第3話

「はい。では今日、直接大学へ持っていきます」


「はい。よろしくお願いします」


危なかった。マジで危なかった。

俺は、とんでもないミスを犯すところだった。

編入試験の募集要項には、「10月7日消印有効」と記載されている。

この記載を見て、願書は10月7日に投函すればいと思っていた。

だが、その認識は全く誤っていたようだ。

消印有効とは、相手方に郵送物が届いていなくても、切手に消印が付与された日付が期日までであれば、それは有効であると見なされることを意味している。

つまり、たとえ10月8日に郵送物が届いていても、消印の日付が10月7日であれば問題ないということだ。


ただ、俺は何をとち狂ったのか、消印が付与されなければならない10月7日に投函しようとしていた。

もちろん、10月7日に投函したからって、10月7日に消印がつくとは限らない。

というより、こんなギリギリに投函すること自体が馬鹿げている。

「消印有効が今日までじゃない!そんなのポストに入れちゃダメよ!直接持って行きな」と母親が言ってくれなければ、俺は不戦敗というあまりにも惨めな結末を迎えるところだった。


何事も勝敗は、勝負の中だけで決まらない。

気を抜くな!俺。


ギリギリで最悪の事態を免れたのだが、安堵感は全くなかった。

全ての努力が水泡に帰していたかもしれないと思うと、強烈に胃が締め付けられる。

俺はなんとか正気を保ちつつ、願書を携え家を出た。


***


「やべえ、めちゃくちゃ緊張する・・・」


試験開始の2時間前に、俺は会場に到着していた。

願書の一件があったあの日から、俺は慎重過ぎる日々を送っている。

改めて募集要項を確認し、現状の準備に不備がないか幾度となく確認。

手洗いうがいを徹底し、病気を予防。

食事・運動・睡眠の質を高め、健康体を維持。

そして今日は、アクシデントがあってもいいように、2時間前に到着できるよう出発したというわけだ。

やや過剰な気もするが、不戦敗になるよりマシだ。

努力が報われないのも辛いが、努力の成果を試せず終わる方が何倍も辛い。


「・・・少し緊張をほぐすか」


親友に「今から試験。めっちゃ緊張する」とメールした。

すると数分後、「頑張れ!お前ならいける!」と返信があった。

決して中身の濃いやり取りではない。だが、こういうのでいい。

励ましの言葉1つで、人は前を向けることもある。

大学内のコンビニで買ったエナジードリンクを飲み干し、静かに開始時間を待った。


「それでは、テストを始めます」

ついに、俺の努力が試される時が来た。

不安と期待が入り交じる中、俺は用紙を表面に返す。

最初の試験は、英語だ。

カコモンの傾向通り、時事ネタに関する英文がそこにはあった。

試行錯誤の末に立てた対策が間違っていなかったことが確信でき、自信がみなぎってくる。


「・・・よし!いけるぞ!」


穴埋め問題と和訳問題が大方を占めていて、まあ正直わからない問題もあった。

ただ、感覚の話でしかないが、8割くらいは解けた自信はある。

確かな手応えに包まれながら、英語の試験を終えた。


「次は、小論文です。問題用紙と解答用紙を1枚ずつ配ります。解答は全て解答用紙に書いてください」


なんだろう。英語の試験に比べ、緊張感が高まった気がする。

・・・あっ、よく考えたら、小論文を採点されるのは初めてだ。

そう考えると、ほぼぶっつけ本番で臨んでいるような気もしてきて、急に不安が募ってくる。

まあ今さら、過去を悲観しても意味はない。

たとえ数ヶ月前の俺に戻れたとしても、また絶対に1人きりで対策に没頭すると思う。

これは俺の性分なのだ。受け入れるしかない。


「・・・よし。いけそうだ」


問題用紙を表面にすると、食糧問題に関するテーマが記載されていた。

指定文字数は、カコモンで把握していたとおり800字だ。

また、5つほどの単語も記載されており、それを全て使用するよう指示されている。

今まで積み上げてきた知見を思い出しながら、解答用紙に文章を書いた。

すると、試験時間を半分ほど残してあっけなく書き終わってしまった。


「・・・?なんか思った以上に早く終わったな」


嫌な予感がする。

物事は、上手くいっている時が一番危ない。

何かを見落としている気がする。だけど、それが何かはわからない。

まあただ、根拠が無い不安に構っている暇はない。冷静に見直そう。

書いた文章を数分ほど眺めた俺は、さすがにやることが無くなり、解答用紙を裏返した。


「!!!!!」


俺は、絶句した。

解答用紙の裏に、びっしりとマス目があったのだ。

そのマス目の数、400。

つまり、表の400と裏の400、合わせて800字書けるようになっていたのだ。

なぜ?なぜ気づけなかった?

