第10話 牢獄
おへその辺りに添えられた指先を見つめたまま、私は狼狽してしまう。
シャーペンで刺すとか、首を絞めるとか。これまでしてきたことに比べたらまだ正常の値的には初期値に近い。
私の基準値を測る目盛りが、とっくに壊れてしまっていないかだけ不安だった。
私はゆっくりと、床に手を付いて館羽に近づいていく。ベッドの取っ手に寄りかかった館羽は、シャツをめくりあげたまま、潤んだ瞳でこちらを射貫いてくる。その視線の揺らめきが、どれだけ人を混乱させるのか、館羽は分かっているのだろうか。
「あっ」
館羽のお腹をおそるおそる触ると、か細い声と共にその身体が震えた。
「ごめん、冷たかった?」
私は基礎体温がそこまで高い方ではないし、手足の先はいつも冷えている。手が冷たい人は心が温かいなんて、誰が言い始めたんだろう。私の憶測だけど、手も心も冷たい人間が、自分にはまだ誰かに優しくなれる可能性があると信じたくて、そんな戯れ言を言ったような気がする。
「ここでいいの? おへそのあたり?」
「もっと、上かな。みぞおちあたり」
館羽の肌は赤ちゃんみたいにスベスベで、しっとりしていた。みぞおちに手を添えると、下側だけ出ている青い下着に指が触れて、変な汗が出てくる。
手に力を入れるには、自然を身体を寄せるしかなかった。館羽の困惑したように下がった眉毛を間近で見ながら、指に当たる肋骨をゆっくりと押し返していく。
トク、トク、と。遠慮がちに鳴る心臓の音が手のひらに伝わってきた。優しい鼓動だった。命が芽吹く小さな奇跡を思い出させる、神秘的な脈動を感じていると、どうしてか私の心臓までその音を追い掛けようとする。
館羽が一つ、身じろぎすればそれを追って、私も足の位置を変える。館羽と、心が通じ合っている、そんな気になる。
「
「え?」
「押さないの?」
押してる、そう答えようとして、頭をガツンと、レンガで殴られたような衝撃が走った。
私、なに勘違いしてるんだろう。
これから、とても温かい、人としての営みを経て館羽との絆を深めるんだとばかり思っていた。肌で触れ合い、互いの鼓動や呼吸を意識しながら、理解を深めていく。電気を消したくなるような、恥ずかしくてくすぐったい、そんな時間が始まるのだとばかり思っていた。
でも、違う。
私は罪人で、目の前にいる館羽は、私が一生かけて償っていかなければならない存在だ。
これから行われるのは、あの日の続き。
館羽の顔を、苦痛に歪めなければならない。
「あ……ッ」
体重をかけて、手のひらを押し込んだ。私の手に、形を変えていく館羽のお腹。
手のひらには内臓や骨、肉が形を変えていく感触が確かに伝わってきた。ぐっと力を入れるたびに、館羽の身体が跳ねる。口から涎を出し、天井に着き出すような舌が歯の隙間から見えている。
「く、ぃ…あ、ッ……っは」
館羽が私の手をガッシリと掴んだ。
涙の滲んだ館羽の瞳が私を映すと、私はつい、手の力を緩めてしまった。
すると、館羽がキョトンとした顔で、涎のついたままの口元を丸くする。
「あ、あれ? 瑠莉ちゃん?」
困惑と不安が、声となって耳朶を打つ。
「して、くれないの?」
そうだ、幸せになろうとするな。私はどうしようもない人間なんだから。
勘違いするな。私は館羽と健全な仲になることなんかできない。
獄中にいる殺人鬼も、こういった感傷に浸るときもあるのだろうか。こんな自分でも、と遠い夢を見て、泣きそうになるときがあるのだろうか。
もしあるのだとしたら、声を大にして人は言うだろう。
ふざけるな。極悪人のくせに。
「……っ、は、ァ……か、は……ッ!」
いつも小鳥みたいに小首を傾げている館羽の首が、意識を失ったかのように仰け反っている。
子犬みたいな上目遣いをする瞳も、つり上げられたように白目を剥いている。
鈴が鳴るようなか細い声も、酸素を欲して獣のように呻いている。
これでいい、これで。
館羽のお腹を押しながら、空いた手で首も絞めてあげた。
驚いた館羽が一瞬、私の名前を呼んだ気がした。しかしそれも、空気と共に塞き止められる。
ベッドに押し倒すように、館羽の首を締めて、お腹には膝を当てた。こっちの方が苦しいのか、館羽は何度も足をばたつかせた。
頭が、ぼーっとしてくる。
それなのに意識は鮮明で、思考もクリアで。ただ、自我だけが、地盤が揺らいだみたいに安定しない。私は私なのに、まったく別の私が顔を出して、身体に命令を出しているような気さえしてくる。
顔が熱い。息が荒くなる。
目が乾いて痛い。まばたきを忘れていたことを、そこで思い出した。
舌なめずりで唇を潤して、だけど手の力は緩めないように。
――そうなんだぁ、瑠莉ちゃんの好きな音楽、よかったら教えて? 私も聞いてみたいっ。
「あっ、ゲホッ! ゲホッ! はぁ、はぁ……ッ!」
気付いたら、手を離していた。
さっきまで驚くくらい鮮明だった意識も、今は灯籠のようにぼやけている。睡眠から脱却したばかりのような淡い思考を巡らせて、私は遅れて、今の状況を理解する。
