南方よりきたる大賢者
南方よりきたる大賢者(前)
ただ年をとるというだけで、人は賢くはなれないよ。
だが、本物の知恵を持った人間というのは、年寄りの中にしかいないもんさ。
その日、風に煙草のにおいがつんとさした。
木終月、村に雪が深まりつつある時期である。そのとたん、
「まあまあ、今月もまたお客様が来るわ。それも、大変なお方じゃないの」
と、キリエはばたばた歓迎の用意をし始めたのだ。
「母さん、一体誰が来るの?」
アレフが訊ねても、
「大変なお方よ」
と忙しそうに答えるだけ。
よく分からないが、面倒な用事を言いつけられてはかなわないとこっそり逃げ出そうとしたら、
「アレフ、外に行くのならついでにお客様を迎えにいって頂戴。今から行けば、ちょうど橋のところで会えるはずだわ」
姑息な目論見など、キリエにはお見通しだった。
「お客さんって、それでどんな人なんだよ」
道半ばで、アレフは詳しく聞いてこなかったことに気がついた。
厄介ごとを押しつけられたという気持ちが強すぎたせいで、いろんなことがおろそかになっていたのだ。
「一度戻って訊きなおすか、それとも……」
このまま遊びにいってしまおうか。
冗談まじりにそう考えたのだが、いっそ本当にそうした方がいいんじゃないかとすら思えてくる。
親の言いつけなんて守っても、面白いことはひとつもないじゃないか。
そんな愚痴を口先でぶつぶつやっているうちに、橋にたどり着く。
そこでアレフは客人がどんな人間かを知った。
ああ、迎えに行けと言われたのはこの人に違いない。
こんな変な客人を、アレフは初めて見た。
「キリエ、緑の魔女よ。また会えて私ゃこの上なく嬉しいんだよ」
「私もですわ。大賢者ガリオラ。またの名を、沫月の大賢者」
大賢者といえば、皇都の魔術院に三人しかいないとされる、魔法使いたちの頂点に立つ存在である。
その一人が、今アレフの目の前に立っている。
「そんな余所余所しい呼び方は止めとくれ。昔のようにいこうじゃないか」
「それでは――ガリオラ先生」
目の前で母と抱き合う、小太りの老人。
顔の半分は髭で埋まり、頭はつるりと禿げ上がっている。
絵物語に出てくるような白いローブと杖を本当に身に着けていて、そのローブの下にはきらびやかな装飾だらけの服を着ている。
小さなベストを無理やり肥満体に着ているせいで、おなか回りのボタンは今にもはち切れそうだ。
変な人。
正直に言うと、アレフは落胆を禁じえなかった。
出る所に出れば、大臣よりも強い権力を持つという大賢者の地位。
だがそれも、キリエの家の中で、アレフにかかればただの変人である。
「本当はもっと早くに来れたんだがね。一応村の代表者に顔を見せてきた」
「あらまあ、村長さんもびっくりなさったでしょうね」
アレフだってびっくりした。
最初この老人が橋を渡ってきたとき、なに事が起こったのかと辺りを見回したぐらいだ。
彼の乗った幌馬車は大商人が使うような大きなもので、それをこれまた見たことないような大きな馬に、それも四頭だてで引いてきたのだから。
そんなに大きな馬車なのに、乗っているのは小柄な丸っこい老人だ。
最初アレフは乗り手がどこにいるのか判らず、無人の戦車が歩いてきたのかと思ったほどだ。
戦車、という印象はあながち間違ってもない。
彼が引いてきた大きな馬と幌馬車は、実際に近衛軍のものを拝借してきたのだから。
そんな説明をされたところで、もちろんアレフには何のことやら分からなかったろうけどね。
「そうだ紹介します。私の一人息子。アレフですわ」
「ホウこれがあの時の。なるほど利発そうな子じゃ。で、父親はまだ帰らんのかい?」
「父親はいません。私ひとりで育てているんです」
「なんと。お前さんには昔から驚かされてばかりじゃが、これはまた、なんと」
大賢者は目をぱちくりさせ、アレフをじっと見た。アレフは居心地悪さのあまり、ついに言ってしまった。
「母さん。なに? このへんな爺さん」
二人はしばし呆気に取られ、それから弾けるように笑い出したのだった。
