南方よりきたる大賢者(後)


 家からの道が山からの道に出会うところで、アレフはレニたちと合流した。

 そこから早足に目的地へ向かう。

「今日こそ先にポイントを押さえなくちゃ! またカリガルたちに出し抜かれちゃうぜ!」

「ああ、急ごう」

 彼らはぐんぐん走り、半刻後には山を越えていた。

 ここまできたら目的のツェルテ湖はもう見えている。

 くぼ地に広がる大きな水面。青空を映した湖は、銀色に輝いて眼前に迫る。

「ちょっと待ってくれ!」

 駆け足になる二人を止め、アレフは石細工を地面に置いた。

 石細工は陽の光を返したかと思うと、風にシーツがはためくように膨らみ、次の瞬間にはそこにガリオラが座っていた。

 そう、まるで魔法のように。

「おや、もう着いたのかね?」

「うん。ほらすぐあそこに見えるよ。あれが大ツェルテ湖」

「おお、なんと壮麗な……いや、しかしまだまだ老いた足には遠いの。アレフや、もう少し近くに石を置いてきておくれ」

「もうすぐそこじゃないか。そんな風に歩こうとしないから、こんな太鼓腹になっちまうんだよ」

 大賢者は楽しそうにほっほと笑う。

「赤子は寝て泣き、子供は走り回り、大人は畑を耕し、老人は座って読書だ。さあ行った行った。私ぁここでお前さんが運んでくれるのを待っておるよ」

 アレフが呆れ顔でそこから離れる。

「アレフ。あの爺さん誰だ?」

「母さんのお客さん。大賢者さまなんだってさ」

「へえー」

 レニが感心したように言った。

「大賢者さまって、思ってたよりも偉くなさそうだ」

「本当だ」

 アレフも賛成した。

 この村の子は、キリエのおこす奇跡をさんざん見ているので、少々のことでは驚かなくなっている。

 水辺のポイント近くまで足を運び、アレフはもう一度石細工を地面に置いた。

 そうすると、再び同じようにガリオラが現れる。

 そう、まるで魔法のように?

 いやいや、これこそ魔法なのだがね。

「ふうん、本物の魔法使いなんだね。でも、母さんのほうがすごいや。なんたってこんなの使わなくてもいろんな場所に出てくるし」

「そりゃあお前さん、キリエ・ネイゼリは当代一の魔法使いだからな。こと魔術においては、世界中で誰も敵いはせんよ。じゃがな、わしでも彼女より秀でた所はあるのだぞ」

「それはなに?」

「本を読んだ時間と髭の長さじゃ。さあ遊んでおいで、わしはここで本を読んでおるから」

 言うなりガリオラは木陰に座り込み、どこからか取り出したいすに座って抱えていた大きな本を開いた。

 アレフは呆れて、

「行こう。せっかく連れて来てやったのに釣りの手伝いもしないなんて、大賢者さまってのは怠け者なんだな」

 レニとクランバルを引き連れ、ぷいと行ってしまった。

 木終月の冷たい風に吹きさらされた草原の斜面を、昇りゆく太陽が暖めている。

 しばらく経つと三つ国峠村から三つの鐘が届いて昇陽を告げたが、賢者はそれに気づかずひたすら本に没頭していた。



 昼過ぎにカリガルたちが、アレフたちのもとにやってきた。

「おい、緑風村の奴がどうしておれたちの湖で釣りをしてるんだ?」

「さっさと小さなあの滝つぼへ帰りなよ」

 カリガルの取り巻きが、鼻持ちならない事を言う。

「だったらお前たちはもう滝には一歩も踏み入れないと誓うのか? おっと、溺れそうになった奴は臆病風に吹かれて近寄れないかもしれないな」

 クランバルがやり返すと、ジメルはぐっと言葉に詰まる。

「釣れてないな。エサはなにを使ってるんだ?」

 やり取りに無頓着に、カリガルが問う。

「――燻製魚の皮」

 アレフがぶすっと言うと、カリガルが笑う。

「そんなもので、この時期の魚がつれるもんか! 生きた虫か、せめてミミズを用意してこなきゃ! 俺たちは自分のミミズを家の中にある桶で育ててるからな! 冬の間ですら、エサの心配はいらないのさ!」

