文句屋のプレデ爺さんが恐れる人(中)
ライラがアレフの背中にはりつき、
「またプレデさんが怒っているのね? どうしてあんなに大きな声を出すのかしら。どれだけ怒っても、雨が止む訳でも川の水が澄みわたる訳でもないのに」
「さあ」
世の中をよく知らない子供たちにとって、プレデ爺さんという人は、全く理解に苦しむ存在だった。
だって、そんなにきれいな水が欲しいんだったら、桶に水を汲み置くなり何なり、ちょっと手をかければ済むのに、それもせずに、駄々っ子みたいにわめくばっかりだ。
「だから何故わしが引っ越さねばならんのじゃ! わしゃあ村にたんと金を出しておるんじゃぞ! 引っ越すのなら、川の方じゃろう!」
まだ怒鳴っている。
「川が引っ越すわけないじゃんか。プレデ爺さん、頭に血がのぼりすぎておかしくなったんじゃないのか?」
「でも、いつもあんな感じなの。本気で言っているのかしら?」
はあ、なるほど。自らの創りだす物がこの世でなにより重要で、他の全ての物はそれに従うべきだと思いがちになるのが芸術家だそうな。
変人の多い人種と聞いてはいたが、
「いつも? 川を引っ越させろって?」
「ううーん、あと、紅葉の山を描きたかったのに葉が散ってしまったから戻せとか、山に霞がかかってじゃまだから、雲をおいちらせだとか」
重症である。
皇都を囲うストッグ運河じゃあるまいし、そんな大きな治水工事が出来るはずがない。アレフのような子供にだってわかる話だ。
やがて言いたい事すべてを吐き散らし、プレデ爺さんは帰っていった。
「全く、はあ。あの人にも困ったものじゃな」
ため息をつく村長さんだが、プレデ爺さんとは子供の時分からのなじみだそうな。
あの二人に、自分とレニやクランバルたちのような子供時代があったなんて話を、アレフはどうも上手く思い浮かべられない。
「あらあら、ああいう生まれながらの文句屋には言いたい事を全部吐き出させてやるものだ、私は昔誰かさんからそう聞いた覚えがあるわ」
「おいおいキリエ、老い先短い年寄りから愚痴まで奪おうというのかね? 魔法使いこそ、誰より賢くあらねばならない存在じゃろうて」
お互い無理してからかうような口調でやりあい、そのおかげでこわばった空気が徐々にほぐれる。
「もう終わったの?」
階段を降りてくるアレフたちに、
「聞いていたのね。いけない子供たちだわ!」
キリエが先生の顔で二人の額を人さし指で突っつき、子供たちはくすぐったそうに笑う。
「さあ、帰りましょうか」
「もうかね? アレフもいる事だし、夕食ぐらい食べてゆけばよかろう。なんなら、お茶だけでも飲んでゆけばいい」
裕福な村長さんちの食卓には、どんな食べ物が並ぶのだろう。
好奇心の旺盛なアレフは是非ともその申し出に甘えたかったのだが、
「カビの生えそうな物がたくさんあるの。この長い雨には、参っちゃうわ」
ポンチョを着込みながら、やんわりと断るキリエに、ガックリと肩を落とす。
猛烈な雨の中に二人で戻り、暖かでしっかりした立て付けの村長さんちにさよならをする。
「先生、それじゃあまた、アレフもさようなら」
ライラが村長さんと並んで手を振るのを、アレフはなごりおしげに見つめていた。
豪雨の中、村長さん橋まで戻ると、ごうごうと唸る濁流を覗きこむ。
どうしたことか、心がざわつく。
風が運んでくる音が、なにかを知らせようとしている。
「どうかした?」
中々顔をあげないアレフに、キリエがうしろから声をかける。
アレフはそれに答えず、やにわ橋を渡り、川沿いをさかのぼりだす。
「こら! どうしたの!」
「ちょっと! 風がおかしくて、気になるんだ!」
言い捨てて、どんどんと足を早めるアレフ。
流れを見たときに湧きおこったこの胸騒ぎはなんだろう。
巻き上げられた泥と、折れた枝が渦巻きながら流されてゆく。
おかしい。
普通じゃない。
何かよくない事が起こり始めている。
川は遡るにつれて木々の多いところに入りこみ、そして険しい谷に達する。
異臭がした。
腐らせた卵みたいないやな臭いだ。
下ばえや雑草が多いはずの足元が、やけにぬかるんでいるのもおかしい。
よく目をこらして見ると、斜面のそちこちから水が吹きだしている。
「何だろうこれ、ぅわあ!」
悪路に踏みだした足をとられて、アレフは頭から転ぶ。
「いてて」
ずぶ濡れになってしまった体を起こそうとして手をついたとき、激しい雨が地を揺るがす中で、不気味な音に気がついた。
ぶつり。
ぶつりぶつり。
