第二章
第7話 善良
脳裏に、指先に、こびり付いて離れてくれない。くしゃっという、新聞紙を丸めたときのような抵抗なく物が形を変えるときの音。型にはめられたゼリーが行き場所をなくして外に飛び出る光景。
そして、館羽の声にならない声。
息を吸って、吐けないままもがき、うずくまる。
どうせ冗談でしょ、と私は最初のうちは笑っていたと思う。
右目を押さえた手の隙間から鮮血がこぼれ落ちているのを見て、そこでようやく私は顔を引きつらせた。
そのとき、私は自分の保身ばかり考えていた。どうしよう、先生に怒られる。親に電話される。館羽の心配なんて、一つもしていなかった。
私は屑だ。
根っからの悪人なんだと、心のどこかで気付いていた。
どうしてあんなことをしたんだろう。シャーペンを刺したのは、私の意思じゃない。足が滑って、手を突こうとして、シャーペンを持っていたことを忘れてて……また保身に走る。
そもそも虐めなんかしなければよかったんだ。
なんで館羽のことを虐めるようになったのか、少しだけど覚えている。
館羽はよく笑う子で、最初は良い子だなって思ってた。だけど、誰にでも笑うことに気付いてから、その笑顔を見るたびにイライラするようになった。
館羽はいつも人の顔色を窺って、誰かの後ろのひょこひょこ付いていくような奴だった。
まるでポットのお湯をまんべんなく分けて注ぐかのようにクラスの子に順番に話しかける館羽を見て、私は友達に「見て、今度はあの子に話しかけてる」と言って嘲笑ったのが全ての始まりだった。
嘲笑は陰口に、陰口は暴言に、最後には暴力に成れ果てた。
どんどんとエスカレートしていく行為が虐めだなんて思ってもいなかった。授業中、館羽に消しゴムを投げて嫌がらせするのも、休み時間トイレに連れ込んで暴力を振るうのも、私の学校生活の一部だった。
シャーペンが館羽の視力を奪い、あちらの親御さんに直接謝りに行ったあたりで、私は自分のしていたこと、してしまったことの重大さを思い知った。
何もかもが遅かった。
父親が私に暴力を振るうようになったのはそれからだった。
お前がしていたのはこういうことだ。それが父親の決まり文句だった。
殴られるのは痛い。一度殴られると、殴られていなくても、近づかれるだけで怖い。目が合うだけで心臓が脈打つようになり、暴力というのは心も体も支配するのだと気付いた。私は家に帰るのが恐ろしくなり、家から遠く離れた神社で時間を潰すようになった。
ここなら父親に見つかっても、神様が助けてくれると思っていたのだ。
小学校高学年の頃、父親の暴力に母親が気付いてくれたおかげで、虐待は終わった。今でも父親とは気まずい雰囲気はあるにはあるが、そこそこ普通の家庭として形を保ててはいる。
館羽の目にシャーペンを刺したということは、瞬く間に広まってしまい、友達だった子も、先生も、私を見る目が変わってしまった。
すでに私の居場所はなかった。
それに、怖かった。
館羽とはクラスも別れてしまって一度も喋っていなかったが、廊下でたまにすれ違うことはあった。
手術後の館羽を初めて見たとき、右目が治ってたから、私が見ていたのは全部悪い夢だったんだと思った。だけど、それが義眼だと知ると胸が苦しくなった。
館羽の右目を見るたびに、私はあの日のことを思い出す。
だから館羽のいない場所に行きたい。
中学はわざとみんなとは違うところに入学させてもらった。
一からのスタートは、私を変える転機になった。
人を虐めて、失明までさせた罪深い人間とは思えないほど、私は充実した学校生活を送った。
困っている人がいたら必ず助けるようにした。友達のことは絶対悪く言わないようにした。部活を頑張った。勉強も頑張った。なるべく明るく振る舞った。誰にでも優しくした。
そうだ、私はちゃんと、できる人間だ。
館羽の右目に突き立てたこの手が負い目となって、私を悪人に引きずり込もうとしていただけなんだ。
人を虐めるような私はもういない。真面目な人間になろう。誰かを慮れる優しい人間になろう。そう決意した私は、じっくりと、身体に蝋を塗りたくるみたいに過去の惨劇をひた隠しながら中学時代を過ごした。
だけど、心にひっかかりはあった。
館羽は今、どうしているんだろう。
