山岳師ウィージェ(後)

 物音を立てないよう身支度を終え、表に出ると、朝どころではない、まだ空は真っ暗だった。

 外套を胸元でかきよせ、

「ねえ、こんな時間に、どこに行くの?」

「しいー、キリエが起きる。さあこれを持ってついてきな」

 そう言って渡されたのは、小ぶりな山刀だ。

 いつもウィージェが腰にぶらさげている物よりも、ふた周りほど小さい。

 が、革の鞘から抜いて見せると、刀身に精巧なまじないが彫ってある。

 わあ!

 男の子なら、誰もが夢見るような、素敵な道具だった。

 どうせなら、これをくれれば良いのに。

 眠い目をこすり、アレフは思う。

「さあ、出発だ。山岳師の山の歩き方を、お前に教えてやる」

 その一言で、まだまぶたが重そうだったアレフの目はパッチリとさめた。



 山岳師にとって、自分流のルートの取り方というのは、生きるための知恵そのものである。

 微かな目印を元に作った山道は、薬草や鉱石の在り処そのものを示す地図にも等しい。

 その貴重なルートを、ウィージェはアレフに惜しまず教えた。

 言葉だけではない、目印や運足、そして障害の突破しかた。

 まだ明けぬ空の下、ランタンを掲げながら手振り交じりに、丁寧に教えを説く。

「いいかアレフ、まず上半身を固定しろ。足元はその後だ。爪先を置く場所に注意しろ。濡れた場所はダメ、苔の生えた所もダメだ。若木を使うときは根元の地面に注意しろ、地質が脆ければ、山刀を使って大木の根を掘りおこせ。判ったか?」

「うん」

 アレフはウィージェの教えた通りにやって見せた。

「いいぞアレフ。山刀は振り回すな、突き立てろ。使うときは腕じゃなく、握りに力を入れろ」

 ウィージェの補助を受け、着々と森の深奥に踏み込むアレフ。

 村の樵たちでも、こんな奥地に足を踏み入れた者はほとんどいるまい。

 つのる疲労も気にならぬ程、アレフはウィージェに教えを受けている自分が誇らしかった。

 森の奥に進むにしたがい斜面がきつくなる。

 そのうち木々が疎らになり、聳え立つ白銀山脈のふもと、天を目指して伸び上がる崖に進行を阻まれる。

「やっとついたね」

「いいや。ここからさ」

 ウィージェが不敵に笑い、背嚢から縄と工具袋を取り出し、アレフに渡す。

「今からこいつの登り方を教えてやる」



 岩棚の登攀は、大人でも危険が付きまとう、険しい仕事さ。

 子供のアレフには、少々荷が勝ちすぎたかもしれない。

「体重を移すときはゆっくり。そう、ゆっくりだ。動かすのは、一時に手足のどれか一つだけ。ほかの三本は、しっかりと固定しろ。足場は十分に確かめてから次の動きに移れ。ようし良いぞ、その調子だ」

 だけどウィージェは先行して縄で引き上げてやりながら、アレフに一つ一つやり方を教え、ゆっくりと崖を征服させる。

 要は根気と慎重さ、そしてなにがなんでも上りきるという信念を持つこと。

 これは人生にも言えることだがね。

「くそう、手ごわいぞこれは……」

 さすがのアレフも、余裕の無い顔つきをしている。

 指先を痛めつける硬い岩。

 手足を疲れさせる不安定な姿勢。

 それから落下することへの恐怖。

 手が滑る。

「ああ!」

 アレフが岩場に宙吊りになる。じたばたともがくが、なかなか体勢を立て直せない。

「落ち着けアレフ! お前は縄で結ばれている! 安全だ! さあゆっくりと、落ち着いて壁を向け。しっかりと手足を固定しろ」

「うん……」

 言われたとおりに、縄にぶら下がったまま転がるようにしてゆっくりと岩壁に向き直る。

 それから足場を確かめ、手足を一つまた一つ、動かし始める。

 急いでは駄目だ。

 今落ちたのは、つかんだ所を確かめもしないで足を動かしたせいだ。

 鮮烈な落下の感覚に怯えながら、しかしそいつを腹の中に無理やり押し込め、アレフはゆっくりと上昇してゆく。

 やがて、空が東から白みだした。


 荘厳なる暁の光を、アレフは正面から見た。


「……すごい」

 それ以上は声も出ない。

 連なる山々、陰影を作る谷々、朝餉を作る家々の小さな煙に、紫に輝く朝の雲。

 生まれ変わった今日の太陽が、世界中を色とりどりに染め上げている。

「山岳師にだけ与えられた景色さ」

 ウィージェがアレフの傍らに立つ。

「どんな絵画よりも美しい、本物の世界の姿だ。プレデ爺さんが幾らがんばっても、この風景をちっぽけな額の中に閉じ込める事なんて出来やしない」

「うん」

 ウィージェと並んで世界中を眺め、アレフはうなずく。

 二人が立つのは崖の途中にある岩棚。

 ここがウィージェの目的地だった。

「アレフ。山刀を出しな」

「うん……」

 アレフは渋る。

 扱っているうちにその山刀は手のひらに馴染み、いまではこの小さな冒険を共にした仲間のように思ってしまっているのである。

「この刀身に彫られた言葉が読めるか?」

「慌てず、迷わず、人は道を切り開かん、でいいのかな」

 ウィージェはにっこりと笑い、

「よろしい。アレフ、お前は合格だ。今日からお前を山岳師の一員と認めよう。その山刀は、俺からお前への贈り物だ。受け取るがいい」

「本当! これを、くれるの? やった!」

 アレフが飛び上がって喜ぶ。

 ウィージェと過ごし、こんなに美しい景色を見られて、山岳師と認められ、そして素敵な山刀まで手に入れた。

 今日はなんて誇らしい日だろう。

「ありがとうウィージェ。ずっと大事にするよ!」

「うん。だが無茶はするな。無理をしないのも、良い山岳師の条件だ」

「わかった!」

 二人はがっちりと手を握り合う。遠く山あいの緑風村から来陽の鐘が届く。

「お二人さん、そろそろ降りてきたら?」

 足場の下から声がする。

 見下ろすと、肩掛けを首に巻いたキリエが崖下から二人を見上げている。

 高さがあまりないのは、時間がなかったのと、アレフが子供なので、ウィージェが手加減したからだ。

「そろそろ朝ごはんだからうちに帰ってらっしゃい。見陽の鐘までに戻らなかったら、ご飯抜きにするわよ。そうそう、サジランをいくつか摘んできて頂戴。ジョウニーさんに頼まれていた香り袋に入れたいの」

 あんな格好で、どうやってここまで来たというのだろう。

 キリエという人は、全くもって侮れない魔法使いなのだ。

「やばい、早くしないと本当に朝飯にありつけなくなっちまう!」

「アレフ、山岳師が行動するときは、」

「慌てず、迷わず、ゆっくりと着実に、だろ? さあさあ行こうウィージェ! 母さんが怒ると、本当に怖いんだ!」

「知ってる」

 ウィージェは笑い、サジランの花を六つ摘んでから、アレフを伴って降下の準備を始めた。



 少し離れたところで、キリエが二人の様子を見ている。

 手を貸し合って崖を下るアレフとウィージェは、まるで本物の親子のようだ、そう考えて、優しい笑顔を浮かべる。

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