第6話 愛撫
それから二日後、だいたいクラスの子の名前を覚えきった頃合いだった。
「
ホームルームが始まる前の、まだ寝起きのあくびが頻発する緩い教室の中で
「あ、瑠莉ちゃん、おはよお」
「私のこと、
挨拶を大股で飛び越えた瑠莉ちゃんは、前のめりになりながら私の席に手を置いた。
瑠莉ちゃんは何があったかを正確には言わない。正確に言ってしまったら、今まで築き上げてきたものが一瞬で崩れてしまうから。
「ええっと、ごめんね瑠莉ちゃん。枢ちゃんがどうしても小学校の頃の瑠莉ちゃんを知りたいっていうから」
「でもっ、だからって」
切羽詰まった唇からは、堤防にぶつかった波のような声しか出てこない。
「私、言わなかったんだよ。館羽のこと……それなのに、ひどいよ」
「瑠莉ちゃんを困らせたいわけじゃなかったの。きっと過去の瑠莉ちゃんを知ることで、枢ちゃんとの仲も、もっと深まるかなって思って。私、気が回らなかった。ごめんね……」
全部知ってる。瑠莉ちゃんがそれをこれまで包み隠して生きてきたことも。知られたくないから、そんな過去とは真逆の人生をこれから送ろうしていることも。
「瑠莉ちゃん、ここだと誰かに聞かれちゃうかもしれないから、移動しない?」
私は瑠莉ちゃんをトイレに連れて行った。最初、人はいたがチャイムが鳴ると出て行って、トイレの中は私と瑠莉ちゃんしかいなくなった。
「今らならホームルーム中だから、誰も来ないよ」
念のため、個室に入って鍵を閉める。二人きりの、狭い部屋。息が詰まりそうで、逃げ場なんてない、白い壁に囲まれた部屋。外の世界から隔離されたここは、現実に存在する常識というものを気にしなくてよくなる。
「私が虐待されてたこと、なんで話したの」
胸ぐらを掴もうとした手が、失速して落ちていく。代わりに、恨むような瑠莉ちゃんの目が私を射貫く。しかし、そこには溢れんばかりの罪悪感が注がれていて、力はないも同然だった。
「あのときの瑠莉ちゃん、なんだか辛そうだった。私、一度神社に見に行ったことあるんだよ。瑠莉ちゃん、林の中にいたでしょ?」
瑠莉ちゃんが後ろに退く。だけど、背中の向こうは壁しかない。逃げ場がないのは私も、瑠莉ちゃんも一緒だった。
「あのとき、何もできなくてごめんね。助けてあげられなくってごめん。枢ちゃんは瑠莉ちゃんとも仲良さそうだし、枢ちゃんなら瑠莉ちゃんの助けになってくれるだろうなって思ったの。おとしめるつもりなんかなかったんだよっ、瑠莉ちゃん、信じて?」
ホームルームが終わり、今度は一限の予鈴が鳴る。廊下からは微かに声が聞こえてくるが、朝よりは少ない。時折トイレの前を誰かが通るたびに私も瑠莉ちゃんも肩を震わせたが、幸いトイレに入ってくる子はいなかった。
「でも、瑠莉ちゃんも悪いんだよ?」
「私?」
「だって昨日、なんでもしてくれるって言ったのに、してくれなかった。瑠莉ちゃん、私に嘘をついたの?」
「嘘吐いたわけじゃない。でも、あの願いは、聞き入れられない……また、館羽のことを傷つけるなんて」
「ふーん、じゃあ。いいんだ?」
自分でも驚くほどの低い声がでる。反響したものが、あまりにも鈍重で、慌てて喉の音階を切り替えた。
「瑠莉ちゃんが約束、守ってくれないならぁ、私だって考えがあるんだよ?」
「……考え?」
問題を解決できるかどうかではない、先送りにする手段を探している、そんな面持ちで瑠莉ちゃんが顔をしかめる。
「瑠莉ちゃんが誰にも知られたくないこと。虐待の件もそうかもしれないけど、もう一個、あるよね? 瑠莉ちゃんが一番、恐れているもの」
私が右目を指さすと、瑠莉ちゃんの額に汗が滲んだ。
「この右目は瑠莉ちゃんに失明させられたんだって、クラスのみんなに言ったら、どうなるかな」
一限が始まって静まりかえった廊下に、今の瑠莉ちゃんの息を呑む音は聞こえたかもしれない。骨が軋むような音が、瑠莉ちゃんの口の中から聞こえる。