「ゲホッ、オエッ……!」
館羽が咳払いの中に、嘔吐くような声を混ぜる。館羽は自分の首元に手を添えて、床に向かって涎を垂らしていた。
「だ、大丈夫!? 館羽!」
さすがにやりすぎた。今もまだ手元に残っている、館羽の首とお腹を押し潰そうとした感触が妙に生々しくて、慌てて駆け寄った。
館羽はまだ喋れない様子で、大げさなほど肩を上下に揺らせて息をしている。
「ご、ごめん……!」
こんなのもう、お遊びじゃ過ぎない。
館羽にお願いされたからじゃ、すませられない。
私は館羽の目にシャーペンを刺したとき、わざとでは決してなかった。だから、もし……このまま館羽の首を絞めて、絞め殺してしまったとしても、同じ言い訳を使う。
わざとじゃないんです、お願いされたんです。
牢獄の中でそんなことをつぶやいている自分を想像したら、血の気が引いていった。
館羽はちょっとずつ呼吸を整えていった。ようやく話せるようになったのか、小さな声で、私の名前を呼ぶ。
「瑠莉ちゃん、今日……すっごくよかった」
その目は熱に溶かされていて、唇は歓喜に震えている。
うっとりとした表情で、館羽が何度も自分のお腹と首をさする。
「容赦がなくて、本当に、私を、殺してやるんだって気持ちが伝わってきた。今でもドキドキしてる。どうしよう……嬉しい」
汗ばんだ額から、冷却シートが剥がれ落ちる。しかし館羽は目もくれずに、今度はズボンを脱ぎ始めた。
「今度はここに、えっと、あ、そうだ。ライター。居間にあったから、取ってくるねっ。前の傷口、まだ残ってるからそこを焼いてほしいのっ」
「あ、ま、待って!」
遊ぶ約束をしていた友達の来訪に、インターホンまですっ飛んでいく、そんな子供のような様相の館羽を慌てて呼び止める。
「今日はもう、やめよう」
「どうして?」
「館羽、風邪引いてるでしょ。体調悪いときは、控えよう。こういうこと」
館羽がドアの前で立ち止まる。
片足だけ靴下がない。さっきの拍子に、脱げてしまったのだろうか。
「ふーん」
岩のように尖って、固い。それでいて血の通っていない声が、ズシっと部屋に落ちる。
地が揺らいだ気さえした、低い声。
「わかったよ、瑠莉ちゃん。たしかに病み上がりはよくなかったかもね」
「うん。館羽、顔赤いし、今日はもうゆっくりしたほうがいいよ」
館羽は納得してくれたようで、素直に頷いてから、壁にかかった時計を見た。
「瑠莉ちゃん、今日はもう帰るよね」
「え?」
「え、だって、やること終わったから」
ここからだと、館羽の右半分の表情しか見えない。だからだろうか。微動だにしない、右の義眼が、じっと壁の四隅を見つめている。そのあと、館羽がこちらに振り向く。左では私を見ていたということが、そこで分かる。
「うん、今日はもう帰る」
「じゃあ玄関まで送るよっ」
カバンを持って、部屋を出る。廊下は肌寒く、せっけんの香りがした館羽の部屋とは違い、人の生活する香りが一切しなかった。
階段を降りて玄関に到達するまで、小物や家具に遭遇しない。
「館羽、お母さんほとんど帰ってこないって言ってたけど、ご飯はどうしてるの?」
「冷蔵庫に惣菜とか、コンビニ弁当がたくさん入ってるからそれ食べてるよ。お母さん、深夜にはたまに帰ってきてるみたい。水もあるし、お小遣いも毎月そんなにいらないよってくらいくれるんだぁ」
育児放棄とか、そういう方面の問題じゃなくてよかったと安堵するものの、心のひっかかりはとれなかった。
「手作りとか、食べたくなるときない?」
「え? うーん、考えたことないかも」
「コンビニ弁当とかって、塩分も多いし、保存料も入ってるから、たまには手作りの料理を食べたほうがいいよ」
「そうなのかなぁ。でもお母さん、きっと忙しいだろうし」
玄関で靴を履き替える。あとはドアを開ければそれで私は用無しだ。
館羽が私をこうして受け入れてくれるのは、痛いのが好きという欲求を私が満たしてくれるからだ。
それなのに、私は。
「つ、作りにこよっか!」
それ以上の関係を作ろうとしている。
歪んだ針金を、むりやり真っ直ぐにするように。
「カレーとか、いろいろ、簡単なのなら作れるからさ。だからっ、明日……また来ようかな。なんて」
弧を描くように投げたボールが、失速してひょろひょろと地面に落ちていく。
館羽は耳が肩に付きそうなくらいまた、首を傾げて、そして、笑った。得意技のように。
「いいの? 嬉しいなぁ、じゃあ明日も、待ってるね」
その瞳の奥には私と違うものが見えている。そんなこと分かっているのに、私もまた、別の方角を見ずにはいられない。
「それじゃあ、またね」
「うん。ばいばいっ、瑠莉ちゃん」
手を振る館羽に、振り返す。
さっきまで彼女の首を絞めていた、その手で。
大きな雨粒を傘で受けながら、私は帰路に就く。
水溜まりができた道路で、カエルが一匹潰れていた。
私はいったい、どこへ向かっているのだろう。
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