文句屋のプレデ爺さんが恐れる人(後)
下流にある木の橋は、木造りだが大きくしっかりとした橋で、馬車が二台並んで渡っても、びくともしないような橋だった。
だがその木の橋はこの豪雨の中、今まさに押し流されそうになっていた。
何という事だろう、いったんは下がった川かさが、今またその勢いを盛り返し、泥まみれの激流となって、どこからか根っこからひっこ抜いた巨木を橋げたに引っかけて揉みくちゃにしている。
そのままにしておけば、やがて橋の骨組みをねじり折ってしまうだろう。
――このままだと、橋が折れてしまう。誰か大人を呼ばないと。
――いやそんなにのんびりしている暇はない。今は一刻も早くシャルの元に行かないと。
頭に浮かぶのは、いつだかに泣かせてしまったシャルの顔だった。
つかの間迷ったアレフだが、考えていても埒があかないと意を決し、
「ええい!」
掛け声とともに、吹きつける雨と風を掻き分けつっきる。
いつもは頼り甲斐を感じていた板張りの足元が不気味にゆれ、時折大きくたわむ。
ミシリ、ミシリと骨格のきしむ音に肝を冷やしながら、アレフは必死で足を前に出す。中ほどを越えたあたりで
「あっ」
濡れて滑りやすくなった地面に足をとられ、しぶきをまき散らしながら転ぶ。
横なぐりの風に流され、あわや橋下に転落というところで板の継ぎ目に指をひっかけてとまる。
「あぶなかったあ」
胸の中ではねまわる心臓。
本当に死ぬかと思った。
アレフが立ち上がり、また駆けだそうとしたその時、背後で木々がねじ折られる耳ざわりな音がした。
ふり返って仰天したのも無理はない、橋が、まん中から流されようとしていたのだから。
「やっばい、やばいやばいやばい!」
考えるよりも早く足が動いたのはさすがだ。
柱が流され、横木がへし折られる間一髪のところで、アレフは橋を渡り終えた。
荒い息で呆然と、完全に倒壊してしまった木の橋を眺める。
――水かさが、また増してる。
轟々と渦巻く川の流れを後にして、アレフは猛然と走り始めた。
アレフが猛然と我が家に飛び込んできて、シャルは声も出せないほど驚いた。
だって外はこんなにすごい嵐で、もう一週間も家から出られず、祖母と二人っきりで心細く、だけどそんな事よりも困ったのは、シャルがちょうどアレフのことを考えていたからだ。
「シャル! シャルはいる?」
ドアが壊れんばかりに叩かれ、頭からつま先までずぶ濡れで泥まみれの足元で転がりこんだアレフを見て、だけれどシャルが一番にやったのは、アレフを怒鳴りつけることだった。
「なによアレフその格好! いやだ、家の中を汚さないで!」
相変わらずの金切り声を聞いて、アレフは内心ほっとした。
が、時は一刻を争う。
滴を絨毯に落とすのも気にせず、アレフはまくしたてる。
「川が氾濫している! 上流で土砂くずれがあって、もうじき鉄砲水が来るかもしれない! 服を着ろ! 雨具も!」
「冷たいったらアレフ! 鉄砲水? うそ! ……本当?」
「本当さ! もうすぐ母さんだって来る! だから早く支度して! ここは下流で川のすぐそばだから、鉄砲水が来たらひとたまりもないよ!」
勢いに納得させられたシャルが、青い顔できびすを返す。
「おばあちゃん! ジョウニーおばあちゃん!」
自室の暖炉でうつらうつらとしていた祖母を騒々しく起こし、せかして服を次々とかぶせる。
「早く逃げなきゃ!もう水はすぐそこまで来てるかもしれない!」
「お待ちよ、年寄りはそんなに早く歩けないのさ」
「きゃあ!」
「おや」
ドアをあけて、三人は立ち尽くした。
川はすでに氾濫し、水が本当にすぐそこまで来ていた。
ほんの十歩先の地面を、小さなうねりを作って、下流へ下流へと流れてゆく。ひと波ごとに水位は増し、シャルたちの家に迫っている。
「やばい。もうすぐここも水に飲まれる」
言っている間にも、水は迫ってきている。
まさに時間の問題だろう。
「あんたたちだけでもお行き。わたしゃここに残るよ」
「おばあちゃん!」
「年寄りは死ぬものさ。この年で、あの人との思い出の詰まった家を失うのは死ぬよりもつらいこと。だからさあ、早くお行き」
「どうしてそんな事言うの? おばあかちゃんが死んだら、私一人ぼっちになっちゃう!」
涙声で訴えるシャルを、ジョウニーばあさんは悲しそうに見た。
「そうだねえ、可愛いシャル。あんただけが心残りさ。だけど心配はいらないよ、いざとなったら隣村の従弟に、あんたの事は全部頼んである」
「そんな……」
愕然とするシャル。アレフはなんだかムカムカしてきた。
「なに馬鹿なこと言ってんだよばあちゃん! シャルが一人になったら可哀想だってんなら、さっさと逃げなきゃ! そんだけ口が動くんだから、足だって動くさ!」
「だけどねえ」
「もういいよ!」
叫ぶやいなや、アレフは無理やりジョウニー婆さんを背負いあげた。
細く見えてまだ背も低いアレフだが、いたずらをする分だけ力も有り余っている。
「いくぞシャル!」
「……うん!」
家を飛び出すころには、もう水かさはアレフたちの足首まで来ていた。
