キリエ、高名なる緑の魔法使い(後)
さっき見た都会風のおしゃれな靴はどうしたわけかはいてない。
きれいな左の素足の、滑らかな甲から足首にかけて、精霊文字が美しく描かれている。
「考えたわね、風見鶏の風車に釣り糸を巻きつけて、時間をかけて棒をたおすなんて」
三人の悪事は、どうやら全てがつまびらかにされていた。
先生の口調は授業中のような幼い子向けのにこやかなものではなく、もっと冷たいけれど楽しげで、それでいて針の先みたいにちくちくと鋭い。
「なんてこった……冗談じゃない! レニのやつ、ここをばらしやがった!」
どこでおぼえたのか、大人くさいしぐさでアレフがなげく。
クランバルは早くも観念し、膝を抱えてうなだれている。
「まあ! レニはそんなことしないわ。ただ、あなたたちの走ってゆく方角と、昨日やたら釣り道具を手入れしていたのを思い出しただけ」
ぐうの音も出ないとはこのことだろう。
それでも治まらないアレフは、
「見逃してよお願いだよ母さん! 本当にここにいたんだって! こんな、こーんなでっかい奴なんだよ!」
「すごいわ。学校が終わったらぜひ捕まえに来ましょう」
「本当なんだって! ぐずぐずしてたらカリガルたちにだしぬかれちゃうよ!」
「そうよね。じゃあ頑張って早く勉強を終わらせないと。だって、釣り道具は教室のあなたの席にあるのだから」
アレフの哀願にも、先生はとりあわない。
ムダだよなあ、クランバルはぼんやり思う。
アレフは先生のたった一人の息子だけど、それで甘やかされているのを見た事がない。
先生が一度ダメと言えば、それはもうずっとダメなのだ。
「本当なんだよ……」
さっさとあきらめたクランバルに対して、アレフはまだ食い下がっているが声のトーンは涙じみて弱々しい。
だって空は青く、緑豊かな午後を待つこの森の中で、でっかい黒斑鱒を釣り上げるよりも大切な事なんて、いったいこの世界のどこにあるって言うんだ。
「さあ、帰りましょう」
諭すふうでもなく先生が言うと、アレフは口を尖らせ、頬を膨らせながらも渋々引きかえす。
「そうだ、二人ともせっかくここまで来たんだから、」
先生がとても素敵な思いつきがあるかのように振り返り、きっちりと罰を与えた。
「水をくんできて頂戴。その桶一杯に」
「げ」
「滝を落ちてきた水って本当に美味しいのよね。どうしてかしら。井戸のものほど長持ちしないのが残念だけど。その水で、今夜はシチューでも作りましょうか。あまりクランバルに持たせちゃだめよアレフ。だってそのシチューを食べるのはあなたなんだから」
そして木々の間にするりと綺麗な裸足を滑りこませ、
「地図の説明が終わったら次は算術よ。それまでに帰ってこないと、夕食抜きになるからね」
声だけを残して、どこかへ消えた。
アレフは、とても素直とは言いがたい顔をした。
うそだろう!
地図なんて、あっというまに読み終えてしまうに決まってるじゃないか!
だが、嘆いてもどうしようもない。
先生が夕食抜きと言えば、断じて夕食抜きなのだ。
「急げクランバル!」
アレフが桶をつかんで滝へと駆け寄る。
クランバルは、まだ気落ちしたまま立ち直れていない。
「さあ、これ持って走れ! 俺もすぐ後から追いかけるから!」
渡された桶を抱え、のろのろと動き出すクランバル。
山道を戻り、下の滝でアレフに追いつかれ、
「走れ! でないと俺、今晩食事ぬきにされちまう!」
急かされ尻をたたかれて、ようやく全力で走り出す。
森を走り出て丘をいくつももどり、蔓ハコベに足をとられ水桶の重さに振りまわされながら、ほうほうのていで丘の上、大きな木の足元に立つ学校にもどる。
「お帰りなさい。森の空気はどうだったかしら」
にこやかに迎える先生にこたえる余裕は、どちらにもなかった。
さんざんこぼしながら走ったせいで、桶の半分も水は残っていなかった。
真面目な――少なくとも、アレフたちよりは――生徒たちは、大慌てで戻ってきた悪ガキたちを、興味深そうに振りかえっている。
彼らが算術につかう色つき石を机に広げはじめたところだと確かめ、アレフは何とか間にあったことに胸をなでおろす。
「おーい」
へたり込んだまま教室の入り口に頭を突っこんでいた二人が、頭のすぐ上から降ってきた声の方を向くと、
「手桶、持ったまま立っていろって」
壁に背をくっつけて、レニが世にも情けなそうに立っている。
「罰、だって」
アレフが教卓を向くとそこに、やはりにこやかにたたずむ先生の姿。
ちょっとおしゃれな革のブーツがスカートの下から覗いている。
あんな服装で、しかもわざわざ靴を脱いでこの距離をアレフたちよりも早く行って帰ってきた?
走ったとでも?
まさか!
先生は特別なのさ。
「冗談、きつい、ぞ」
アレフが憮然とした顔をくずさない後ろで、レニとクランバルが大きなため息をついた。
正午をつげる鐘が鳴り、その日の学校が終わるまで、三人は教室の壁ぞいに並んで立たされた。
シャルが口の動きだけで「ばあか」とささやき、憶えていろ、この借りは必ず返すとアレフは心の中で毒づいた。
実行に必要なものは、全て揃っているはずだった。
そつのない計画、充分な準備、そして、全てが終わった後に待ち受けるであろう罰を怖がらない勇気。
問題は、先生が普通の先生ではなかった事だ。
緑の魔女。
少々魔術に通じておれば、その名を知らぬ者はいないであろう。
若くして魔術院八百年の歴史上、不世出の木属性魔道師と謳われた天才女史。
その名はキリエ・ネイゼリ。
彼女こそ、ここ緑風村唯一の学校、そしてその唯一の先生その人なのである。
キリエは丘の上に立つ自宅の一部を教室として開放し、村の子らに学問を広めつつ、いたずら盛りの息子と二人でつつましく暮らしている。
キリエにかかれば、手を使わずに木製の窓を閉じるのも息も切らせず森に先まわりするのも、口笛を鳴らすようにたやすい。
村での評判は上々だ。
もともと彼女はこの村の人間だし、学校を開いてはいるが金品を求めるでなし、農業技術にも明るく、その上薬剤師としての腕は抜群ときている。
子連れとはいえいまだ若々しく美しいキリエだ、縁談をもちこむ者も誘う男もいるいるけれど、彼女は息子との二人暮らしを楽しんでいる。
息子のアレフも、いくつか不満はあるものの、魔法使いの母親とこの環境には、おおむね満足している。
「ばあか」
シャルが口の動きだけで、立たされ坊主のアレフたちにささやきかける。
アレフが憎々しげに唇を鳴らし、先生に
「こぉらアレフ、静かになさい」
と叱られる。
教室に笑いがさざめき、クランバルがうなだれ、レニが恥ずかしさのあまり熟れた果実みたいに顔を赤らめる。
息子のアレフも、母親が村でたった一人の教師であり、魔法使いであるこの現状には、おおむね満足している。
「ばあか」
「……おぼえてろシャル」
いくつか不満もある、という意味さ。
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