「瑠莉ちゃんがこれまで本当に頑張ってきたのは見れば分かるよ。瑠莉ちゃんは優しくって、明るくて、みんなに頼られる良い子になった。クラス委員長だって任されるくらい、人望もある。あの瑠莉ちゃんがこんな立派な子になったんだもん。努力したんだろうなって思うし、反省もしてくれてるんだって、私、すっごい嬉しいし、誇らしいんだぁ」
それはだって、私という存在が、瑠莉ちゃんの人生にずっと、黒カビみたいにこびりついて離れなかったということだ。私が誰かに影響を及ぼすだなんて、これまでには考えられないことだった。
「だけどね? 瑠莉ちゃんは本当はそんな子じゃないでしょ? ちょっと気に入らない子を力ずくで排除しようとする。どんな手段を使ってでも、相手がどんな辛い目に合おうとも自分さえ良ければ良い。瑠莉ちゃんはそういう人間だよ。人をシャーペンで刺すし、バケツに顔を突っ込ませて溺れさせようとするし、傷口をライターで炙ったりも平気でできる」
そのとき、遠くの方で物音がした。どうやら、私たちの他にも一限をサボっている人がいたみたいだ。
「あれ、誰かいたかな?」
瑠莉ちゃんが勢いよく振り返る。綺麗に流れるサラサラの髪も、今はボサボサの毛玉に見えた。
「あは、怖いよね。聞かれたら、終わっちゃうもんね」
「館羽……」
「大丈夫だよ、言わないよ。何回も言うけど、私は瑠莉ちゃんのこと恨んでなんかいないよ。あのときのことは、全部許したから、いいんだよ」
でも、と付け足すと、瑠莉ちゃんの身体がよろめく。
「瑠莉ちゃんが言うこと聞いてくれないなら、もしかしたら、何かの拍子に、今回みたいに枢ちゃんに言っちゃうかも」
瑠莉ちゃんの唇から色が失われて、花のようだったピンクも気付けば毒々しい色に変わっていた。ひび割れて、大きく口を開いたせいか血が滲んでいるようにも見えた。
「……どうすればいいの」
「前に言った通りだよ。私、痛いのが好きなの」
瑠莉ちゃんの首の後ろに手を添える。瑠莉ちゃんの身体を引き寄せて、その耳元で囁いた。
「だから、私の言うこと聞いて?」
顔を離すと、瑠莉ちゃんが唇を噛んでいた。
「交換条件だよ。瑠莉ちゃんが私の言う通りにしてくれたら、私も瑠莉ちゃんのこと、もう誰にも言わないから。ねっ?」
「……分かった。言わないでね、絶対」
飼い主に突然捨てられて、行く当てもなく雨に打たれた子犬のように、瑠莉ちゃんが身体を震わしている。
私が小指を差し出すと、瑠莉ちゃんもおずおずと、小指を重ねてくる。小指を絡めて、互いに契りを交わす。
「これで、交渉成立だね」
「何をすればいいの?」
「えっとね、まずはバケツに水を汲んできて欲しいの。バケツは掃除用具入れにあるから。あ、なみなみにね」
一瞬眉をひそめた瑠莉ちゃんだったが、すぐに個室から出て、バケツに水を汲み始める。
「汲んできたけど」
「ありがとう、瑠莉ちゃんっ。じゃあ、かけて?」
「は?」
「だから、上から、かけてよ」
意味が分からないなんてことないはずだ。だって発案者は瑠莉ちゃんなのだから。知らないフリにも限界はある。押し寄せてくる思い出の数々から逃げられなくなった瑠莉ちゃんが、バケツを私の頭上に持って行く。
「館羽……私、やっぱり、こんなの」
「言っちゃうよ?」
その言葉が、合図になった。瑠莉ちゃんは私の頭上で、バケツを引っくり返す。
大量の水が、頭から降り注ぐ。前髪が一気に顔に張り付くこの感触。懐かしい。この水を被ると、これから始まる行為に想いを馳せずにはいられなくなる。身体がむずむずして、早くしてって気持ちばかりが先走る。
こんなに冷たいのに、私の身体はどんどんと火照っていく。
「見て、瑠莉ちゃん」
私はびしょ濡れになったブラウスのボタンを一つずつ、外していった。
「水着、着てきたんだよ」
制服の下に着ていた紺色の水着を見せる。瑠莉ちゃんはハッとしたような表情で、食い入るように目を丸くした。
