第11話 死体

 指先に滲んだ血を見て、しまったと思った。


 切った感覚はあったにしろ、痛みは傷口に気付いてから遅れてやってくる。


 指先を口に含むと独特な鉄の味がした。こんな珍妙な味のする赤い液体が今も身体中を駆け巡っているのだと思うとなんだか不思議な気分になる。


 私が赤ちゃんみたいに指をしゃぶっているのを見て、炊飯器をセットし終わったくるるが呆れたようにため息を吐いていた。


「本当に包丁使ったことないのね」

「や、やー……違うんだよ。うん、猫の手って言うけどさ、猫っていつも手をぐーっとしてるとは限らないなって思ったらつい開いちゃって」

「よく回る舌は素晴らしいけれど、ちゃんと消毒して絆創膏しなさいよ」

「はぁーい」


 たしなめられるように救急セットから絆創膏を取り出す。防水のとかあったっけなぁと探していると、包帯と消毒液の混ざったような香りがしてきて懐かしさを覚える。家にある救急箱を開けたのなんて、いつぶりだろう。


「けどまさか、瑠莉るりが料理を習いたいなんて。身から出た錆という言葉があるけれど、錆というのも案外悪いことばかりじゃないのね」

「だって、しょうがないじゃん。カレー作れるって言っちゃったんだもん」


 土曜日の午後、私は枢を呼んでお料理教室を開いてもらっていた。枢は居酒屋でバイトをしていて、家では料理をするということで先生としてはうってつけだった。


 今日は母親も父親も家にいない。夜には帰ってくるだろうけど、キッチンを使いたいと母親に言ったら娘を嫁に送り出すような面持ちで「あんたが、そう……」と感傷に浸られた。


 確かに私は家で料理なんかしたことないし、学校の調理実習では炊飯器に水を入れ忘れて精米を先祖還りさせたこともある。


 そんな私がどうして料理なんかしようと思ったかといえば、枢の言う通り、身から出た錆を拾うためである。


浅海あさみさんに見栄を張るのはいいけれど、まさか最初から私をアテにしていたんじゃないでしょうね」

「かたじけのうござる」

「武士は自分で自分の指は切らないわ。ほら、今度はじゃがいも。多少厚くなってもいいから、切ってみなさい」


 枢はスパルタだった。一度失敗しても、包丁を手放させてはくれない。ちなみにさっきは、にんじんを切るのに失敗した。


「皮切るのなら得意なんだけど」

「それはあなたが得意なんじゃなくて、その道具が得意なの」


 お尻をバシ、と叩かれる。はよやれ、とのことらしい。馬車馬のように働くとはこのことを言うのだろう。ひん、と鳴きそうになるのを堪えて、鞭で打たれながらじゃがいもの皮を切っていく。


「浅海さんとは、仲良くやっているのね」

「え、そう思う?」

「だって、浅海さんのために料理ができるようになりたいんでしょう?」

「あー、うん。そんな感じ。館羽たては、お母さんがあんまり帰ってこられないんだって。食事は惣菜とかコンビニ弁当とかでなんとかしてるらしいけど、やっぱり手作りの料理っていいものだからさ。作ってあげたくって」


 ゴト、と皮どころか身までもがサイコロ状に切れて落ちる。しまった、切りすぎた。しかし、薄く切ろうとすると今度は指先を刃が掠める。恐ろしいので、もうじゃがいもごと四角に切ってしまった。初めて見る形状に、げんなりする。