俺は現状400字程度の文章しか書いていないわけだが、なぜそこで違和感を覚えなかったのだろう?

俺は6ヶ月もの時間をかけて、800字程度の小論文を書く練習を積み重ねてきた。

ゆえに、800字という文字数は身体に染み付いていたはずだ。

にもかかわらず、なぜか400字書いた時点で終わりと思ってしまった。

つくづく人間の愚かさ、いや、俺の愚かさが嫌になってくる。

当然のことだが、800字程度で書けと指示されているのに、400字程度で終わらせるのは絶対にNGだ。

そんなことをすれば、「コイツ舐めてるわ」と思われ、不合格確定だ。


「残り時間は・・・。まだあるな・・・」


まだ20分ほど時間は残されている。不幸中の幸いだ。

ただ、単に400字追加すればいいわけじゃないので、結構大変だ。

既に文章は完結しているので、まずはこれを破壊しなければならない。

2階建ての家をそのまま完全に活かして、3階建てにすることはできないのだ。

一瞬の躊躇いを挟んだ後に、俺は作り上げた文章の大半を消した。

唯一使えたのは、導入部分くらいだ。

残り19分。

俺のスキルを踏まえると、明らかに時間が足りないように思われる。


だが、ここで俺の執念が活きた。


幾度となく小論文を書いてきた経験が、無意識のレベルで作用し、スラスラと文章を綴っていく。

しっかり頭を働かせているわけではない。いわゆる、身体が覚えてるってやつだ。

最後の句点を書き切ると同時に、「ペンを置いてください」というアナウンスが鳴り響いた。




「・・・」


今の俺に、何かを考える余裕は無い。

「結果が出るまで2時間ほどかかりますので、そのままお待ちください」と言われ、ただただ待ち尽くしている。

時折ネットサーフィンをするが、全く頭に入ってこない。

あと少しで、俺の命運が決まるのだから。

俺はもう、Fランを卒業する未来はまるで描けなくなっていた。

絶対に編入試験を通過し、この大学に入るしか道はないと決めきっていた。

仮に落ちてしまった時の精神状態を想像すると、ゾッとする。

正気を保っていられる自信はない。


「・・・来た」


教室のドアが開く。入ってきた試験官は、大きな紙を1枚持っている。

それを、こなれた手つきで黒板に貼りつけた。

「では、ご自分の番号があるかどうかを確認してください」

俺は、一目散に駆け寄った。

ドラマのように間を設け、ハラハラしながら確認するみたいな遊びをする余裕はなかった。

とにかく、早くこの不安から逃れたかった。


「俺の番号は・・・」


「!!!!!あった!」


3度見したから間違いない。

俺は合格したのだ。


その後、軽い説明を受けた俺は帰路に着いた。


「そうだ、まずはアイツに報告しないと」


「“俺、大学受かったよ!”っと」


ものの数秒で、返信がくる。

「マジでおめでとう!俺は明日の午前には合否わかるから、また連絡するわ」と書かれており、嬉しさと期待と不安を同時に感じた。


「頼む!受かっててくれよ」


こんなにも、他人の幸せを願ったのは初めてのことだ。

心の底から、合格していてほしいと純粋に思える。

非科学的なものは信じない俺も、この時ばかりは神に祈った。


***


気持ちの良い朝日で目覚めると、親友からメールが来ていることに気づいた。


「“今日飯食いに行こう”か・・・」


おそらく、合否はもう出ているに違いない。だけど、その件にわざと触れていないのだ。


「・・・まさか」


励ましのバリエーションをいくつも考えながら、指定されたレストランへと向かった。




「よう!」


「・・・よう。・・・腹減ったな。なんか注文しようぜ」


「そ、そうだな」


今のやり取りで、俺は全てを察した。


「・・・大学、落ちちゃったのか?」


「実は・・・。受かった!よっしゃあ!」


は?受かったのか?じゃあ、さっきまでのテンションはなんだったんだ。


