第12話 悪魔
グラウンドから、空砲の音がする。
明日のリハーサルを終えた体育祭委員が、ふざけて鳴らしたのだろう。
前夜の時点で浮かれているのだから、当日になったら空まで飛んでいってしまうのではないだろうか。
とはいえ、私もつま先の感覚がやや不明瞭なのは自覚している。おそらく、楽しみなのだろう。体育祭自体もそうだし、なにより授業がないこと、そして明日は特別な日であることがなによりも心を躍らせる。
明日は何をしてもいいわけじゃないけれど、多少の不良行為は許される。今夜は各地のドラッグストアでヘアカラースプレーが売り切れになることだろう。
「楽しみだね」
夕暮れの教室には、私と
私はクラス委員になったときと全く同じ流れで体育祭委員に選ばれた。さっきまでパネルの準備などに精を出していたのだが、館羽の姿が見えたので抜け出してきたのだ。すでに準備は終わり、ほとんど自由時間だったので問題はないだろう。
私は窓際の出っ張りに腰をかけて、窓の外を眺めていた。
「館羽は、楽しみじゃない?」
夕陽の差し込む教室は、いつも授業を受けているときの様相とは異なり、どこか教会のような神聖さすらあるように思える。机の横にも、カバンはかかっていない。人もいない。先生もいない。黒板は綺麗に消されている。廊下はしんとして静かだ。階段の方はすでに消灯されている。二十分になってもチャイムが鳴らない。
なんだか特別なことをしているみたいだった。
さざめきに靡くカーテンに目を細めながら、館羽が曖昧に笑う。
「どうだろう、わかんない」
「でも、騒がしいのが苦手な人もいるか。私はずっと昔から体育祭好きだから」
四年連続で体育祭委員、もしくは応援団に所属しているのは密かな自慢だった。中学では三年間ずっと応援団だったし、今年は体育祭委員。一丸となって催し物をよりよい物にする活動は、私の性に合っていた。
「あ、でも、これは楽しみ」
館羽が未使用のピアッサーを見せてくる。
体育祭当日は、多少の校則違反は許される。髪を真っ赤に染めてくる人もいるくらいだから、ピアスはその中でもかなり目立たない部類だろう。
館羽がピアスを開けたいと言ってきたのは今朝のことだった。聞いたときは驚いたが、遅れて合致もいった。
きっと館羽は、ただ針を、身体に通してみたいのだろう。
「チクってするのかなぁ。でも、針が肉を貫通するわけだから……きっと痛いよねっ」
期待に胸を膨らませる館羽が、ピアッサーを袋から出す。
「わあ、思ったより針太いんだね」
「一気にいくから、思ってるよりは痛くないはずだよ」
一年前の夏休み、友達同士で開けたことがある。一ヶ月限りのオシャレだったけど、あれは楽しかった。片耳に付けていたからかもしれないけど、日常生活の中であんなに左右を気にすることが増えたのが驚きだった。ピアスを付けている方を人に見てもらいたいと、左ばかり向いていたのは、少し子供だったかもしれない。
「
館羽が髪をかきあげる。普段は見えない耳が露わになって、夕陽が一瞬朝日のように白く光ったような気がした。掠れた声で返事をして、館羽からピアッサーを受け取る。
「右と左、どっちにする?」
「右かなぁ」
その意図は汲み取らず、底の抜けたバケツですくいあげた。
館羽の耳に触れると、館羽が撫でられた猫のように目を細める。ピアッサーをセットすると、館羽が胸に手を当てる。緊張しているのが分かった。
「いくよ」
何度か手伝ったことはあるけど、ピアッサーを通してあげるとき、だいたいの子は目を閉じる。だけど館羽は、そこに宝物でもあるみたいに、じっとこちらを見上げている。潤んだ瞳に、私の引きつった顔が映る。どういう感情で、どういう顔を形作っているのか、自分でも分からない。
勢いよく針を通すと、プラスチックで出来たストッパーがカチっという音を立てる。
館羽の口が微かに隙間を作る。そこから、微かな吐息が漏れた。
「もう一回、押すね」
ここから更に強く押し込まないと貫通しないで途中で針が止まってしまう。
「動くと、危ないから、じっとして」
