第5話 髑髏

 放課後の保健室には誰もいなかった。


 小中の頃は私もよく保健室にお世話になっていて、お腹が痛くなって先生にお湯を飲ませてもらっていたことが何度かある。そういうとき生徒は続々とやってきたものだが、高校生にもなると、みんな自分の居場所ができて、この場所に頼ることはなくなるのかもしれない。


 高校の保健室は、静かだった。


 窓の向こうから誰かの声が聞こえてはくるが、言葉までは聞き取れず、くぐもった声はまるで別の世界から漏れ出しているみたいだった。


「カーテン、閉めて欲しい」


 それでも誰かが来て見られたら嫌なので、視界を閉ざしてもらう。瑠莉るりちゃんは私の外れた義眼を見て、表情を曇らせた。


 長い沈黙が続いた。私は血が止まるまで、目をティッシュで押さえている。瑠莉ちゃんは、スカートの裾をギュッと握るようにして、たびたび何かを言いたそうにしていたが、その喉が何かを吐き出すことはなかった。


 血が止まった様子なので手を離すと、瑠莉ちゃんが穿孔を覗き込む。その奥の深淵に、瑠莉ちゃんは何を見たのだろう。


「ごめん」


 真空で、声は届かない。息が詰まるようなこの空間にも、酸素はあるのだった。


「ほんとに、ごめん」


 スカートを握る、その手の甲に、雫が落ちた。


 人間の涙なんて、全部が通り雨だ。雲が降らす雨のように、規則正しくはない。嵐のように吹き荒び、散々とっちらかしたあと、何事もなかったかのように晴れ間が差す。


館羽たてはの目のこと……ずっと、謝りたくって……でも、怖くて」

「小学校の時に、いっぱい謝罪はしてもらったよ。瑠莉ちゃんってば、何回もうちまできたよね。もう充分だよ」


 謝罪とは治療薬ではなく、傷を塞ぐだけの包帯にすぎない。どれだけ厚く巻こうとも、傷の治りが早くなることはないのだ。


「どの面下げてって、思うよね。人のこと、散々虐めてたくせに。ひどいこともいっぱい言った。治らない傷も負わせた。館羽から……光を奪った。ごめんで済む話じゃないっていうのは、分かってる」


 握りしめた拳の中には、きっとクラスのみんなから受け取った信頼と絆があるのだろう。手汗で滲んだそれは、ゆっくりと溶け込んで、瑠莉ちゃんの中に浸り、こびりつく。


「でも、私……変わりたくって。あのあと、どうしたらちゃんとした人間になれるんだろうって考えてた。でも、周りの目とか、あるから、なかなか変われなくって」


 ちゃんとした人間の定義は、なんなのか。虐めをしたことがあるかどうかを定義としているのなら、虐めを受けた人間は、等しくちゃんとした人間ということなのだろうか。


「中学で、転校して、一から、やり直したの。困ってる人がいたら助けたし、悩んでいる人がいたら寄り添った。あんな自分には、もうなりたくないから。館羽、私ね、心を入れ替えたの。あんなこと、もう二度としない」


 淡いピンクの唇の間から覗く白い歯が、ガタガタと震えていた。まるで、纏う肉をなくした髑髏が泣いているかのようだった。


「だからっ……もし、もし館羽が許してくれるのなら。私、友達になりたい。館羽のこと、ずっと大切にするから。優しくするから。もう一回、やり直したいの」

「瑠莉ちゃん……」


 幕間劇を見ているような気分だ。


「今まで逃げて、ごめん。私、向き合うのが怖くて。でも、もう逃げないから!」


 変わったのは、そうなのだろう。瑠莉ちゃんはきっと、地元じゃない中学に行って、新しい環境の中で、自分を再構築していった。私が最後に見た瑠莉ちゃんは、神社の林でアブにたかられながらジッと縮こまる姿だったから、瑠莉ちゃんからしたら、それは成功だったのかもしれない。


 瑠莉ちゃんはみんなから頼られる、明るい良い子になった。誰かを虐めるような人間には到底見えない。ましてや、他人の眼球にシャーペンを突き刺すような人間には。


「うんっ、もちろん。私も瑠莉ちゃんと仲良くしたい」

「館羽……」

「もうたくさん謝られたもん。瑠莉ちゃんが心から反省してるのは、今の瑠莉ちゃんを見ればわかるよ。だから、もう謝らないで」


 私の手を握る瑠莉ちゃんの様相は、いつのまにか、教会で神に祈る迷い人のようになっていた。鼻先を赤くしながら「ありがとう」と何度も呟く瑠莉ちゃん。


「義眼って、本当に半球体なんだね」


 瑠莉ちゃんが、私の目から外れた義眼を見てそう言った。


「そうなんだぁ。私も付けるときまで知らなかったよ」

「あの、館羽。義眼ってこと、周りにはもう言った?」

「ううん、言ってないよ。聞かれてないから」

「それがいいと思う。言ったら、いじってくる人とか、絶対いるから。さっきの、バスケ部の人たちみたいに、無神経な奴らには、気をつけて」


 義眼の付いていない私の右目を見ると、だいたいの人は顔をしかめる。私でも、鏡で見るたびに、自分の人体ながら気持ち悪いなと思う。私のお母さんですら、不気味がるぐらいだ。