「瑠莉ちゃんにしてほしくて、ずっと、着てたんだよ」
入学式のとき、再会を果たしてから。私はいつそのときが来てもいいように必ず水着を下に着込んで登校してきた。そして今、そのときが来ている。
「シャーペンもあるの。瑠莉ちゃん、して、くれるよね?」
みんなからしたら、ただの文房具かもしれない。ノートに線を描くだけの用途しかないそれは、私にとっては、この皮膚を切り裂くための刃物だ。銀色に輝くその先端が、鎌首をもたげるようにこちらを見ているこの景色こそずっと追い求めていたものだ。
自分で自分を刺そうとしても、その景色は見られない。誰かが私に敵意を向けてくれないと、この奇跡は生み出されないのだ。
瑠莉ちゃんはシャーペンを受け取ったが、手が震えている。だから私はその手を優しく握る。
「大丈夫だよ瑠莉ちゃん。瑠莉ちゃんならできる。だって、あれだけしてくれたでしょ? 何度も何度も、私が痛い! って叫んでも、やめて! って懇願しても、突き刺すのをやめなかった」
皮膚に浸入していくシャーペンの芯に苦悶する私を、瑠莉ちゃんは満面の笑みで見ていた。頬すら紅潮させていたと思えるほど、瑠莉ちゃんは幸せの縁にいたはずだ。
「ほら、刺して、刺してよ。瑠莉ちゃん」
スカートをめくりあげて、太ももを晒す。
「ちょっと痕も残ってるかな、ここ、瑠莉ちゃんに刺された場所だよ。近くで見てみて?」
瑠莉ちゃんの頭に手を添えて、私の太ももに近づける。瑠莉ちゃんの吐息が、かつて抉られた場所に当たって、背筋が震えた。
すでに治ってしまった傷口が、あの日あげた産声を、もう一度取り戻そうとしている。靴下まで到達した鮮血が、何度も目の奥でフラッシュバックする。
「ね、あるでしょ? そこを、刺して?」
冷たい感覚が、太ももに触れる。ズキッとした鋭い痛みが、身体の中に入ってくる。
自分でやろうとすると、絶対ここで止まってしまう。皮膚が異物を跳ね返す、ここが最大の壁だった。
「お願い、瑠莉ちゃん」
ここさえ超えれば、超えてくれたら。
「瑠莉ちゃんっ」
名前を呼んだその瞬間、痛烈な光が脳天を貫いた。
「あっ!」
声が出た。私はトイレの天井を見上げながら、口を開けて喘いだ。
「い、痛い、痛いっ! やめ、てっ……! 瑠莉ちゃん!」
やめてって言ってるのに、瑠莉ちゃんはどんどん私の身体に刻印を刻もうと押し込んでくる。留まるどころか、一秒ごとに痛みが増していく。終わりようのない怒濤の痛撃に、耳の奥がぎゅーっと詰まったような感覚に苛まれる。
ずっと、探していた。
草木のない砂漠で花を探すような、途方もない旅だった。
苦しかった。辛かった。
諦めようとも思った。
だけど、今、ようやく見つけた。何もない砂の上で、それは綺麗に咲き誇っている。風に揺れても懸命に根を張るその花は、まるで頑張って生きてきた私に神様がくれた、プレゼントかのように思えた。
「やめないで、やめないで瑠莉ちゃん」
手が緩んだのを、私は見逃さない。
「瑠莉ちゃんなら、もっといけるよね? できるよね? あのときはもっと――」
じゅく、とシャーペンの芯が、大切な、守られている神経の末端に到達した音がした。私は声を発することができなくなり、口から垂れる涎を拭うことも忘れてチカチカと電気のように点滅する脳の瞬きに感激していた。
到底、我慢できる痛みではなかった。痛いと叫ぶたびに涙が出て、耐えるために歯を食いしばると押し出されたかのように鼻水が垂れてくる。私の顔はもう、ぐしょぐしょだった。
「瑠莉ちゃん、そこ、もっと……っ、アっ!?」
限界は、唐突にやってきた。シャーペンの芯が折れると、その勢いのままシャーペンの先端が傷口に叩きつけられた。触れたのは銀色の剛直と、瑠莉ちゃんのしっとりとした指先。
血管ごと焼かれたように、胸から指先まで余すことなく熱くなる。ぐん、と手足が伸びたのは死後硬直なんじゃないかと思うほど、意識の彩度が不透明だった。現実感のない感覚に、背中が震え、息が細く、速くなる。