 私の血を吸ったにんじんと、四角いじゃがいもを鍋に投げる。


 次に出てきたのはたまねぎだった。包丁を入れただけで、じわっと涙が出てきた。


「そう、優しいのね」

「優しいっていうか、だって、寂しくない? 家にずっと一人って。館羽はテレビとかラジオを垂れ流して誤魔化してるって言ってたけどさ」

「まぁ、料理ができれば、家に行く口実もできるものね。良いか悪いかで言えば、前者の計算高さだと思うわ」

「それって、褒めてる?」

「瑠莉がちゃんと料理できるようになったら、の話よ。ほら、たまねぎはなるべく薄く」


 枢の猛禽類のような目が私の指先を睨む。


 キッチンに、まな板を叩く包丁の音が響く。


 切り終わったじゃがいもとにんじんと、それからちょっと薄くしすぎてみじん切りみたいになったたまねぎを放り込んだ。


 焼き色が付いたあたりで、先に炒めておいた豚肉を投入する。水の分量をいちいち目盛りで測るのをめんどくさいとぼやいたら、またお尻を叩かれた。


 包丁のあとは、私のお尻の音がキッチンに鳴り響く。


 蓋をかけて、キッチンタイマーを予約する。時間になるまでにゴミをまとめて捨てた。料理は手際と効率なのだと、枢が説明する。


「来週、体育祭ね」

「そうだね。高校の体育祭ってどんなことするんだろう」

「変わらないでしょう。中学と」


 ゴトゴトと煮込む鍋を二人で見つめる。互いに腕を組んでいたことに気付いて、なんだかおかしくて笑ってしまった。


「体育祭の日、浅海さんにお弁当作ってあげたら?」

「あー、そっか。購買ないから、持参なのか」

「体育祭にコンビニ弁当はあまりにも質素でしょう。作ってあげたら、きっと喜ぶわ」


 私がお弁当を作ってきたら、館羽はどんな反応を見せるだろうか。


 喜んで、笑って、嬉しそうに食べてくれる姿までは想像できた。だけど、それ以上は想像できない。平均を超えることのない、波打たない折れ線グラフを眺めるようにキッチンの換気扇を見上げた。


「そうだね、よし、それまでに料理できるようになるぞ!」


 腕をまくって、気合いを入れる。しかし、すでに私の役目は鍋が沸騰するのを眺めるだけだ。気合いを入れて、待つことにした。


「相変わらず、お人好しね」


 鍋から立ちこめる湯気のように、枢がふわっと輪郭の見えない言葉を宙に投げた。


「そう?」

「ええ、中学のときから変わらない」


 枢と友達になったのは中学一年生のときだ。同じクラスで、隣の席だった。見るからに頭が良さそう、というのが枢の第一印象だった。


 入学式の日から枢は教室で本を読んでいたし、カバンにはいつも教科書がパンパンに詰まっているしで、秀才で、優等生というイメージが強かった。


 英語の授業で、隣の席同士でスピーチをする時間があった。私はそれなりに英語は得意なほうで、割と流暢に話せていたと思う。


 対して枢は、てんでだめだった。「あいあむあ、あー、ぺん? ぺん……あたしはぺんなの?」と自分で自分の英語に疑問を抱いて顔をしかめている様子が、もうダメだった。私はそこで爆笑してしまった。


 高校に入っても枢は相変わらずで、クラスではすでに不思議ちゃん扱いされている。私からすれば、枢の方こそ中学のときから変わらない。


「隣のクラスに、虐められていた子がいたでしょう?」

「あー、うん」

「その子が体操着を破られて、泣きそうになってるのを見て、瑠莉、何したか覚えてる?」

「えーっと、たしか、私の体操着をあげたんだっけな。それで、隣の教室にしょっちゅう行くようにして、その子となるべく一緒にいるようにはしたよ」

「そうしたら、虐めはいつのまにかなくなっていって」


 あの頃を懐かしむ。セーラー服を来ていた頃の私は、かなりアクティブに校舎の中を駆け回っていたように思う。


「隣のクラスで陰湿な虐めがあったのは知っていたけれど、そんなの自分には関係ないじゃない? それは当事者がなんとかする問題で、私たちには関係のないこと。でも、あなたは違った。あなたは、自分の手で、その子を救おうとした。だから、お人好し」


