キリエ、高名なる緑の魔法使い
キリエ、高名なる緑の魔法使い(前)
男の子の仕事ってものは、昔っから多いもんさ。
虫取り、魚釣り、森の探検に秘密の隠れ家づくり、だって世界はこんなにも素敵な物であふれているのに!
教室の窓から、それも授業中に抜け出すにはちょっとしたコツがいる。
教卓から油断なくこちらをうかがう先生の目と、それ以外の生徒たち、特に先生の手先の生意気な女子たちの眼をそらす事。
それさえ出来れば後は、風前月の春風を受け入れている開けっ放しのこの窓から、せーので飛び出せば事足りるのだ。
実行に必要なものはすべてそろっている。
大胆な計画、じゅうぶんな準備、そして、すべてが終わった後に待ちうけるであろう罰を怖がらない勇気。
「
窓から見えるのは件の白銀山脈、頂きをかざる白い冠雪がきらめき、空の青さをひきたてている。
それぞれ伝説の霊獣の名がついた五つの峰の中で、ひときわ高く天につき出たのが、かの
黒板にひろげた大きな地図を指さす先生の、歌うような声が気持ちよくひびく教室のなかで、アレフはずらっと並んだ生徒の頭のすきまに首をひっこめ、クランバルとレニに目くばせする。
二人の目に浮かぶ決意を確かめてから、先生のほうに視線をもどすと、
じろ。
告げ口屋のシャルと目がぶつかる。
アレフたちのあやしい動きをうかがう目つきだ。
自然に目をそらしたつもりのアレフだがどうだろう、企みがばれちゃいないかい?
「そうだね、ここで川は渓谷に挟まれちゃうんだけど、ライラ、その名前は?」
「
「はいよく出来ました。みんなライラに拍手」
わあーい、のんきな歓声と拍手とくすくす笑い。
その時だ。
かつり、かららん。
教室の入り口の反対がわ、先生がいつも入ってくるドアを、なにかが叩く音がした。
「あら、なにかしら。誰? ウィージェ? それともベネリ?」
先生がドアの向こう、玄関に消えたかと思うとにわかに三人の男の子が立ちあがる。
「アレフ!」
「いくぞ!」
ひざにかかえていた筆記用の石板を投げだし、いっせいに窓にかけだした。
「先生! アレフたちが逃げようとしてます!」
シャルが声をあげるがもう遅い、男の子たちはすでに窓枠をまたごうとしている。
まっ先に戸外にころがり出たアレフについでクランバル。
レニもその後を追おうとしたところで、さわぎを耳にした先生の差し棒がふるわれ、窓がすべてひとりでにぴしゃりと閉じた。
「レニ!」
クランバルがとり残されたレニをふりかえる。
窓を引いたり叩いたりしてみたが、どう言うわけか閉じた窓はどいつもびくともしやしない。
なんとかレニを連れだそうとアレフとクランバルがやっきになって窓を開けようとするが、先生が長いスカートをひらめかせ、都会風のちょっとおしゃれな革のブーツを鳴らして教室にもどったのを見つけると、
「やばい、逃げるぞ!」
あきらめて一目散に逃げだす。
「レニは?」
「もう遅い!」
とり残されたレニが、泣きそうな顔で窓にへばりついている。
万事休す。
すまないレニ、お前のとうとい犠牲を俺たちはずっと忘れない。
胸の内でレニの不幸を
ぐんぐんと小さくなってゆく校舎、その屋根から煙突のようにつきでて葉を広げる丘の上の巨木。
スズカケヒノキの若木の根元に家屋を組んで、三百年も住めばきっとこんな建物が出来上がるに違いない。
やがて遠ざかるとそれはやがてまあるく空を切り抜いた緑のシルエットになり,そのうち駆けぬけた尾根の向こうに見えなくなる。
鐘が三つ聴こえる。
時間は昇陽、正午まであと一刻だ。
誰も追いかけてくる様子がないのにほっとして、二人はようやく立ち止まって息をついた。
「ここまで、くれば、もう、へいき、だろ」
息をきらせながらも、アレフの気分は最高だ。
だって、今まで五度も脱走をこころみたのに、成功したのは今日をあわせて三回、そのうち一回は、途中で先生に見つかって連れもどされるという、あまりに悲しい結末をむかえていた。
「レニの奴、かわいそうだったな」
残念そうにクランバルが言う。
「あれじゃどうやっても助けられない。こうなったらあいつの分までがんばって遊ぶべきだ」
「お前はひどいやつだ」
勝気に笑うアレフとクランバル。
二人は顔を見合わせてひとしきり意地悪く笑い、そしてまた歩きだした。
どちらの顔にもうかぶ強い興奮は、何も学校をうまくぬけだせただけが理由ではない。
一角馬山のふもとの奥の滝で、滝つぼのヌシを見つけたのだ。
魚影からして
山岳師のウィージェが昔釣り上げたっていう、大人の腰まである黒斑よりもだんぜんでっかいにちがいない。
だって舟の上からちょっとだけしか見えなかったけどこんなに、アレフが両腕を広げたよりもぜんっぜんでかかった。
そんなの、釣り上げなきゃだめだ。
男の子の義務だろ。
学校が終わるまでなんてまってられない。
早くしないと、川むこうのやつらに先に釣られてしまうかもしれない。
アレフたちがあのヌシを見つけたとき、対岸にカリガルたちがいた。
抜け目のないあいつの事だ、あのときに見えたヌシの姿を見のがすはずがない。
手をこまねいていたら、必ず先を越されてしまうだろう。
はやる心に背中をおされて、気づけば二人とも早足だ。
大きな川沿いの森に分け入り、野生の鉤ブドウを見つけてはつまみ食いしつつ、一つ目の滝を越えて奥の滝に向かう。
目的地に近づくにしたがい早足は駆け足になり、やがてかけっこになる。
背の高いオオバル杉が広げた枝葉で太陽を遮り、静謐な空気をとどめた木々のあいだを、蔓ハコベをけっとばしながら駆けぬけ、先に奥の滝にたどり着いたのはやはりアレフだ。
クランバルだって足は遅くないがアレフにはかなわない。
そのうちに視界がひらけて、岩肌の高くから流れおちる一条の滝が見えはじめた。
「俺の勝ちだ!」
「くそお!」
顔を見あわせて大笑いし、それから隠しておいた釣り道具を藪の中から引っぱりだす。
「――ないぞ、竿も糸も針も」
「よく探せ。黄色い手ぬぐいがくくりつけてあるからすぐに見つかるはずさ」
「だからこれ!」
クランバルが突きつけてきたのは、釣り具箱にくくりつけてあるはずの手ぬぐいだった。
「これに、くくってあるだろう。ホラ!」
ぐいっとつき出してきたのは、二つの水桶。
「いつ来ても素敵な場所ね。風の運んでくる木々の匂いは爽やか、崖を流れ落ちる滝は勇壮、なんといっても滝つぼが広くて、水面がまるで凪いだ湖のように森を映して、一葉の絵画の如く。いつまで眺めていても飽きないわ」
歌うような声に肩をこわばらせ、二人はおそるおそるそちらにふりかえった。
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