山岳師ウィージェ

山岳師ウィージェ(前)

 一人でなんでもできる人間にあこがれる。

 単純だけど、それが男の子って生き物なのさ。



 そろそろ保存食の用意をしなければいけないわね。

 そうキリエが言ったのは、火終月の半ばごろ。そろそろかと当たりをつけていたアレフも、

「うへえ~、そんなの来週にしようよ。こんなにいい天気なのに遊びに行けないなんて!」

ため息と抗議を、我慢できなかった。

「こんなにいい日だから、さっさと済ませたいのよ」

 キリエはぴしゃりと言いつけた。


 空に住みたくて鳥になりたい子や、本が好きで作家になりたい子はいるのに、燻製肉が好きでスモークされたい子がいないのはどうしてだろう。

 考えるまでもない。スモークっていうのは食べるもので、自分がなるものじゃないからだ。

 アレフはそんな変てこなことばかり考えながら、保存食づくりにはげんでいた。

「げっほ! げっほ!」

 煙のもうもうと立ちこめる燻製用のテントから、アレフが跳びだしてくる。

 燻製にした食べ物は甘くて美味しい、だから、燻製の煙ってのは、もしかして甘いんじゃないかと思ったわけである。

 結果は?

 ご覧の通り。

 ただ煙たい思いをしただけだった。

「じゃあどうして燻製にすると、干し肉が美味しくなるんだろう」

 この季節がくる度に、アレフは煙のこぼれるテントに首を突っ込まずにはいられない。

 だって、煙に当てたくらいで食べ物が美味しくなったり長持ちするようになったりするなんて、不思議じゃないか。

「アレフ。遊んでないで、塩漬け肉を出すのを手伝いなさい」

 落ち着きのない息子をたしなめるのは、母キリエだ。

「だって……」

「温度だよ、アレフ。温度が肉を美味しくするのさ」

 若い男の声が、親子の会話に割りこむ。

「煙で燻すと、そこは空気に触れにくくなる。それで、長持ちするわけさ」

 大きなリュックを背負い、腰にたくさんの登山道具と、装飾入りの山刀をぶらさげた男の姿。

「まあ!」

「ウィージェ!」

 キリエの幼なじみ、山岳師のウィージェであった。


 知っての通り、保存食作りというのは大変な作業さ。

 ヤギの乳に酵素を入れかき混ぜてチーズを作り、野菜はまとめて塩漬けに、肉と魚はやはり塩漬けにするか干すか燻製にするか、それらの作業をアレフの家では一度に済ませてしまうので、朝から夜までの一日仕事になってしまう。

 そのわりに、ご馳走にありつける訳でもない。

 これじゃあアレフでなくとも、腐りたくなるさ。

 だけど、この年はウィージェが来てくれた。

 名の知れた、とまでは言わないが、いっぱしの山岳師さ。

 力があって、刃物の扱いも手際よく、なんたって保存食作りは大の得意ときている。

 普段なら陽がとっぷりと暮れるまでつづくこの作業も、この日は陽の入りの七つ鐘が鳴るよりもずっと早く終える事ができた。

 酢漬けきゅうりの瓶詰めの、最後の一つを蝋で密封し、

「終わったよ母さん! ねえ! ウィージェと話をしても良いでしょ?」

「お風呂を沸かしてあるわ。ウィージェ、邪魔でなければアレフを入れてあげて」

「邪魔じゃないさ! ね、ウィージェ!」

 母と子の遠慮ないやり取りを前にして、ウィージェは白い歯を見せて笑った。



「今年も、白銀山脈はくぎんさんみゃくを越えたの?」

 板張りの衝立ついたてと、簡素な屋根だけでおおわれた、酒樽を加工した湯船に、二人で腰まで浸かり、アレフはいきおい込んでウィージェに訊いた。

「ああ、火前月と、今この火終月の、二度」

「雨季を避けたんだ! だよね! 火中月は天候が荒れるから、山脈を越えられないんだ!」

 去年ウィージェから聞いたばかりの知識だ。

 言った本人だから、知っているのは当たり前なのだが、

「ああそうさ。アレフは物知りだな」

と、平気でアレフの鼻を高くしてくる。

 アレフはまんまとウィージェを好きになり、得意げに鼻をかく。

「山脈の向こうに広がるニノエルス山地は、貴重な山草の宝庫だ。心臓の病に効く草、肺に効く花、皮膚に効く花粉」

「それに、紅長ヨツバゼリがあるんだ! 茎を切って汁を集めると、性質の悪い咳もあっという間に治るんだ!」

「キリエから聞いたのか? 偉いぞアレフ、お前は良い山岳師になれる」

 後ろから抱えるようにアレフの頭を流し、目を細めるウィージェ。

 人柄を表したような穏やかな手つきに、アレフがくすぐったそうに笑う。

「実はな、キリエに内緒で、お前に土産がある」

「本当! なに!」

 しい。

 アレフのくちびるに人さし指をあてられる。

 黙れ、の合図だ。

 アレフが口をつぐむと、

「ウィージェ、アレフ。お湯は熱くない?」

 キリエが家から出てきた。

 気配を読むなんて、山岳師ならお手の物だ。

「ああ。丁度良いよ」

「そうだね、丁度良い」

 ウィージェの真似をして、澄ましたアレフに、キリエは下唇を噛んで見せた。

「あまりウィージェを困らせるものではないのよ。彼はお客様なのだから」

 家の中に戻りながら、噛んで含めるように言う。

「早く上がっていらっしゃい。もう食事の支度が出来るわよ」

 二人は、ふうと息をつく。

「……で、土産って?」

「明日、早起きができたら渡してやる。カワセミの星座が山にかかる頃、来陽より鐘ひとつ分早くここを出るんだ」



 夕食は、キリエが大盤振る舞いをしてくれた。

 肉と野菜がたっぷりと入ったスープに、黒砂糖入りのパン、去年つけた漬物も大盛りでテーブルに乗った。

「はあ、お腹が一杯で、もう眠いよ」

 食後、暖炉前で談笑していたが、アレフが眠たげに、一足先に自室に行くと言いだした。

 もちろん明日未明の約束のために、今晩は早く寝てしまおうという魂胆である。

 ウィージェのいう「土産」が気になって中々眠れはしなかったが。

――早く寝てくれないと。俺よりもウィージェが起きれなかったら、どうするんだよ。

下の階から聞こえてくる、仲のよさげな会話。

 内容は聞き取れなかったが、少しお酒も入り、二人とも良い気分でいるようだ。

 そういえば、彼と居るときのキリエは心なしか、はしゃいでいるように見える。

――ウィージェが父親だったらよかったのに。

 ぼんやりと、そんな事を考える。

 実際、アレフの父親というのは村人にとっても謎で、みなが好き勝手な噂をしたりする。

 やれゆきずりの子を孕んだとか、いや実は村の誰それの子だとか。

――ウィージェが俺の父親だったらな。

 きっとレニもクランバルも羨むに違いない。

 だって、山岳師は子供たちの憧れなのだから。

 シーツの端を噛みながら枕に頭をうずめるうちに、アレフはやっと眠りに落ちた。



「起きろ。さあアレフ、森に行こう」

 ウィージェのささやきに、アレフが飛び起きた。

 普段ねぼすけなくせに、こういう時は目覚めが良い。

 楽しみが待っている朝というのは特別なものさ。

 みんなにだって覚えがあるだろう?

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