 だけど、瑠莉ちゃんはそんな私の右目を見ながら、真剣な表情を崩さなかった。


「もしそうなったら、私に言って。私が絶対、館羽のこと守るから」


 違う、違うんだよ。瑠莉ちゃん。


 私が欲しいのは、優しさなんかじゃない。優しさじゃ、人生は埋まらないの。


「罪滅ぼしがしたいの。私、館羽のお願いならなんでも聞くよ。館羽がしてほしいこと、全部するから」

「じゃあ、瑠莉ちゃん。一個お願いしてもいいかな」


 私は別に、和解したいわけじゃない。あの日の出来事を解決して、これからあなたと仲良くお友だちになりたいわけじゃない。私が許すことによってあなたを苦しみから解放したいわけじゃない 


 瑠莉ちゃん、私はね。


 この何もない私の人生に、もう一度、風穴を開けてほしいの。  

 

「刺してほしい」


 私は自分の右目を指さして言った。


「シャーペン、カバンの中に入ってるでしょ?」


 瑠莉ちゃんは、状況が飲み込めていないようで、口を半開きにしたまま固まっていた。そして、苦悶の表情を浮かべる。


 ああ、また間違ってる。瑠莉ちゃんはまた、過去に帰って後悔してる。だから、根本から、勘違いしてるのに。


 でも、言っていない私も悪い。


「瑠莉ちゃん、こっちきて」


 手を引くと、瑠莉ちゃんが少しだけ近づく。


「他の人に聞かれちゃ、やだから」


 抱き寄せるように引っ張ると、瑠莉ちゃんが私に覆い被さる形になる。私の顔の前に、瑠莉ちゃんのぷっくりとした可愛い耳が現れる。


「あのね、私……痛いのが好きなの」


 囁くように吐息を逃がす。


 瑠莉ちゃんの足が、もぞ、と動いて、跳ねるように飛び起きた。瑠莉ちゃんは顔を真っ赤にしながら、私の息が当たった耳を片手で押さえている。


「だから、お願い。刺して?」


 どこにも逃げたりなんかしない。ベッドに横たわったまま、瑠莉ちゃんからの返答を待つ。


「刺すのが嫌なら、熱いのでもいいよ。苦しいのでもいい。あのときみたいに、してほしい」

「できないよ……そんなこと」

「どうして?」

「だって、私、また館羽のこと傷つけるなんてできない。せっかく、変わったんだよ。私、もう誰かを不幸にするような人間にはなりたくない」

「でも、できるでしょ? だって、したことがあるんだから」


 ノウハウは分かるはず。コツは知ってるはず。もう慣れているはず。


 他の人なら、正常な人なら、必ず手を緩めるであろう場面でも、瑠莉ちゃんは加減をしない。


 それが欲しいの。もうやめてって、心の底から叫んで、痛々しく顔を涙と鼻水でぐしょぐしょにしながら、骨の髄まで伝わる多幸感を味わいたい。


 お願い、お願い瑠莉ちゃん。


「今なら人が来てもバレないから。瑠莉ちゃん……」


 手を伸ばす。


 私の懇願は、瑠莉ちゃんの手によって払われてしまった。


「い、いくら館羽のお願いでも、むり……っ!」


 瑠莉ちゃんは私から逃げるように、保健室から出て行ってしまった。


 私の手に残る、じんわりとした熱が、優しい春風のように頬をすり抜けていく。


 あー、そっか。


 なんか、がっかりだ。


 もう、あのときのあなたはいないんだ。


 でも、変わることなんかできないよ。


 人間の本質は、決して変化しない構造になっている。


 瑠莉ちゃんが一番恐れていること、私は知ってるよ。


 それをしたら、瑠莉ちゃんはどう思うかな。


 怒る? 幻滅する?


 また、あの日の瑠莉ちゃんが顔を出してくれるかな。くれるよね。


 だって、変わったと思ってる瑠莉ちゃんが被っているのは、人の温かみではなく、熱を通さない石膏で出来た仮面なんだから。


 そっちがそう来るなら。


 私だってもう、知らないよ。

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