 アレフは歯噛みした。

 カリガルの言うことはもっともで、冬篭りの準備を終えた魚は、生きの悪いエサなど目もくれない。

 栄養をたっぷりとって、水底でじっとしているからだ。

 その上この寒さでは、生きのいいエサなども手に入れにくい。

 命の短い虫など、その最たるものだ。

 その地虫やミミズを、カリガルたちはエサ袋一杯に持っている。

「何だ、ミミズが入用かね?」

 ガリオラが子供たちの集いを覗き込んだ。

「そんなもの、いくらでも集めてやるが?」

 フサフサした髭を撫でながら、愉しそうに言った。

 子供たちが顔を見合わせる。ガリオラは彼らにこぶしが一つ入るぐらいの穴を掘らせ、それから一歩後ろに下がらせた。

 そして穴の周りに不思議な文様を彫ると、杖でそいつの縁をちょんと突く。

 とたんに、穴にミミズがわきかえった。

 男の子たちは歓声を上げた。

 もし女の子がいたら、悲鳴をあげて卒倒するだろうね。

「すげえ! どうなってるんだ?」

「さあ好きなだけ獲るがいい。どっちの村の物かなんて言いっこなしさ。なにせ大地はこんなにも広く、そしてわれら人間はたかだかこれっぱかしの大きさしかない。こんな話をしっとるかね? 蚤が二匹、牧羊犬のフサフサした毛皮の中でお互いの胸ぐらをつかみ合い、こう言うのさ。ここから出て行け! この犬はおれのものだ! さあ行った行った。せいぜい大物を釣りあげておくれ。今夜の食事は新鮮な赤鱒がいい。なにせ、街じゃ滅多に食べられんからの」

 勝手なことを散々言って、ガリオラはまた読書に戻る。

 アレフたちが意気揚々と釣り糸を垂らしはじめても、三つ国峠村の少年たちはまだあっけに取られていた。



 その日の釣果は、申し分ないぐらいに充実した。

 長ブナとヤマメが二匹ずつ、黒斑と赤鱒が一匹ずつ。

 この季節としちゃあ、たいしたもんだ。

 肝に臭みのあるフナは放し、アレフは四匹の大きな魚を意気揚々と持って帰った。

 家でガリオラがエサを集めた話をするとキリエは含み笑いをして、

「あの方は大地の守護を受けていなさるの。そちらの魔術にかけちゃ、この国でガリオラ先生にかなうものはいないわ」

 それからアレフをまじまじと見つめ、

「それで? 大賢者様は?」

「ああ、すっかり忘れてた」

 アレフは言って、石細工を地面に置いた。

 たちまちガリオラが現れて、

「おいおいアレフ、全く遅いじゃないのかね? 日暮れ行く湖畔で、私ぁ耳の穴の奥まで凍りつきそうだったよ」

凍えながら不平を言った。

 キリエはガリオラに毛布と温かいミルクを渡してやった。



 夜が更け、アレフが寝室に引っ込んだ後、ガリオラとキリエは抑えた声で話をしていた。

「それで、先生はいつまでこちらにいらっしゃるの?」

「本当はあんたの顔だけ見てすぐに帰ろうかと思っておったんだがね」

 ガリオラはパイプをぷかりと吹かす。

「あの子をもう少し見ていたいんだ。春が来るまでいても構わんかい?」

「まあ、息子も見込まれたものね。うちはもちろん大歓迎ですけれど、魔術院でのお仕事は大丈夫ですの?」

「そんなもの、アランシャモンにでも食わせるさ! いつも取り澄ましたあやつの地団太踏む顔を思い浮かべたら、たまらなく楽しくなってきたんじゃよ。さあキリエ、もう少し酒はないのかね? この地方特産の、泥炭の匂いのついた火酒、あれを所望しようかな」

「まあまあなんてご注文の多い大賢者様。私、紅いローブの方に肩入れしたくなってきたわ」

 キリエが優雅に立ち上がる。


 窓の外、薄曇りの空にはうっすらと三日月が見えていて、今にも大地に沈みそうな下弦の弓形は、夜空に浮かぶ微笑んだ口元のようだった。

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