第16話 信頼
日差しが地面を焼き焦がすほどになった七月の末頃。
うだるような暑さに下がっていく体力と気力とは裏腹に、これから訪れる一ヶ月弱の自由時間に誰もが浮き足立っていた。
学期末のテスト地獄からも解放された私たちは、次第に少なくなっていく授業の量に夏休みの実感を膨らませつつ、今日も下敷きをうちわ代わりに昼を過ごしている。
お願いはもうきかない。
あのあと館羽は、本当に私の秘密をクラスにバラした。館羽はうっかり言ってしまったとばかりに謝ってきたが、宙を浮く秘密に操り人形の糸が絡まっていたのを私は知っている。
朝、登校するとクラス全員が私を見ていた。「
館羽は、自分が義眼なこと。そして、義眼になる経緯……私に虐められていたことも全部話していた。
館羽と私。信頼を値で示したら、その数値が大きいのは私だった。だから、クラス全員の表情は「浅海館羽が変なことを言い出した」というような、退屈な日常に妙な事件が発生した野次馬めいた面持ちに似ていた。
私がそれらを肯定すると、館羽が居心地悪そうに「言うつもりはなかったの」と謝ってくる。だから言ったでしょ? と、そういう皮肉を込めた謝罪なのだろう。
それで私の信頼は地に落ちた。そういう人だったんだという視線に串刺しにされ、身体中に空洞が空いたようだった。
そんなとき、助け船を出してくれたのは
「どうりで、浅海さんには妙に優しいと思った」
その発言に、他の人も同意した。どうも私は、周りから館羽に優しい、甘いと思われていたらしい。
「心を入れ替えたの。もうあんなことはしないようにって……生きてきたつもりで。館羽に優しくしてるのも、ただの罪滅ぼし」
私の弁明に、どれだけの信憑性があったかは分からない。ただ、クラスメイトは「そういう感じか」と、入りは面白くて結末だけ微妙な映画を観たあとのような感想をこぼした。そこで私の、罪の自白は終わった。
ホームルームのチャイムが鳴ったのと、まだ朝早く意識が鮮明でないのも助けとなった。全員が席に戻って、これまで通りの日常が始まる。
安堵と共に、これからは言動に注意しなければならないと思った。
過去の私と、今の私。変わろうとしていることを示すには、きっと意思表明ではなく、時間の経過であるはずだから。その止まることのない時間の流動の中で、私はもう別人なんだと示していく。
執行猶予という制度が、どれだけ正しく整備されたものであるか、身を持って知った気がした。
館羽とはそれ以降、あんな行為には及んでいない。
私の気持ちが伝わったのか、館羽も「じゃあ、私も頑張ってみる」と言ってくれた。
館羽は今、痛みから隔たれた世界で生活している。聞く限り、自分で自分を痛めつけることもしていないそうだ。
私と館羽は少しずつ、だけど確かに、マイナスからゼロの値に向かって歩みを進めている。
「あ、こんなところにいた」
そして昼休み、私は屋上に来ていた。
屋上のフェンスに額を押し当てて、風になびく見慣れた後ろ髪を見つける。
館羽の髪は毛先に近づくにつれ内側に巻いている。輪郭を覆うようなサラサラの髪は、出会った春からかなり伸びているように見えた。
「
私に気付いた館羽が、ゆっくりと振り返る。風にかきあげられた髪が耳を晒す。私が開けたピアス穴も、引きちぎってしまった部分も、すでに塞がり始めていた。
「よくここにいるってわかったね」
「屋上に向かったってクラスの子が言ってたから。なんか見えるの?」
館羽が見ていた景色を私も見ようと、フェンスに額を押しつける。
「家の屋根」
「そりゃ、そうだけどさ」
昼休みにわざわざ屋上まで来て家の屋根を見て、楽しいのだろうか。しばらく見つめていたけど、額に網状の痕ができそうだったのでやめた。
「そういえば館羽、あのアゲハはどうなった?」
今から二週間ほど前、館羽と一緒に帰っているときにアゲハチョウの幼虫を見つけた。緑色の、ぷっくりとした身体は特徴的で、すぐにアゲハチョウだと分かった。
館羽は幼虫が気になるのか、足を止めて顔を近づけて見ていた。その様子に、私は心がくすぐられるのを自覚した。そして嬉しかった。館羽が痛み以外に、ちゃんと気になるものがあるのだと知ることができて、安堵の気持ちもある。
飼ってみたら? と私が提案すると、館羽は幼虫が乗った葉っぱごとちぎって、そのまま家まで持って帰った。動き回る幼虫を落とさないように、葉っぱをくるくる回している館羽の横顔を見ていたら、これからの未来に光が差したように感じた。
きっと私たちは、変わり始めている。
痛みなんか必要ない。
加虐なんかなくたって、私たちは生きていける。
「ああ」
館羽は屋上の整備されていないコンクリートの端を見た。石ころと、枯れ葉や、誰かが捨てた割り箸が落ちている。
灰色の、ゴミ溜めのようなそこをジッと、動くことのない右目の黒目が凝視していた。
「死んだよ」
鋭い夏の日差しは、今日も私たちを焼き焦がすかのように降り注いでいる。
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