第22話 正義
「カーテンだけ、締めて欲しい」
ボタンを外し終わったところで、
体育座りのような体勢のまま、瑠莉ちゃんがブラウスの前面をはだけさせる。白い肌と、うっすらと見える鎖骨の凹凸が、恥じるようにこちらを窺っていた。
窓の外から誰かの笑い声が聞こえて、瑠莉ちゃんがピクっと肩を震わせる。
「これを見たら……やめてくれる?」
「痛み以外の方法を、瑠莉ちゃんが教えてくれるのなら」
ここまで来て、まだ瑠莉ちゃんは足踏みしているようだった。人に見せられないことなのか、それとも本当はそんなものないのか。私を一時的に説き伏せるために言った綺麗事だったのか。
「シーツとか、ある?」
「必要なの?」
「恥ずかしいから、隠したい」
「隠されたらわかんないよ」
瑠莉ちゃんの頬に、朱色の色彩が塗装される。
ずっと唇を噛むようにしている瑠莉ちゃんは、ゆっくりと手をブラウスの中に入れていった。
その中に、痛みに変わるものがあるらしい。肌色の砂漠に、湖があるとは思えない。あるのなら真っ直ぐに、淀みなく突き進めばいいだけなのに、瑠莉ちゃんの指は迷うように進んでいく。
自分の身体なのに、何を迷うことがあるのだろうか。右往左往する迷い人を眺めて、五分ほど経った。私は焦れていた。
痛みだったら、ほんの一瞬で自分を満たすことができる。窓から落ちるのなら、一分もかからない。それなのに、瑠莉ちゃんの表情にはいまだ変化が訪れない。時々くすぐったそうに吐息をもらすが、何かが足りないのか、すぐに切なげな顔に変わる。
効率が悪いんじゃないか。そう思ったが、効率の問題はいったん置いておくことにした。私が欲しいのは時間に対する価値ではない。
神経の端から端までを焼き尽くし、全身を感電させるような刹那の痛撃。電極がつながり脳がショートするんじゃないかと思うくらいの鮮烈な光に目をくらませられる。平坦な人生や他愛もない悩み、不安、そういったものに風穴を開けてくれるような、そんなかけがえのないものの代わりとなるものがあるのなら、見せてほしい。
変われと願うのなら、舵を切ったその先に何があるのかを見せるのが先導する者の役目なはずだ。
「それは、気持ちいいの?」
瑠莉ちゃんがブラウスの中で迷っているのは、一体どういう感覚なんだろうか。私は迷ったらすぐに引き返す。瑠莉ちゃんの手は、まだ奥に潜んだままだ。
「気持ちいい……はずなんだけど」
「なにそれ」
「うまく、できない……」
瑠莉ちゃんが顔をあげると、視線がかち合った。冷房が効きすぎているのか、鳥肌が立っているように見える。
「いつもはできてるの?」
頷いて、背中を丸める瑠莉ちゃん。
「時間、かかるかも」
「いいよ、どうせお母さんも今日は帰ってこないから」
時計はまだ四時の方向を指していた。七時にはご飯を食べたいので、あと三時間ですませてくれたらいい。もし無理でも、それで痛みに代わるものなのないのだという証明にもなる。
私の許しをどう受け止めたのか、捜し物を探す瑠莉ちゃんの手が早くなる。どうも考え無しに動いているわけではないようだった。ある一点に向かって、手が円を描くように動いている。
私が圧迫感を伴う鈍痛や苦痛を好むように、瑠莉ちゃんも好きな触り方などがあるのだろうか。
「それは、週に何回くらいするの?」
「ふぇ?」
舌っ足らずな相槌が帰ってくる。瑠莉ちゃんの目は、どことなくボーッと呆けていた。
「私はほぼ毎日、痛いことしてた。小学校の頃は帰り道に身体を壁に打ちつけたりして、気絶するフリとかして、少しでも本物の痛みに近づけるようにしてた。瑠莉ちゃんも毎日なの?」
「毎日は……してない」
「そうなんだ。それは、どれくらいの頻度でするものなの?」
「えっと……週、二回……とか。ほとんど、休みの日。家族が出かけてる昼間とかに」
「たしかに、誰もいないときにやるのがいいよね。私も両親がいたころは、目を盗んで浴槽に頭入れたりしてたよ」
ところどころ、共通点はあるらしい。
瑠莉ちゃんは週に二回ほど、そうやって自分を満たしているようだ。
「どういう感覚?」
私は痛みを気持ちいいと感じたことはない。ただ、自分の意思が介入できないほどの屈服感と過呼吸になるほどの鋭利な痛みに身体が熱くなり、興奮して、終わった際には心地よさを感じることはあった。
「くすぐったい、に近くて」
喋りながらも、瑠莉ちゃんは手の動きを変えていった。
ブラウスの隙間から、白色の下着が見えた。真ん中にはリボンの装飾が施されている。寝室を覆うシルクのカーテンのようなデザインだった。
瑠莉ちゃんの吐息に、鼻息が混じるようになった。口だけでは酸素が足りないのか、スッ、スッ、と短い息遣いが私の部屋に響く。