「なんだろう、この音」
地の底から、わきあがるような低い音だ。
まるで、地下に閉じ込められた伝説の悪鬼が、地上にその姿を現さんとしているかのよう。
その正体を見極めんとアレフが首をめぐらせたその瞬間、目の前の風景が、丸ごとずるんと横滑りする。
「危ない!」
ポンチョの背中をつかまれ、引っぱり戻される。
目の前の地面が、割れて砕けながら生えていた木々ごと谷底に滑り落ち、濁流に飲み込まれていった。
「地滑りよ。危なかったわ」
キリエだった。
木の枝をつかみ、反対の手でポンチョを握りしめていた。
先ほどまでアレフが立っていた地面も、ごっそりともっていかれていた。
「馬鹿……駄目でしょう。こんなに危ない事をして」
アレフを引き寄せ、力いっぱいかき抱く。
声には強い慈愛がにじんでいる。
「川の色が変だったんだ。風がそれを、知らせてた。だから、確かめようと思って」
キリエはまじまじとアレフを見、それから川に目をやる。
泥流と化した川には、言われてようやく気づくほどの緑灰色が混じっている。
「地下水が噴き出て粘土層が崩れ始めているんだわ。危険ね。今崩れた土砂がダムになって、村に鉄砲水が襲いかかるかもしれない」
「どうしよう」
「村の人たちを避難させなきゃね。ついてらっしゃいアレフ――それと」
「なに?」
「母さんが止めるのも聞かずにこんなに危ない場所にはいって、いけない子」
頭をグーでゴツンとやられ、アレフは口をとんがらせた。けれどキリエがあんまり厳しい顔をしているので、何も言い返さなかった。
村一番のいたずら小僧だって、時には素直になるものさ――特にこんな嵐の夜には。
むっつりと黙りこむ息子をもう一度胸に抱きよせ、したたり落ちるしずくを払い落としてやりながら、キリエは笑った。
「さあ大仕事よアレフ。自慢の駆け足、たっぷりと見せてちょうだい」
私は村長さんに知らせてくるわ。
キリエはそう言って木々の中に滑りこんでいった。
アレフも言いつけどおりに森から離れた家に住む人たちの戸を、乱暴に叩いて回る。
もちろん言いつけどおり、なるたけ川には近寄らないようにして。
「誰か! 出てきてよ! 誰か!」
「おやおやアレフじゃないかい。いったいどうしたって言うのさ、こんな雨の中こんな時間に」
「上流で土砂崩れがあって、流れがせき止められているんだ。もうすぐ川が氾濫するかもしれない。だからみんな早く逃げなきゃ!」
音に聞こえたいたずら坊主のアレフの言うことだから、はじめは誰もが半信半疑だったが、川のどこそこが崩れてる、地面が引っ張り落としたテーブルクロスみたいにくずれ落ちて、いま川の水が半分ぐらいになっている、なんていう具体的な話を聞くと、
「こりゃあ一大事だ」
さすがに青ざめて、家族を起こしにゆく。
「大切な物だけを持って教会に行って! あそこなら高台だから流れはこないから!」
キリエに教えられた通りの説明をして、アレフは次の家に向かう。
レニやクランバルたちの家でも彼らに挨拶するまもなく、次から次へ、急ぎ足に用件だけを伝えてゆく。
シャルはどうしてるのだろう。
アレフの胸に、真夜中の
ライラは村長さんと一緒にいるはずだから大丈夫、もう安全なところに非難したはずだ。
ほかの学校の子たちのところも、あらかた回り終えた。
だけど、シャルの家は?
シャルは村のはずれに、老いた祖父母と住んでいた。
前の冬にゾーイ祖父さんが死んでしまっているので、いまは祖母との二人暮らしだ。
キリエが村長さん家から順繰りに回るとして、だからシャルのところに行くのは、一番最後になるはずだ。
母さんは、いまどこらへんを回っているのだろうか。
緑の魔女と呼ばれたライラである、大きな木がある所へは、魔法の靴で飛びはねるみたいにすいすい行ってしまうが、原っぱや何もないところには、自前の靴で歩かなければならない。
魔法使いだからって、なんでもできる訳じゃないのさ。
むずむずと、アレフの中の虫が騒ぎだした。
シャルの家は川向こうで、キリエはアレフに川には絶対に近寄るなと言いつけた。
「ちょっとだけなら、かまわないさ」
そうさ、ほんのちょっとだけ。
ぱっと川を渡るだけ。川のこっちの家は全部回ったから、ちょっと母さんの手伝いをするだけさ。
村長さん橋からずっと下流にある木の橋のほうへ、アレフは風のようにかけだした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます