猫人族と踊ろう(後)
きょとんとするアレフに、クーカ・シーラが木の杖で尻をつつき、
「抱いてやっておくれ。この仔は、風の人とともに生きるのだから」
そんなのいきなり言われても、意味が判らない。
猫人たちはみな騒ぎをやめていた。
神妙な雰囲気に呑まれ、アレフは、母親からそっと赤子を受けとって、両手のひらにすっぽりと収めた。
ルトというその猫人の仔は、こんなに小さいのに随分あったかく、細かく震えていて、今にも壊れそうだった。
その目が、そっと開く。
宝石みたいにきらきらした目でアレフを見つけ、
「かじぇのひと」
と、か細く鳴いた。
「ほほほ、もうお前の事が判るようじゃ。さあさ、その仔の名を呼んでやっとくれ」
目が開いたばかり、というくらいに小さな猫人。
本当にこんな仔の中に、一生分の記憶なんてややこしいものがぎっしりと詰まっているのだろうか。
アレフはしばし迷い、しばし考え、
「やあ、ルト」
そう呼んでやると、その仔はにっと笑う。
笑顔がうれしくて、アレフも笑い、
「ほうれ! まだまだ祭りはこれからじゃ! 踊れ歌え!」
再び広場は喧騒を取りもどす。
おのおのの笑顔と歓声を、風終の満月があったかく見下ろしている。
「いや全く全く、ちょっといたずら心を出しただけでこれじゃ。うちの奥方は、冗談というものが判っておらん」
さんざんにつねりあげられた手の甲を吹いて冷ましながら、クーカ・シーラがアレフの横に座る。
月は天頂を越え、祭りは下火になりつつあった。
丁度いい機会だ、アレフは前々から不思議に思っていたことについて訊いてみた。
「猫人は、一生の記憶があるんじゃないの? つねられるって判ってて、何で若い娘の尻を触るのさ」
ちなみに猫人の記憶に関して、母キリエはアレフにきつく口止めをしている。
もしもこの事が広まれば、未来を知りたがる者たちが彼らをほしいままにして、猫人と人との幸せな時間は終わりを告げるだろうからと言いふくめて。
だが老いた猫人は、そんな懸念などなんのその、
「そんなに些細な事は、一々憶えておらんよ。猫人の一生は、お気に入りの物語を何度も読み返すようなものじゃ。だいたいおぬしも、一年前の今日の昼飯なぞ憶えておるかね?」
肩をすくめて見せ、
「年をとって、わしもずいぶんと落ち着いたもんなのじゃがな。尻の一つ二つ、けちけちせんでもええじゃろうに」
反省の色なく、片眉をあげて見せる。
「ボケちゃってるんじゃなくて?」
「なにをいう風の人! こう見えてもわしゃまだまだ現役じゃぞい!」
何をいわんとしているのかはさておき、全くもって元気きわまりない。
ふうむ、一生の記憶があるとは言っても、生まれてから死ぬまでの出来事を系統だてて憶えている訳ではないのか。
その辺の事情を、アレフは大まかに理解した。
「なあクーカ・シーラ、あの石板には、なんて書いてあるんだ?」
猫人たちが「風の塚」と呼んでいる、人間の大人の背丈二人分以上もある、そそり立つ巨大な石板をさすアレフ。
こっちに向いた平たい面の上のほうに、小さい文字が一つ、記されている。
「うむ、“旋風”、じゃ」
「つむじ風? そんだけ?」
「うむ、そんだけじゃ」
アレフは、その文字をじっと見る。
彫りこんであるでもないのに、これだけ風雨にさらされて、文字は流れもかすれもしていない。
どこの誰が、どんなインクでこれを書いたのだろう。
ひょっとして、ただの染みだったりして。
そういえば、母さんの足にある精霊文字ってやつに、ちょっと似ているかもしれない。
あれよりも、随分簡単ではあるが。
まあいいや、そのうち訊こう。
「はああ、もう眠たいや」
アレフがおっきいあくびをし、手足をほうりだして横になる。
かついできた袋を折りたたんで枕代わりにし、草原のじゅうたんを背中に感じながらかゆい目蓋をこすっている。
「風の人が寝ている!」「風の人!」「もっと遊んで!」
まだ元気を残している仔らが、アレフの周りに群がり、跳びついて丸くなる。
無数の毛皮にうもれながら、アレフはぬくぬくと満たされた眠りに落ちてゆく。
胸の上をてとてと歩く小さい気配。
「かじぇのひと」
ざらざらした舌が、鼻の頭をなめる。
そして襟首からふところに入って、服のおなかの辺りで丸くなる。
ピーピーとせわしない寝息がたつ頃には、アレフのおなかも規則的に上下していた。
りいりいと、夏虫がひっそり鳴く。
寝静まった猫人の集落の向こうに、月光に照らされた白銀山脈が鎮座している。
星々が月をとりかこんで瞬き、風が一陣、石板から吹きおりて、アレフの前髪をゆらした。
遠くで来陽をつげる鐘一つ。
朝陽が目蓋ごしに飛びこんできて、アレフはむっくりと体を起こした。
草原は緑に輝き、蝶が舞い飛んでいる。
その中央で、風の塚が音なくたたずみ、アレフを柔らかく見守る。
寝ぼけまなこで辺りを見まわすが、猫人の姿は一つもない。
「はーあ、よく寝た」
うーんと思いっきり伸びをすると、ぽっこりと膨らんだ服のおなかから、ルトがころりと転がりでた。
暫くアレフと同じように寝ぼけていたが、ごろごろと喉を鳴らしてアレフの足に体をこすりつけ、
「んばいばい、かじぇのひと」
アレフの目を真っ直ぐに見つめ、四本足で、どこかにぴゅっと走っていった。
「くあーあ……」
あくびをしながらもう一つ伸びをして、枕にしていた袋を広げて空の酒袋と食べのこしをつめこみ、うっそりと木々からこぼれた朝陽を受けとめる草原を後にする。
今日は一週間の始まり、水曜日だ。学校が始まる見陽の鐘までには、家に帰り着いてないと。
正午をつげる四つの鐘が鳴り、アレフが悪ガキたちの先頭を切って学校を跳びだそうとしたところで、
「お待ちなさい、アレフ」
先生に呼び止められた。
「ねえアレフ? 私が楽しみにしていた野いちご酒、いつの間にかなくなっているんだけど、何か知らないかしら?」
まずい、まさか、もうばれたなんて。
アレフはそんな大変なニュースは今初めて知ったという顔をつくり、
「さあ、先生が酔っ払って飲んじゃったんじゃないの?」
「まだ封を開けてなかったはずよ。だって、昨日確かめたもの」
さらにまずい。
敵は手ごわい。
「それじゃきっと、誰かがこっそりと飲んじゃったんだよ」
「あら、誰が?」
教室の出口でアレフを待つ男の子たちが、はらはらしながらやり取りを見ている。
アレフはせわしなく鼻の頭をこすりながら、言った。
「つむじ風、じゃないかな」
その日アレフは居残りで、学校の拭き掃除をさせられた。
もちろん、夕食も抜きさ。
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