伝説の一角馬と隣村の男の子たち(後)

 陽が、傾きつつあった。

 カリガルの乗る小船を先頭に、三つ国村の連中は着々と釣果を上げ、対して緑風村の面々は、時とともに魚信が遠のいていた。

 黒斑が棲むのは、泉の一番深いところだ、滝つぼ近くや湖沼の中央部、自在にねらい場所を移せる小船での釣りの方が、だんぜん有利に決まっている。

 しだいに勝負の趨勢は三つ国村の側にかたむき、それにつれて緑風村の者たちも苛立ちを隠せなくなっていった。

「おーい、お前ら何匹釣ったんだよー!」

 カリガルと舟に乗っている取り巻きの一人が、中腰になって声をはりあげる。その顔には、勝者の笑み。

「俺たちはあ、もう鱒を十匹も釣り上げたんだぜー!」

 笑い声まであがる。これで穏やかにいられるはずがない。

「そんなの、舟があるからだろー! 腕前じゃないさ!」

 クランバルがやり返すが、

「じゃあ貸してやろうかー? お前らも釣ってみろよー!」

 また笑い声。アレフが何も言わないことで、余計に緊張感が増す。

 ライラが助けを求めるようにシャルを見、シャルは大きく息をすいこむ。

「怒っちゃだめよアレフ、あんなの放っときなさい!」

「女なんかに助けられてやがらあ! 緑風村のアレフってのも、大したことないぜ!」

「なによ女なんかって! 女がいなかったら、男だっていないのよ! あんた! 今とおんなじこと、自分のお母さんにも言えるんでしょうね! どうなのよ! 答えなさいよ!」

 調子に乗ってからかったら、手ひどくやり返されてしまい、男の子は舟の上でぐっと口をつぐむ。

 神様は女の子を男の子よりも口達者に作られた。

 その女の子の中でも、シャルはとびっきり気が強い。

 やりこめられ、戸惑って立ちつくす男の子に、

「気にすんな、座れ。俺たちの方が釣れてるんで、気にいらないのさ」

 大人びた慰めをかけるカリガルの声は、アレフたちには届かなかったが、強い存在感だけはこんなに離れていても感じられた。

 結果は圧倒的なのに、三つ国村の連中が有利を誇示せねばならないのは、いまだかの大黒斑という決定的な釣果を得られないからである。

 それ以外の魚をいくら釣りあげても、しょせん雑魚にすぎない。

 澱んだ沈黙がしばらく流れ、誰もが次の動きを計りかねていたその時だ。カリガルの浮きが水面をふらふらとゆれ、ぴゅん! 水の中に吸いこまれた。

 あわせるのが一瞬遅ければ、エサを取られていただろう。

 が、竿を握るのは、三つ国村のカリガルだ。

 鱒を釣らせれば、大人の猟師たちも舌をまくほどの手錬である。

 素早く竿をもちあげたが、先端はぐんぐんと下に引きこまれる。

 その引きが、いつもとは比べものにならないほど強い事に気づいた時には、カリガルはもう竿ごと水の中に引きこまれかけていた。

 とっさに竿を放したが、舟は勢いよくロールし、中腰のままだったやつがたまらず転落する。


 悲鳴と水柱。


「ジメル!」

 泡立つ波紋をのぞきこむが、落ちた子が浮上する気配はない。

 目をもどすと鱒をかけた竿は水しぶきを上げて水面を走り、やがてとぷりと水中に吸いこまれた。

「くそ! ついてねえ!」

 親父ゆずりの汚い悪態をついて、カリガルは胸いっぱいに空気を吸い、水に跳びこむ。

「持っておいてくれ!」

 アレフも竿と魚篭を放りだし、ジメルと呼ばれた子が落ちたほうに泳ぎだす。

 わずかに残る泡のそばまでゆくと泳法を変え、鼻をつまんで水にもぐる。


 そこは、別世界だった。

 頭の上には彼方までつづく、ゆらめく銀色の水面。

 水の動きに合わせて踊る沈蓮の葉。

 水は深さを増すごとに青から緑へと色を変え、細かい塵を漂わせながら、湖底に悠久の静けさを満たしている。

 どうどうと波立つ天井をかき混ぜているのは、奥の滝を流れ落ちる水流だ。

 小さな魚が群れを作ってアレフから遠ざかる。

 幾多の魚影が見せる滑らかなうごきに、つかのま時を忘れた。


 アレフの目の前を、小さな泡が列を作ってたちのぼり、舟底にぶつかって割れた。

 泡のたつ方を確かめると、カリガルとジメルが絡みあいながら沈んでゆくところだった。

 アレフは腕をのばし、水をかき分けながら猛烈に潜りはじめた。

 水を飲んでパニックになったジメルが、助けにきたカリガルにしがみついて、動きを取れなくしているようだ。

 カリガルはまだ水を飲んでいないようだったが、それも時間の問題だろう。

 さあ、どうする?