跳び箱にお腹をぶつけたあの日と、同じ。ちぎれていた導線が一瞬ですべて繋がり、脳の制御レベルを超えた情報量に思考を焼け焦がされる絶対的到達点に、私は来てしまった。
達成感と多幸感、それから充実感に、我を忘れて獣のような声をあげて意識を手放してしまった一瞬は、もしかしたら人間が死ぬ瞬間に見る景色に最も近いのかもしれない。
私はようやく落ち着いてきた息を整えて、目を開ける。首筋には、じっとりと汗をかいていた。
瑠莉ちゃんは、シャーペンを握りしめながら、泣いていた。
「私、こんな……こんなことするために、変わったんじゃないよ。私、マトモな人間になりたい。誰かを傷つけるような人間にはもうなりたくないの! だからっ」
「違うよ瑠莉ちゃん。瑠莉ちゃんは勘違いしてる。人間はね、変わることなんかできないんだよ」
そんな瑠莉ちゃんの手を、優しく包み込んだ。
「私もね、変わろうとしたよ。痛いのが好きだなんておかしいから、治さなきゃって思いながら、今日まで生きてきた。でもね、無理だったの。どう頑張っても、私は痛み以外から幸せを見つけることができなかったの」
人並みの恋愛をして、人としての温かを手に入れて、当たり前の幸せを手に入れたい。手に入れなきゃ。何度思っただろう。
だけど、変われなかった。気付けば私は、人の目を盗んで、自分の身体を傷つける。そんな毎日を送っていた。
「人間は変われない。瑠莉ちゃん、あなたは人を簡単に傷つけられる人なの。優しい子になんてなれない。でも、いいんだよ、それでいいの。眼球を貫いたその罪深い手は、きっと誰からも愛されない。その手を許してあげられるのは、私だけ。だから、私たちは、こうなるしかなかったんだよ。最初から、全部間違えた、小学校の頃から」
シャーペンの先端には、まだ新しい、私の血がべったりと付いていた。震える瑠莉ちゃんの指先を撫で上げて、長年かけて被ってしまった埃を払い取ってあげた。
「ごめんね、瑠莉ちゃん。虐待されてたこと、枢ちゃんに言って。もう言わないよ。瑠莉ちゃんが本当はどんな人間かなんて、誰にも言わないから」
瑠莉ちゃんの指を、引き寄せて、もう一度、太ももに添えさせる。
「だから、して? まだ満足できないの」
「館羽は本当に、これでいいの」
「うん。瑠莉ちゃんじゃなきゃこれはできない。瑠莉ちゃんだから、いいの」
ぐっと力が込められた。さっきよりもすんなり、皮膚へと入ってくる。
途切れ途切れの呼吸の中、私は泣きそうな顔でシャーペンを突き立てる瑠莉ちゃんを見た。
「あは、そう……そうだよっ、瑠莉ちゃ……あっ、い、痛い……痛いよ、助けて、死んじゃう……これ、死んじゃうよ」
授業中のどこかの教室から、誰かの笑い声が聞こえた。きっと先生に当てられたクラスのお調子者が変な答えをしたのだろう。和気藹々とした空気。人によっては、それが幸せと感じるのかもしれないけど。
私は、私たちはそうじゃないから。
「あっ、ね、ねぇ……瑠莉ちゃんっ……」
耳鳴りとは、きっと余分な老廃物を外に出して、粘り気のある血を集めた結果鳴るものなんだろう。頭が重い、思考が定まらない。
「一回変わっちゃったらっ、もう……もとの状態には、戻れないこと……なんていうか、知ってる?」
授業をサボっているくせに、授業の真似事をする。
瑠莉ちゃんは私の太ももにシャーペンを突き刺しながら、苦痛に叫ぶ私の顔をジッと見つめてくる。その優しいフリをした瞳の奥にある、鋭い敵意と理不尽な根絶思想で構築された深山瑠莉という人間の本質めいたものを愛撫するように、私は皮肉とも取れる春の風を頬に受けた。
「そういうの……不可逆って言うんだって」
ひゅうっと、また私の風穴から、風が吹き抜けていく音がした。
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