慣れたような手つきでスカートのホックを外す指が、私の視線を受けて制止する。
「あ」
「どうしたの?」
「ぬ、脱ぐ」
「あ、うん」
きっと必要な過程なのだろう。私は別に止めはしない。それなのに瑠莉ちゃんは上目遣いで私の顔色を窺おうとする。
ホックを外されたスカートは床に落ち、白のショーツが露わになる。それにもリボンが付いていた。きっと上の物とセットなのだろう。
ブラウスの中を触っていたときとは違い、下を触る際には遮るものがない。瑠莉ちゃんの指が、幼虫が這うようにもぞもぞと動いているのが見えた。私の視線に気付いてか、瑠莉ちゃんが足を閉じる。
「見えないんだけど」
これは私に、自分を慰める方法を教えてくれる時間のはずだ。隠されては、なんの意味もない。瑠莉ちゃんは泣きそうな顔で、ゆっくりと足を開いた。
足を開くとまた違うのか、瑠莉ちゃんの背中がピンと伸びた。
「
名前を呼ばれたが、それ以上何かを語りかけられることはなかった。私の名前を呼んだことに、何の意味があるのか。瑠莉ちゃんは自分の世界に入ってしまったのか、あまりこちらを見なくなった。
一瞬、寝てしまったのかと思った。
しかし、よく見ると伏せたまつ毛の下に光を宿した瞳が見えた。うたた寝しているような体勢のまま、瑠莉ちゃんは徐々に頭を下げていく。
何かを思い出したかのように、瑠莉ちゃんが声をあげる。しかし、すぐに口を手で塞いでしまった。自分で息を荒くしているくせに自分で呼吸を止めるなんて、不思議なことをする。
見ている限り、確かに身体に危害を加えるような行為ではないように見える。しかし、それと同時に物足りなさも感じる。
本当にこんなもので、開いた隙間を埋めることができるのだろうか。
口を塞いだ指の隙間から、吐息が漏れている。
瑠莉ちゃんは集中するためなのか、ついに目を閉じてしまった。
意識の有無、いや、鮮明さが行為の完成度を左右するのかもしれない。痛みはあくまで外からやってくる痛みで、強制的に脳が感じる感覚だからこそ鮮烈で強烈だ。しかし自分から向かっていくその感覚は、私にはないものだ。
探して探して、ただ一点に向かって、最初から瑠莉ちゃんは進んでいる。行為自体が気持ちよさを生むのではなく、ゴールを目指す工程で寄る道に意味があるのだと、見ていて思った。
瑠莉ちゃんの吐息に、だんだんと声のようなものが混じってきた。聞いたことのない声だ。瑠莉ちゃんの声はどちらかというと中低音寄りで、複数人で話しているときは比較的聞き取りやすい声だったりする。しかし、今の瑠莉ちゃんの声はただただ掠れている。出し慣れていないような裏声が着地に失敗して転がる、そんな声が次第に増えてきた。
すでに三十分ほど経った。
私は完全に手持ち無沙汰なので、正座をしながらジッと瑠莉ちゃんのことを見ているしかない。膝が痛くなってきた頃合いで、足を崩したり、また直したりを繰り返す。
担当医師に言われた右足のマッサージを思い出して、片手間で太ももを揉みながら瑠莉ちゃんを眺める。
対して瑠莉ちゃんは、すでにぐちゃぐちゃの体勢になっていた。足はあっちいったりこっちいったり、寝返りを打つ赤ちゃんみたいに忙しない。
右手は上に、左手は下に、交互に動かしている。二つの手が器用に違う動きをしていた。
いつのまにか口を塞ぐ手はリストラされていたようだった。門番がいなくなった瑠莉ちゃんの口は、無防備に半開きになっている。管理体制の甘い出入り口から、熱を帯びた息が漏れていた。
痛みに悶え過呼吸になるのと同じような現象なのだろうか。
私の行為と瑠莉ちゃんの行為が繋がって、その結び目の仕組みを理解したくなる。私も瑠莉ちゃんも、同じものを感じているのではないか。
あれほど忌み嫌っていた希望というものを、一瞬、目に焼き付けてしまった。
「ねぇ、瑠莉ちゃん」
声をかける。
久しぶりに、言葉を発したような気がする。
瑠莉ちゃんも私がいることを忘れていたのか、ハッと顔を上げる。
目が合った、その瞬間。
「……っ、あ」
瑠莉ちゃんの身体が、二度、三度と震えた。まるでバスケットボールがバウンドするように、瑠莉ちゃんは肩を痙攣させた。
ギュッと目と唇を締めて、何かに堪えているような表情をしている。
瑠莉ちゃんはまるで長い潜水から陸にあがったかのように「はっ、はっ」と呼吸を開始した。荒げた呼吸は中々落ち着かず、身体の震えが止まらないのか、浜辺に打ち上がった魚のように時折ビクッと跳ねている。
やがて息遣いも小さくなり、瑠莉ちゃんが肩から外れかけたブラウスを羽織り直す。胸元のボタンを優先的に締めて、腰を浮かせてスカートを履いた。
「もう終わったの?」
「……うん」