針の角度が変わっても刺さりづらくなる。私は館羽の頬に手を添えて、反動で動かないようにした。
手のひらが驚くほど熱い。いや、館羽の顔が熱いんだ。紅潮した館羽の頬は、夕陽に照らされてもなお、その色彩を損なわない。
たった二人だけの教室に、透明のファーストピアスがはまる音がした。
「通ったよ」
手を離すと、館羽は興味深そうに右耳を撫で、そこにある凹凸をなぞっていく。
「一ヶ月は外さない方がいいよ。膿んじゃうから。あと、一応髪は下ろしな」
館羽の耳にかかっていた髪を下ろしてあげる。髪は一本一本、繊維のように順序よく流れ、耳に開いた穴を隠した。
「また、開けてもらっちゃったね」
黒目の動かない義眼が、笑みを象る瞼に潰されて見えなくなる。
夕陽にカラスと、コウモリが混ざるようになった。時計を見たら、もう五時半になっていた。
「館羽はさ、痛いの、好きなんだよね」
「う、うん」
館羽が恥ずかしそうに身を縮こまらせ、小さく頷く。まるで、恋にまつわる甘酸っぱい話の口火を切ったかのようだった。そのアンバランスさに、足元がぐらつきそうになる。
「それは、気持ちいい、の?」
聞きづらいことに自分から足を踏み入っていると気付いたのは、口を開いたあとだった。
「気持ちいい……えっと、そう、なのかな。ちょっと曖昧なんだけど、でも……どっちかというと、証になるっていうか」
「証?」
「生きた証」
好きな人の名前を告げるみたいに、館羽がはにかむ。
「私、思い出がないの。これまでどうやって生きてきたか、何を目的として生きてたか全然思い出せなくて、思い出せるのは、痛みを伴ったものばかり。痛みはね、私の記憶に焼き付いてくれるの。だから、瑠莉ちゃんとのことは忘れなかった。瑠莉ちゃんに痛いことしてもらっている間のことは全部覚えてるの。あの日、あのとき、私は生きてた。たしかに存在してた……みたいなっ、ご、ごめんね。うまく、言い表せなくて」
「つまり、記憶に焼き付けたいから痛みが欲しいってこと?」
「そうじゃないよ。痛いのは好き。好きなことだけが、記憶に残ってる。だからね、さっき体育祭楽しみかって瑠莉ちゃん聞いてくれたでしょ? 私、分からないの。今までの運動会、体育祭で何をしてたか。楽しいって感じてたのか。全然、覚えてなくって。そもそも、ちゃんと出てたかも曖昧で」
「さすがに出てたんじゃない? 写真とかあるでしょ?」
踏んではいけないものを踏んでしまった。足をあげたときにはもう、遅かった。足裏に、びっしりと黒いシミがへばりついていた。
「お母さん、体育祭とかそういうのは来ないから」
きっと館羽は、小さい頃から、家族との思い出がなかったのかもしれない。だからどんどん、楽しいことや嬉しいことの境目が薄れていって、僅かな感情の揺れ動きでは脳が楽しいと感じなくなって。痛みという鮮烈な感覚だけが、館羽の心を突き動かす燃料になってしまったのかもしれないと私は思った。
「でも、今はすっごく楽しいよっ。瑠莉ちゃんと出会ってから、毎日が忘れられない日になってる。瑠莉ちゃん、私を救ってくれて、ありがとう」
夕陽に照らされるその笑顔は、いずれ夜になる太陽が辿る、一抹の寂寥のように一過性の輝きを持っていた。それを喜んでいいのか悪いのか、判断ができない。
館羽が喜んでくれるなら嬉しい。でも、痛みだけがもたらす生きた証とは、良いか悪いかの問題ではなく。
とても……危ういもののように感じてしまうのはどうしてだろう。
「これくらいなら、いくらでも、付き合うから」
ピアスを開けるくらいの痛みなら、シャーペンを刺したり首を絞めたりするよりよっぽど健全なはずだ。……はずだ。
校則違反で、先生に見つかったらきっと怒られる行為を、まだマシだと私は捕らえている。本当はピアスなんて、開けない方がよかったかもしれないのに。
「あは」
館羽が白い歯を見せて笑う。
誰にでも見せる友好的な表情ではない。
私にだけ見せるその笑顔は、まるで悪魔が乗り移った天使のように、美しい。
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