 ゆるやかに沈んでゆく二人に追いつき、アレフは少し考える。

 それから、カリガルの背中からわき腹に腕をまわして体をつかみ、片手と足だけで上へ上へと水をかく。

 必死に水面を目指す、が、いくらもがけど三人分の体は一向に浮かび上がらない。

 それどころか、徐々に沈んでゆくような気さえする。

 やばい。

 アレフに焦りがではじめる。

 やばい、このままじゃ、自分まで溺れてしまう。

 今時分この辺りに大人が通りかかる事はなく、溺れる子供たちを助けてくれそうな人間はいない。


 俺、死ぬのかな。


 ぞくりと、諦めと恐怖が背中をはいのぼる。

 死ぬ?

 うそだろ?

 さっきにもまして、水をこぐ手をつよめる。

 だけれど慌てれば慌てるほど水はあばれる魚のように手をすり抜け、アレフたちを暗い水の底に引きずりこむ。

 ついにカリガルが大きな泡を吐き、程なくアレフも息苦しさに耐えかね、泡を吐いて水を飲む。

 苦し紛れにさんざんもがいたが、やがて力尽き、互いをつかんだまま沈みゆく三人の少年。

 俺、死ぬんだ。

 感情が麻痺し、しだいに霞んでゆく視界を何かがぬうっと横ぎる。

 黒い斑もようを体中に散らした大鱒。

 いましがた彼らをこの冷たい水に引きずりこんだ、この小さな湖のヌシだ。

 大きく不機嫌そうな口元で、悠々水を飲みこんではえらから吐いている。

 針をどこで外したのか、引っぱっていたはずの糸も竿も、見当たらなかった。

 でっかいなあ、立たせたらレニぐらいあるなあ、こいつ俺たちが死んだら、食う気かなあ。

 真っ黒に落っこちそうになる意識の中で、とりとめのない事を考える。


(風の少年よ)


 目の前に雷でも落ちたかのような衝撃を受けた。

 だれだ?

 今の声、どっから?


(風の少年よ。上を見よ)


 アレフが見あげると、水面を刺しつらぬいて、すぐそこに尖った棒が垂らされていた。

 夢中でしがみつくと、ものすごい勢いで引っぱりあげられ、あっというまに水面を割って、アレフ、カリガル、ジメルの順に水中から全身を出す。

 咳きこみながらもがくと、足が立った。

 背を震わせながら水を吐き、それからまだ溺れているジメルを、カリガルと二人で引きずりあげて、

「落ちつけ! 足がつく!」

背中を叩いて水を吐かせ、どやしつけた。

 髪の毛をうしろにまとめて水を切り、顔をぬぐって息を荒くしながらまわりを確かめる。

 そこは、さっきまでアレフがいた浅瀬だった。

 おかしい、自分たちはもっと池の中央で溺れていたはずだ。

 すぐそこに、レニやクランバル、シャルやライラたちがいた。

 みなアレフの方を向いてるのに、目はアレフを見ておらず、毒気を抜かれた顔でずっと遠くを見ている。

 後ろ?

 アレフがふり返る。

 水面に、一角馬が立っていた。

 らせんの角を額に輝かせ、スリムな白い馬体に、面長の顔、星空のように美しい黒の瞳をアレフに向けている。

 その美しい御姿が、水面に、立っている。

 脚どころか、蹄すら沈めることなく、水の上に、立っているのである。

 カポリ。

 前脚を一歩ふみだし、カポリ、カポリ、カツ。

 一歩ごとに足下で生まれた波紋が重なりあい、複雑な漣をえがく。

 そしてアレフの眼前で足を止め、ブルッと首をふる。

(風の少年よ、命を粗末にするものではない)

 音にならない声が、直に心へと伝わってくる。

(お前には、天より与えられし使命がある。その様に生き急いでは、使命を果たせず終わってしまうぞ)

 くるりと馬体を返し、

(さあ、今日は帰るがいい。お前の母も、暖かな家で待っておろう)

そして、漣を作りながら滝つぼに向かい、一足で滝の上に飛び乗った。

(緑の魔女に伝えるがいい。これは、貸しになるとな)

 そして、伝説の霊獣は風にごとく去った。

 鏡のような静けさだけを残して。

 ヌシが水面に跳びあがり、夕暮れの光を魚体に弾かせたが、もはやだれも驚かなかった。



 カリガルたちと森を出て、無言のうちに別れ、アレフは緑風村の子等を引きつれて川沿いのゆるい斜面を下ってゆく。

 そのうち張りつめていた気持ちもすいと力が抜けて、後ろのほうからぱらぱらとどうでもいい事を話しだした。

 あれは、一角馬のあの声は、なんだったのだろう。

 聖獣は言った。

 アレフには、与えられた使命があると。

 だが周りの者に確かめると、誰もその様な声は聞いていないという。

 ともに溺れたカリガルやジメルならばもしやと思ったものの、やはりその様な声を聞いたものはいないと答える。

 ただどこからか現れ、らせんの角を水に沈めたかと思うと、アレフたちを釣り上げるように救い出したのだ、と、みな口をそろえて言った。



 アレフは、黙り込んでいる。

 後ろを歩く少年少女たちがその背に気遣わしげに見るが、気づくそぶりすらない。


 彼らが下りゆく谷に、七つの鐘が響きわたる。

 初夏・火前月の緑風村に隠陽、日暮れがおとずれた。

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