まだ余韻のあるような喋り方だった。
「瑠莉ちゃんはそうやって、隙間を埋めてるんだね」
正直、がっかりした。
薬品塗れの葉っぱばかり食べてきた瑠莉ちゃんの身体は骨の随まで黒く染まっているはずなのに、自分を慰める行為の全貌は、蓋を開けてみれば誰でも一度はするような安易なものだった。
中学一年生の頃に、クラスの子がいっせいにやり始めて、まるで自慢するかのように教室の隅で語っていたのを思い出す。私も試してみたけれど、なんの感情も沸かなかった。
瑠莉ちゃんも、こちら側だと思っていたのに。
今の行為を一通り見て思ったことは、あくまで代用案であって、塗り替えるものではないということだった。
確かに少なからず、私が痛みを好きになった項目のいくつかに当てはまるものはあった。しかしそれも、痛みを控えるべき状況で選ぶ妥協の手段でしかない。
「瑠莉ちゃんは気持ちいいかもしれないけど、私はそれを、肯定的に受け止められる気がしない」
部屋のドアを開けて、退出を促す。瑠莉ちゃんはすでに、乱れた衣服を直し終えていた。
「気持ちいい……だけじゃないよ」
「ふーん」
「してるときは、いろんなことを、想像しながらして……そうすると、心がじんわり温かくなって、なんだろう。もっと、好きになれる気がするんだよ。誰かに、優しくなれるような、感覚を……くれるの」
……なんだそれ。
隙間を埋める行為の中に、誰かに優しくなれるような感覚がある?
痛みは痛みだ。心地よさは感覚的幸福度であって、生き方や人格までに影響を及ぼすものではない。
「館羽」
「なに?」
「私、館羽のこと救いたい」
まただ。正義を盾にしたエゴで、命の結末を変えようとする自己中心的な考え。そんなもので救われるのは、何かを救った側だけだ。救われた側は、道を標されたわけじゃない。いずれまた、同じ道を行き、また同じ地に堕ちるだけだ。
「痛みが好きなのは、しょうがないよ。人にはいろんな価値観がある。だけど、それはどこかで、やっぱり、分別しなきゃいけないものだと思う。わざと自分を傷つけるような行為は、やめるべきだよ」
「だから、やめられないんだってば。私は――」
「やめられるよ」
しつこい問答を振り払おうと立ち上がった私を、瑠莉ちゃんが抱き留める。
覆うように重なった瑠莉ちゃんの身体は柔らかいのに、背中に添えられた手は固かった。決して離さないという執念すら感じる。
「やめられる。大丈夫」
「……なんでそう言えるの?」
「館羽はこうして、誰かに抱きしめられて、何も感じない?」
こうして身体を重ねて、熱を逃がさないよう抱きしめられたのはいつぶりだろう。過去を遡っても、そんな私は見当たらない。
もしかしたら、生まれて……初めてだったかもしれない。
手のやり場がわからず、背中に回された瑠莉ちゃんの手を掴んだ。
「私ね、小学校の頃、すっごく辛い時期があった。虐待されてるときとか、館羽の右目を奪っちゃったときとか。こんな私なんか、死んだ方がいいんだって何度思ったことか、分からない。毎日父親に殴られて自尊心を奪われて、館羽にしたことの重さを理解したころには自分の残忍さに恐ろしくなって、ずっとこのままなんじゃないかって毎日震えてた」
耳元で聞こえる瑠莉ちゃんの独白は、負い目と暴力で染まっているにも関わらず、終始優しい声色だった。
「でも、そんな私を母親は心配してたみたい。毎日ね、こうやってハグしてきた。あなたは大丈夫よって、ずっと励ましてくれた。そうすると、生きてていいんだって思えて……変わらなきゃって、前を向くこともできた」
そんなの、一時しのぎにすぎない。人間の決意なんて、空にあがった煙のように軽薄だ。
「そこで私分かったの。自分だけじゃ、自分を変えることはできない。館羽の言う通り、それは本質的に、変えられない部分があるからなんだよね」
「そうだよ瑠莉ちゃん。奥底に眠るものは、決して変えられない」
頭の横で、瑠莉ちゃんが顔を横に振った。
「母親にハグされるたびに、大げさだなぁって思ってたけど、今やっと、母親の気持ちが分かった気がする」
隙間を埋めるみたいに、瑠莉ちゃんが私を抱き寄せる。顔が、瑠莉ちゃんの首元に埋まっていく。夏のコンクリートとはまた違う、ゆったりとした熱が肌を通して伝わってくる。
「館羽は大丈夫だよ。大丈夫」
添えられた手が、割れ物を扱うかのように優しく私の頭を撫でてくる。
――お母さん、私これ欲しい!
触覚か、それとも嗅覚か。
何かが、私の記憶に紐付いた。
掘り起こされたのは、昔、お母さんと植物園に行ったときの記憶だった。
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