失明したあとのこととか、義眼の扱い方とか、片目を失った際に生じる障害のことなどを図書館で必死に調べた。
館羽、義眼のせいで、虐められたりしてないだろうか。
右目が見えないことで、不便していないだろうか。
片目が見えないと奥行きを感じられなくなり、飛んでくるボールとか、近づいてくる車とかが止まっているように見えなくなってしまうとも、本に書いてあった。
今になって、館羽のことが心配でしかたがなかった。
そのとき始めて、目を背けていた過去と、向き合いたいという気持ちが芽生えてきた。
……会いたい。
会って、精算したい。
私の罪を、償いたい。
謝っても済む問題じゃないのは分かってるけど、それでも謝りたい。額を地面に擦りつけて、声が枯れて出なくなるまで謝りたい。
もし、奇跡が起きてもう一度会えるなら、今度は絶対、虐めたりなんかしない。
館羽は多分、私のことは嫌いだろうし、許してくれてるとは思えないけど、それでもできることはしたい。
心を入れ替えたんだ。あの日の私はもういない。
虐めはどんな理由があっても絶対しちゃいけない。
水をかけて、シャーペンを刺して、傷口を炙って、ケタケタと笑い転げていた悪鬼のような私はもう殺した。
善良になるんだ。
それが私の、私なりの、消えない罪への向き合い方だから。
「
……それなのに。
「手、緩んでるよ。けほっ、ど、どうしたの? 続き、しないの?」
なんで私は、館羽の首に手をかけているんだろう。
館羽は目に涙を浮かべて、口元からは涎が泡となって吹き出ている。
私は館羽の首を、締めていた。
なんで、なんでこんなことになった。
もう虐めなんかしない。誰も傷つけたりしない。
善良な人間になるって決めたのに。
「あっ、か……はッ」
なんで体重を乗せて、館羽の息の根を止めようとしてるんだ。
白目を剥く館羽の目。だけど、右目だけが一点を見つめて動かない。義眼だから。光が、失われているから。
だけど、涙は出る。義眼でも、涙を分泌する腺は生きているから涙は出るのだと本で学んだ。
私と館羽は運命のような再会を果たし、私はこれまでしてきたことを館羽に謝る。私と館羽は打ち解けて、互いの間にあった問題は氷解していく。
ごめんね。ううん、いいよ。これからも仲良くしてくれる? もちろん。
そういう会話の中で、私は安堵して涙を流す。そして館羽も同じように涙ながらに私の手を取る。
義眼でも涙が出ると知ったとき、そういう、都合の良い展開を考えたことがある。できることならそうなってほしい。そうなるようにと、これまで努力してきたつもりだ。
人の痛みに敏感になれるように、人の心に寄り添える人間になれるように、頑張ってきた。
それなのに、なんだ、これは。
違う。
こんなのは、誰も望んでいない。
私は館羽から手を離して、後ろに倒れこんだ。
ベッドから降りて、床に落ちていた私のカバンをギュッと握った。館羽の首を絞めていた感覚を上書きするように。
「どうして、やめるの?」
「私、もうそろそろ、帰らなきゃ……」
ベッドから私を見下ろす館羽は、とろんとした顔で、笑った。
「瑠莉ちゃんの家族も心配しちゃうよね。わかった。玄関まで送るよ」
乱れた衣服を整える館羽は汗だくで、シャツが肌に張り付いて薄く透けていた。まだ息は荒く、表情はぽーっとしたまま、玄関まで付いてきてくれる。
「館羽のお母さんは、まだ帰ってこないの?」
「うん、今日は帰ってこないと思う」
薄暗い玄関で、館羽との会話を成立させる。
さっきまで首を絞めて、首を絞められていた人間同士のコミュニケーションとは、とても思えない。ドアを開けると、月の明かりが淡く世界を照らしていた。
「瑠莉ちゃんっ」
跳ねるような声が、背中に降りかかる。
「また、来てくれる?」
断れ、私。
こんなのおかしい。絶対間違ってる。
善良になるんだろ。だったら、こんなことやめろ。
「うん。館羽が、望むなら」
それなのに。
人工的に作り上げた正義感というものは、いともたやすく壊れてしまう。
おそるおそる、館羽の目を見た。
合成樹脂で出来たその義眼は月の明かりを反射することなく、すべての光を吸い込んだ漆黒の中で、私のことを、じっと見つめていた。
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