「やれやれ、まったく若い者ときたら、無茶をするんだから」
のんびりと言うジョウニー婆さん。
水しぶきをはねあげながら緊急の避難場所の木こり小屋に向かう。
その途中で、村長さんとばったり出くわした。
山に入れば頑丈な石橋があるから、そこを渡ってきたのだろう。
「おや、逃げてこれたのか。よかったよかった。川向こうの者たちは、すでに避難を終えたのかね?」
「家は全部回った。シャルたちで最後。そっちは?」
「それがのう」
村長さんは難しい顔をし、
「プレデの奴が、またきかん事を言いだしおってな。今キリエが説き伏せているところなんじゃが……。知らせが遅れてはいかんと思って、わしだけはジョウニー、あんたん所に来た訳じゃよ」
ため息をつく。
またあのじいさんか。
アレフはうんざりした。
どれだけ嵐に文句をつけても、川の氾濫が止むわけない。
「わたしをつれてお行き」
話を聞いたジョウニー婆さんが断固として言い、三人はぽかんと彼女の顔を見つめた。
「どこにも行かんと言ったら、どこにも行かん! キリエ、おまえさんは魔法使いなのじゃろう! 雨など、止まさせるがいい!」
「無茶を言わないでプレデさん。魔法は万能じゃないの。料理道具と同じ。できる事と、できない事があるんだから」
「そんなもの知ったことか! ともかく、わしゃ出てゆかん!」
相変わらずがなりたてるばかりのプレデに、さすがのキリエもぐったりしてきた。
これまでどれほどの時間、こうやってプレデじいさんの家で不毛なやり取りを続けているのだろう。
その時間をずらっとならべて教会の鐘で刻んだなら、キリエはいくつ鐘の音を聞いたのだろうか。
「やれやれ、相変わらず弱い者の前でだけは威勢がいいじゃないか、鼻垂れプレデ」
ドアが開いて、嵐のけたたましさとずぶ濡れの雨にまみれ、アレフの背に乗って現れたのは、シャルの祖母、ジョウニー婆さんだった。
「ジョ、ジョ、ジョウニー……」
「まったく、相手を選んで偉そうにするんだから質が悪いんだよこの男は。キリエ、こんなのに道理を説き伏せても駄目さ。いっそ放り出して、川に流しちまいな」
「おばあちゃんったら……!」
シャルが恥ずかしそうにしたが、アレフはまったくもってこの意見に大賛成だった。
「な、な、な、な、何じゃとジョウニー、わしはもう、お前にいじめられていた頃のわしじゃない、都に出て、有名な画家になったんだ、金だって、村にたんと払っておる、いわば名士だ! お前なんぞに」
「やかましいんだよ! この鼻垂れプレデ! 昔の言葉を忘れたのかい! 私にそんな台詞を吐くなんて、百年早いんだよ!」
村長さんどころかキリエまで言葉をなくすほどの、吹き荒れる嵐にも負けないものすごい雷だった。
「お前がいくら金持ちになった所で、このわたしに逆らえるなんて思わないことだね! さっさとこの家引きはらって、絵の道具でもなんでも後生大事に抱えて山小屋までお行き!」
プレデ爺さんピョコンと立ち上がり、さっきまでのえらぶった姿はどこへやら、わたわたと絵の道具をかき集め、大慌てで走っていった。
「あらまあ、雨具を忘れて言ったわ、あの人」
「持っていっておあげ。まったく、昔っからああなのさ。怒られると、すぐに泣いて逃げ出す」
それから全員で家を出て、山道に入り山小屋を目指す。
「ねえ、ジョウニー婆さんって、いじめっ子だったの?」
キリエの背で丸くなっているジョウニーを指さし、アレフが村長さんにこっそりと聞いた。
「わしらより五つ年上でな、美しかったが、悪さには厳しくて怖い姉様だったよ。プレデは特に目をつけられていてな、年中怒鳴られとった」
アレフは傍らを歩くシャルをじっくりと眺め、
「似てるな」
「……ばか!」
思いっきり尻をどやされる。
そのジョウニー婆さんはキリエの背に頬をうずめ、
「まったく、久しぶりに大きな声を出しちまったから、疲れたよ。おおキリエ、あんたの背中は気持ちがいいねえ。ちょっとの間だけ寝かせとくれ」
すうすうと、寝息を立て始めた。
轟々と、眼下で氾濫する川を、アレフたちは高台から見下ろしている。
「よく見ておきなさい。自然のうねりは、人がどんな城を建てたって魔法を駆使したって操る事なんてできないものなのよ」
キリエの言葉と、目の前で繰り広げられるすさまじい光景を、アレフは頭の中で重ね合わせている。
黒々とのしかかる雲からは、いまだ叩きつけるような雨が降りしきり、遠くの景色をけぶらせている。
「その言葉、プレデ爺さんに言った方がいいよ」
アレフはしごくもっともなことを言ったが、
「大人をそんな風に茶化してはいけません」
キリエに一蹴されてしまった。
この氾濫で、シャルの家を含む村のいくつかの家屋が流されたが、幸いにも死者はなかった。
「いたずらアレフも、たまには良い事をする」
大人たちは口々に言って、アレフを誉めた。
たまにとは何だたまにとは、アレフはそう憤慨したが、大人たちの言うことは、そんなに間違っていないのだから仕方がないさ。
だろう?
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