「似とる。あの子はまったくお前さんに似とる」
暖炉の前で筒型のパイプを吹かしながら、ガリオラは楽しそうにつぶやく。
「大人に物おじせんところなぞ、そっくりじゃ」
早くも夕食を終え、キリエの造った火酒をちびりちびりと舐めながら、二人は思い出話に花を咲かせていた。
「お恥ずかしいですわ。目は離さずにいるんですが、私も躾は緩やかに育てられたものですから」
「なあにかまわんよ。そもそも魔法使いにゆきすぎた躾など、馬の足を縛るようなもんじゃ。世の理を探求する者たちが、ものの見方を型に押し込めてどうするというのかね。あの赤いローブの賢者ように」
「まあ、相変わらずアランシャモン先生とは折り合いが良くないのですか?」
「良くないなぞと控えめな!」ガリオラはぷかりと煙を吐く。「まったくあの石頭には参るわい! あの鼻持ちならん赤ローブときたら、自分の研究室を広げるために、私の部屋を一つ空けろなどと抜かしよった!」
つんと煙草の臭いがさす。
「渦流の大賢者様の言いそうなことね。先生もあのたくさんの本を、片付けてしまいなすったら?」
「君までそんな事を言うとは、緑炎の大魔道師。あの本たちはわが宝、わが人生そのものなのだよ。そのように侘しい事を言わんでおくれ」
「あら、あんまりずっと同じように置いてあったので、私据え付けの家具なのかと思ってましたわ」
「これは手厳しい!キリエ、君は本当に変わらんな!」
二人は親しげに笑いあう。
「その煙草の臭いだ」
アレフが二人の会話に割り込む。
「なあにアレフ。お客様に、失礼ですよ?」
「ふむ。なにかな? 私のこの煙草に、新しい発見でも?」
アレフは物怖じせずに言う。
「母さんが先生を呼びに行けって言ったとき、その煙草の臭いが風に乗ってきた。馬車が橋を渡ってきたときも、その煙草の臭いがした。それで、すぐにこの人が母さんのお客だって分かったんだ」
「なんと! なんとこの子は……!」
ガリオラが目を見開き、キリエを向く。
「アレフは猫人族に、こう呼ばれています。風の人、と」
「風使いとな! ここ三百年途絶えておった魔術ではないか!」
風、という言葉に強い感銘を受けたようだ。
「まだ子供です」
釘を刺すキリエをさしおいて、ガリオラはアレフを向き、
「ふうむ、おいでアレフ! よおく顔を見せとくれ!」
虫眼鏡を取り出して顔を覗き込んでくるガリオラを、アレフは気味悪そうに見つめた。
翌朝、食事を終えたアレフが友人たちと遊びに出てくるというと、
「私もご一緒させて貰って構わんかね。なあに足手まといにはならんよ」
とガリオラが言った。
「ええ? ついてくるなんて無理だよ! ねえ母さん!」
アレフがしかめっ面するのも無理はない。
今から出ようという場所は、大ツェルテ湖。
山を一つ越えた先の三つ国峠村にある大きな湖で、途中狭い道がいくつもあって、大きい馬車やおなかの出た老人がほいほいといける場所ではないのだ。
「平気さ。何も私を背負って行けと言うんじゃない。ほれ、こいつを持って行くがいい」
手渡されたのは、小さな石細工だ。
三角形の面を四つ持っていて、それぞれに意匠が凝らしてある。
「向こうについたらそいつを地面に置いとくれ。すぐに魔法で駆けつけるさ」
魔法、と聞いてアレフの目の色が変わる。
「魔法が使えるの?!」
「ああ。昔むかあし、お前の母さんに教わったんじゃよ」
ガリオラがいたずらっぽく言う。
「まあ! 嘘ばかり教えて、悪い大賢者さまね!」
キリエがくすぐったそうに笑う。
「分かった! 向こうについたらこいつを地面に置くよ!」
言うが早いか釣具を手に取り、アレフはあっという間に走っていった。
「また悪い癖を出して! いたずら好きの、いけない賢者さま!」
「何のことかな? さ、もうしばらく本を読む時間がありそうだ。私ゃ馬車にいるから、馬の世話を頼むよ」
しれっと言って、大賢者は幌の中に身を隠すのだった。
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