「いやいや、よっしゃあ!じゃなくてさ。てっきり、落ちたと思ったよ俺」


「うん。そう思わせる演技した!なんかドッキリにかけたくなってな!」


「演技だったのかよ!マジで騙されたわ!」


「悪い悪い。まあお前も受かったことだし、なんか少しくらい不謹慎なことしてもいいような気がしてさ」


「よくないだろ!・・・いや、これくらいならいいか」


「そうだろ!じゃあ2人の合格祝いといこうか!」


「ああ!そうだな!・・・あっ、まだ言ってなかったな。合格おめでとう!」


***


俺はこの経験から、3つのことを学んだ。

1つ目が、原動力は下品でもいいこと。

世の中には、上品な理由だけで頑張れる聖人もいる。

だけど、大半はそうじゃない。

誰にも言いたくない下品な原動力が、心の奥底に渦巻いているのが普通だ。

でも、そういう原動力で動いても、結果まで下品になるとは限らない。

生み出される結果が前向きなものであれば、下心があったって別にいい。

むしろ俺は、キレイな理由だけで活動している人間は信用できない。


2つ目が、本気を出せば誰でも道は切り拓けること。

受験対策のやり方がわからない。就活のやり方がわからない。副業のやり方がわからない。

こんなものは、全て甘えだ。

やり方なんて、大抵はネットに書いてある。

ネットに書いてなければ、知っていそうな人に聞けばいい。

自分の頭で、試行錯誤すればいい。

本気で取り組めば、大抵の物事は進歩させられるはずだ。

つまり言ってしまえば、「わからない」のではなく「やりたくない」というのが正確な表現なんだと思う。

「やりたくない」と言うとなんだか情けなく映るから、わからない振りをして、少しでも外面を良くしているに過ぎない。

まあやりたくないんだったら、やらなくていいと思う。

これは皮肉じゃない。マジな話だ。

俺だってやりたくないことは、すぐに投げ出してしまう。

一時期、公認会計士の勉強をしていたこともあるが、すぐにやめた。

理由は、単調な日々を許容できるほど、公認会計士への想いは熱くなかったからだ。

どんな物事も、始めるのは簡単だ。

新しいものには新鮮さがあるからな、楽しいんだよ。

だけど、続けていくうちに現実と直面する。

単調な日々が延々と続くという現実に。

そして、大抵はそこで投げ出すのだ。

ただ、本当に自分がやりたいことであれば、何度壁にぶつかっても、地味な時間がずっと続いても、淡々と続けられる。

だから、「わからない」なんて理由で投げ出しそうになったら、もう投げ出しちゃっていいと思う。

もし投げ出すことが許されない環境にいるのであれば、手を抜いて、ほどほどの努力で誤魔化せばいい。


そして3つ目が、俺はいろんな人に支えられて生きていること。

受験対策そのものは1人でやり切ったが、それは支えがあったからできたことだ。

親の資金力と気遣いがあったから、俺は勉強に没頭できた。

境遇を共にする親友がいたから、苦しい時も踏ん張れた。

当たり前のように周りにあるものは、決して粗末に扱ってはならない。

それは、この上なく感謝するべき対象なのだ。

以上の学びが、今の俺の強さに繋がっている。


打ちのめされてもいい。卑屈になってもいい。

むしろ、一回ちゃんと深いところまで落ちきるべきだ。

俺は魔界の底に落ちた人間だからわかる。

あの頃の原動力を再現できる日は、あと人生で1回あるかないかだ。

それくらい、落ち切るのは案外難しい。

まあ辛い時間も多かったから、俺はもうあの原動力を欲しいとは思わないけど・・・。


「今日暇?飯食いに行こうぜ」


おそらく一生涯付き合うであろう人間を、飯に誘った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

卑屈に塗れたあの日々 TK @tk20220924

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る