのに、枢はわざとらしく腕を組んで鼻を鳴らしていた。


 枢のおかげで、私と館羽のいざこざが膨れ上がることなく収まってくれたと私は思っている。館羽がクラスのみんなに私の過去を告げたとき、枢だけは表情を変えずに「小さい頃はそんなものでしょう」と言ってくれた。その他愛もない話に肩を竦めるような態度が、きっと他の人にも伝染したんだと思う。枢がそれを、意図的にやってくれたのかどうかは分からないけど、感謝してもしきれない。


「言ったでしょう? 罪を償う手伝いならするって」

「あー、うん。だから、その言葉も、ありがとうってこと。私、罪って隠すものだとばかり思ってたから。向き合わなきゃ、背負わなきゃって思えたのは枢のおかげ」

「まぁ、メロンヨーグルトフローズンソーダでいいわ」

「えぇー、あれ高いのに」


 お礼にしっかりと代償を求めてくるのは図々しいというかなんというか。けど、その着飾らない空気に私はまた救われた。


浅海あさみさんも連れて行きましょう」

「そうだね。館羽、何が好きなんだろう。いちごとか、甘いのが好きそうなイメージだけど」


 館羽が何かを美味しいと言っていた記憶は……ある。ありすぎて、困る。館羽は私が作ってきた弁当も、全部美味しいって言いながら食べるから、どこに強弱や緩急があるのか不明瞭だ。


 いちご味のアイスを食べて目を細めている館羽を見てみたい衝動に駆られる。うん、枢の言う通り、館羽も誘ってみよう。


 横目で枢を見ると、あまり形を変えることのない口元が微かに浮いていた。


「な、なに?」

「いいえ、一人で笑ってるなぁって思ったの」

「うそ」


 頬を自分でこねくり回す。シワが微かに寄っていた。自覚しても、口角は中々戻ってくれない。


「腐れ縁というやつとは、ちょっと違うのかもしれないけれど。きっかけなんていくらでもあるわ」

「そうなのかなぁ」

「誘拐犯に恋をする事例だってあるのだから」

「恋って」


 そんな甘酸っぱいものは、とうの昔に奥歯に挟まって取れなくなってしまった。しかし枢の言っていることもまた理解できる。私と館羽の間には決して埋まることのない亀裂がある。ひび割れないようにその上を歩いて行く中で、絆めいたものが生まれても決しておかしくはない。


 加害者と被害者……以外のものに手を伸ばしても、倫理には反してない……はず。ただ、それはまだ私の中に埋まる罪悪感が押しとどめている。


 自分が救われたと思ってはいけない。あくまで、私が救うべきなのは館羽なのだから。


「館羽、そういえば見ないけど移動教室ってこと分かってるのかな」

「浅海さんなら来る前に、窓から顔を出していたのを見たわ。何か綺麗な鳥でもいたのかしら」

「あー、なんか最近よく外を見てるんだよね。この前は屋上だったし、一昨日は音楽室近くの窓から中庭覗いてた」

「あたしがさっき見たのは三階の踊り場よ。一階ずつ降りているなんて、なんだかメリーさんみたいね」

「後ろにいたらどうしよう」


 振り返っても誰もいなかった。


「一応、電話してみようかな。忘れてたら館羽、教室にぽつんと取り残されちゃう」

「ええ、そうしたほうがいいわ」


 館羽に電話をかけるときは、電話帳より通話履歴から探した方が早い。昨日も夜、何してるかなって電話したばかりなのだ。


 夜に電話をかけると、館羽は以前私が教えたアプリで音楽を聞いているということが多い。私が曲をオススメしたり、逆に館羽からよかった曲を教えてもらう一時は普通の友達同士のやりとりみたいで、心が温まる。


 私なんかが願ってしまうのはおこがましいけれど、こういう関係に、本当はなりたかったんだと、過去の弱かった私に言い聞かせて前を向く。上がる顔の角度は、以前よりも広くなったような気がした。


 コールが三回、四回鳴る。


 まだ出ない、と枢にアイコンタクトを送る。枢も不思議そうに首を傾げた。


 そんなときだった。


 ちょうど玄関前の廊下に差し掛かったとき、窓を白い物体が通過した。


 一瞬、誰かが中庭に体操着でも投げ込んだのかと思った。


 やんちゃな生徒もいたものだと、これから叱りに行く先生の心中を察しながらその場を離れようとする。


「きゃーー!」


 けたたましい悲鳴が、中庭から、校舎内のこちらにまで聞こえてくる。そこで初めて、私は足を止めた。


 しばらくすると、辺りが騒がしくなった。


「おい、見たか?」

「誰か落ちたって、やばいよ」


 隠しきれない好奇心に手を引かれたように中庭に走って行く野次馬たちの喧噪を聞きながら、私は背中に冷や汗が滲んでいた。


「誰? どこのクラス?」

「わかんないよ! 誰か、早く先生呼んで!」


 人がどんどん、集まっていく。まるで、死骸に集まる蟻のように。


「大変。瑠莉るり、あたし、先生呼んでくるわ」


 率先して動き出した枢の足音が、意識から離れていく。


 一人残された私は、内履きのまま中庭に向かった。


 人が多すぎて、状況を掴めない。


 隣の子が、ひそひそと「飛び降り?」と話しているのが聞こえて、鳥肌が立った。


「ご、ごめん! ちょっと、通して!」


 人混みをかき分ける。


 ……嫌な予感は最初からあった。


 体育祭があったあの日、館羽はリレーで転んだ。あれは、どう考えてもわざとだった。痛み欲しさに、その滲み出る血と、痛々しい傷口を求めて地面を目指したのだ。


 館羽は痛みに執着している。そのためなら自分を傷つけることだっていとわない。


 いや、痛みとは、自分を傷つけることでしか手に入らない代物なのだ。


 館羽は日常的に、定期的にそれを摂取することで心の均衡を保っていた。


 けど、そんな館羽の拠り所のような痛みを、私は取り除いてしまった。


 そこから遠ざけることこそ、館羽の幸せに繋がるのだとばかり思っていた。


 間違いなんかじゃない。私たちはこれから、新しい一歩を踏み出すんだ。


 それは、私が脳裏に浮かべたあまりにも傲慢で愚直なシナリオに過ぎなかったのかもしれない。私はまだ、館羽を理解していたわけじゃなかった。


「……あ」


 人混みから抜けた場所に落ちていたのは、人間の身体。


 力なく倒れたその四肢は、ピクリとも動かない。


 私は膝から崩れ落ちた。


 足元に、誰かのスマホが落ちている。


 蜘蛛の巣状に割れた画面に映るのは、私からの着信を知らせる通知だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る