アレフの父、旅人ジル=クワイラ(後)
その夜、村でただ一軒の酒場、“三つの泉亭”は、ジル=クワイラと名乗る旅人の存在で、大いに盛り上がっていた。
なにせ彼はキリエの元恋人で、アレフの父親というじゃないか。
そんな男に興味を持たないほうがどうかしてる。
「そう、俺と彼女が出会ったのは、皇都の千年祭でだった」
この店自慢の褐色酒が入った杯片手に、言葉巧みに話すのはジル=クワイラ本人だ。
「魔術院生の着る黒いローブ姿のキリエは、なんて言やあいいのか、美しかった。そう、ただ美しいとしか言いようがない。花のように鮮やかで星のように煌いていて、まるで詩人が詠みあげたこの世で最も美しい姫君を、地上に蘇らせたみたいだった。その瞬間、俺は彼女に恋しちまったんだ。あんなのは人生で初めての経験で、自分でも驚いたもんさ」
とうとうと言葉をつむぐ。
旅の間にもこんなことをいく度となくしてきているのだろう、酔いがそう回っているわけでもないのに、自然体で、物怖じしない。
「最初に贈ったのはウィンクさ。次には投げキッス。相手にもされなかったね。それでも俺は諦めなかった。当然だろ? 幽玄の花畑で妖精を見つけた男は、死ぬまでその姿を捜し求めるって言うじゃないか。俺もちょうど、そんな感じだったのさ」
「俺だってそうだった――もっとも今俺の妖精は、ぶくぶく太って黒猪みたいになっちまったがね」
妻子持ちの男が、奥方に聞かれたら八つ裂きにされそうな野次を飛ばす。
旦那連中のあいだでどっと笑いが起こるのは、女を馬鹿にしているんじゃない、敬意を表しているからだ。
「黒猪もいいものさ。とりわけ腹が減っているときなんかにはね。兎も角、そんな風に俺は彼女に出会い、そして求愛を続けた。やがて彼女も俺に気持ちを寄せてくれた。そして、アレフが出来たのさ」
ふうむ。
髭をたくわえた四十男が、分別臭げに鼻を鳴らした。
「俺はキリエに旅にでようと誘った。そのころから魔術院ってところは、彼女には窮屈になっていてね。なんせあの奔放で心優しい魔女が、カビと本だらけの石造りの塔に満足できるはずがない。もしもあのままあそこに留まれば、きっとキリエは頭に蜘蛛の巣のかかった修道女みたいに、心の死んだ存在になってしまうって思ったんだ」そして大きな身ぶり手ぶりで言った「おおキリエ! 俺と旅に出てくれないか? 君と生まれてくる子供にとって、それはきっと素晴らしい経験になあるはずだ!」
そこでジル=クワイラは溜息をつき、肩をすくめた。
「だが彼女はその申し出を断った。子供は、自分が生まれた土地で育てたいって。そこは美しい土地で、優しい風が子供を健やかに育てるって言うのさ。できればあなたにも来てほしいんだけど、強制はしないと。そして、自分が生まれた土地を見てほしいって誘われた。だが、俺はその言葉を彼女の拒絶だと思った。愛を交わしたといっても所詮旅人、人生を共にできるような存在じゃないって言われた気がしたんだ」
そこで言葉を切り、杯を干して喉を潤す。
「だけど、ここに来てキリエの言葉が本当だったって分かる。ここは豊かで、そして素朴だ。何もかもが、世界ができたそのままの形である。地面も山も、空も風も、人も」
そして目を閉じ、
「ここはいい土地だ。キリエがどうしてあれほど心豊かに育ったのか、ここにくれば分かるよ。俺は今まで、旅人が一番自由だって思ってた。土地にも人にも縛られず、ただ心の赴くままに生きてきた。それは嘘じゃないさ。だけど、ここで彼女のように暮らすもの、また自由だって感じるのさ」
店はしんと静まり返っていた。
いつもは酔って正体をなくす客たちが、今日は神妙な顔をして旅人の話に聞き入っている。
妙な魅力のある男だった。
人懐っこくて爽やかで、それでいてどこか寂しい顔をしている。
こんな人間は、村にはいなかった。
漂い暮らす人生が、彼に独特な風をまとわせていた。
「おっと、湿っぽくなっちまったな。主人、皆に一杯おごらせてくれ。この、国で指折りに美しい緑風村に乾杯だ!」