 褒められている、のだと思う。枢はあまり感情が表情に出ない。ただ、真っ直ぐこちらを見て、茶化さないあたり、受け止めるべき言葉なんだろう。


「今度は、浅海さんのことを助けようとしているのね」

「そんな大層なものじゃないよ。ただ、館羽には……」


 償わなければならない罪があるだけ。


 だけど、そんなこと言えるはずもない。


 口を噤んでいる間に、キッチンタイマーが鳴る。ルーを割って入れると、またキッチンタイマーをセットした。何回セットするのとぼやいている私を枢が睨む。


「まだ、されているの?」

「え?」

「虐待」


 少ない言葉数だった。なるべく、簡素に伝えようという気持ちが伝わってくる。だから私もなるべく、簡単に、もうなんでもないことのように言った。


「ないよ、もう」

「そう」

「上手くやれてる。むしろ過保護すぎるくらい」

「なら、よかった」


 できあがったカレーは、私がよく家で食べるものとほとんど変わらない味だった。


 野菜を切ってルーを入れるだけでこんな美味しいものが出来上がるなんて。


 私と枢はちょっと早い晩ご飯として、自分たちで作ったカレーを堪能した。私はつい、おかわりまでしてしまった。


 食器を洗い終えて、残ったカレーはラップして冷蔵庫に入れた。一晩寝かせればまたコクが出るらしい。コクってなに、と枢に聞くと、枢の頭の上にクエスチョンマークが浮かんだ。本人もよくは分かっていないらしい。きょとんした顔が、出会った頃と重なって頬が緩む。


 温かいご飯を食べたあとは、身体だけでなく心もポカポカする。充実感というか、幸せというか。こんな簡単に幸せが手に入っていいのかと疑ってしまうほどの、ゆったりとした満足感に包まれながら、食後のお茶を飲む。


 こんな一時を館羽とも過ごせたら、どれだけいいだろう。これから訪れるかもしれない安寧の瞬間に、心を躍らせる。


 陽も落ち始めた頃、帰る支度をすませた枢を玄関まで見送った。


「あ、あのさ。枢」

「どうしたの?」


 振り返る枢が、怪訝に私の顔を覗き込む。注視するほど、私はきっと、引きつった顔をしているのだろう。


「もし、私が人を殺したって言ったら。枢は、一緒に死体を埋めてくれる?」


 カレーに入れ忘れた香辛料が、遅れて舌の根元を焼いていくようだった。


 すぐに喉から水分が奪われて、粘膜が張り付きそうになる。


「なにその質問」

「いいから、答えて」


 枢は困り眉を作ったが、顎に手を当て真剣に考える仕草をする。


「そうね、警察に通報するわね」

「手伝ってはくれないんだ」

「当たり前でしょう? なんで私まで罪を被らなきゃならないのよ。罪を犯した人間は、等しくその罪の重さに値する罰を受けるべきだわ」


 枢は正常な価値観と、健全な正義感を合わせ持っている。これほどまでに、正当な評価はないだろう。


 私が何も言えずにいると、枢が肩をすくめた。


「あなたは人を殺すような人間じゃないから、そんな心配は不要よ」

「そう、思う?」

「ええ、だってあなたは、困っている人をこれまで何人も助けてきた。それは私がこの目で見てきたもの。瑠莉は、優しい人間よ」


 もう、取り返しの付かないところまで来ているのだと気付いた。


 私はとっくに、人格すら形が分からないほどに溶かして、ドロドロの状態になっていたのだ。自分からも、他人からも、評価の違う。まるで、今の私は存在していないかのような錯覚さえ覚えてしまう。


 虐待されていたことがバレても、枢は何も言わなかった。悩んで、考えて、それで尚、私との関係を終わらそうとは思わなかった。こうして、変わらず私と接してくれている。


 だから、もしかしたら、と思ってしまったのだ。


 もしかしたら、枢には、私の過去を、私のしてしまったことを、言ってもいいんじゃないかと。


 都合のいいことを、考えてしまったのだ。


 まだ、そこまで仲良くなっていない状態だったら、よかったかもしれない。


 だけど、私と枢はすでに、親友とまで言える関係に発展してしまっていた。


 強固なものほど、崩れるときには大きな音を立てる。それがとてつもなく、怖い。


 外から流れてくる生暖かい風に意識を撫でられて、曖昧に笑う。


 よかった、言わなくて。気が触れなくてよかった。充実した一日の波に流されて、さらわれるところだった。


「ただ」


 ドアを締めようとした枢が、振り返る。


「罪を償う手伝いなら、してもいいわ」


 それだけ言い残して、枢は行ってしまった。

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