そこにいる誰もが、彼を好きになっていた。
酒をおごってくれたからじゃない。
いや、もちろんそういう部分もあるけれど、なにより不思議な魅力のある男だったのさ。
「アレフ。俺と旅にでないか?」
だしぬけに誘われたのは、ジル=クワイラがこの村に来て三日目のことだった。
アレフは、なにを言うんだという顔で相手を見た。
「俺と外の世界を巡るんだ。この村はいい所だけど、お前には狭すぎるんじゃないかと思ってな」
この頃になると、アレフは完全にジル=クワイラに心を許していた。
最初はそりゃあ、怪しい男だと思ったさ。
黒づくめで無精ひげだらけ、見たこともない道具をいくつも身に着けてる。
だけど、ジル=クワイラの天性の朗らかさ。
好きにならずに入られない何か。それは、まったくアレフにも備わっているものだった。
「なんだか分からないけど、べつに行きたくないよ」
はっきりと言う。
悪びれたり、申し訳なさそうにしたりしない。
その率直さの中に、ジル=クワイラは自分がかつて愛し、今も焦がれている女性と同じものを感じた。
「そういうと思ったよ」
二人は村のはずれの石垣で話している。ジル=クワイラはアレフと並んでその上に腰掛け、
「実は、お前の母さんにも同じことを訊いてみたんだ」
「うん」
「彼女も、行く気はないと言った」
「だろうね」
ジル=クワイラは笑う。そしてかみ締める。そのときキリエに言われた言葉を。
誘ってくれてありがとう。
でも私は行かないわ。
「じゃあ、俺は行くよ」
石垣からひょいと飛び降り、ジル=クワイラは立ち上がった。
「今から? 馬もなしで?」
「ああ。馬なんてなくても、俺にはこの二本の足があるさ。それに、この村に旅人が長く居座る場所はないんだ」
「ウィージェに会っていけばいいのに」
「振られた男が、女が今愛している男に会っても、誰も幸せにはならないよ」
「絶対に好きになると思うけどな」
ジル=クワイラは少しの間じっと何かを考え、アレフを振り向く。
「なあ、俺はお前の父親か?」
アレフは少し考え、
「そうかもしれないけれど、違うと思う」
「そうか」
なぞかけのような返答に、アレフの父親はさわやかに答えた。
そしてジル=クワイラは歩き出す。
旅人のマントが、ふわりと翻る。
「ジル=クワイラ。あんたは、まるで風だ。丘を越え、唐突にやってきて、去ってゆく。俺、ジル=クワイラのことが好きだよ」
「旅人は皆、国々を渡る自由な風なのさ。そしてお前は、この土地に渦巻く
男の心にまた、キリエの声が響く。
初めて出会ったときと同じ、歌うような声が。
さようならジル=クワイラ。
私は貴方の何者にも縛られない心を愛しました。
おかげで私は手に入れたの。
あの子の中に、貴方と同じ自由な心を。
ありがとうジル=クワイラ、あの子の父親。
私にアレフを授けてくれたことを、感謝します。
「いつの日か、アレフ、お前の中の血が、お前を旅にいざなうだろう。どこか、ここではない空の下で、また出会うことを楽しみにしているよ」
そしてさようなら、ジル=クワイラ。
今、私には愛する男性がいるの。
貴方の存在は思い出、彼は私と共に生きる今。
だから、さようなら。
もしも再びまみえたなら、またお茶を飲みましょう。
私はもう貴方とは踊れないけれど、語り合うことならいくらでもできる。
「そうだな、また君のお手製の茶葉を楽しむ日を、心待ちにしているよ」
誰にも聞こえない声で、旅人は風につぶやく。
その日は、きっと来ないだろうことを知りながら。
マントをなびかせた大きな背中を見送る少年のまなざしは、寂しさの中に、ひとさじ憧れが混じりこんでいる。
「さようなら、ジル=クワイラ!」
最後に一度振り向いて欲しくて、アレフは声を張り上げた。
が、その背中はどんどんと遠ざかる。
旅人はもう、さよならを言わなかった。
そして、風の中に消えた。
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