グラスの中の想い
カラン、と店の扉に取り付けられたベルが音を奏でた。
「いらっしゃいませ」
変ることの無い言葉で、バーカウンターの内側から店を訪れたお客様を迎える。
雑居ビルの一角のカウンター席があるだけの狭い店内には、今訪れたばかりの彼女以外にお客様は誰もいない。
「マスター、いつもの……」
カウンター席に腰掛けた彼女はメニューを見るでもなく、私に言葉を投げた。
私はグレンフィディックを棚から引き出す。
冷凍庫から製氷皿を取り出して、氷を一つ。そして更に別の製氷皿からも氷をグラスに入れ、半分ほどの量のグレンフィディックを注ぐ。
目の前に差し出したそれを受け取って、彼女は唇を湿らせる程度に口付け、
「ま“だフラれだあ”あ“あ”!」
開口一番にカウンターテーブルに突っ伏した。
「またですか、サナエさん」
「またって何よ。って、そんな事より聞いてよマスター!」
私の言葉に唇を尖らせる彼女、サナエさんはこの店の常連だ。
普段はスーツを着こなし、キャリアウーマン然とした振る舞いで週末にはカクテルを飲んで帰っていくのだけれど、プライベートで何かあればこうしてうちの店でウイスキーを飲んではこうして私に愚痴を溢している。
聞けばどうやらまた彼女にフラれたらしい。
結構モテるらしい彼女は、良く誰かと付き合ってはしばらくすると別れてやけ酒を飲んで帰っていく。
毎回話を聞く限りでは、相手の浮気が原因の様で、どうやら相手に恵まれないようだ。
これでもう8回目になるだろうか。
普段の出来る女といった面影は全く無いその姿のギャップに苦笑する。
もっとも、そこが可愛いとも思えるのだけれど。
「サナエさんの事ですから、どうせまたすぐに新しい相手でも見つけるんじゃないの」
「……何かある度に愚痴を言いに来る私も私だけど、マスターも毎度私に厳しいわよね。でも、ここのお酒は美味しいから許す」
「あら、この美人のマスターは褒めてくれないの?」
「あー、マスターはびじんですてき」
「まったく心の籠ってない誉め言葉をありがとう」
そんなとりとめもない会話を繰り返し、少し顔がすっきりした頃、彼女が席を立つ。
「そろそろ帰るわ。マスターにはいつも迷惑をかけるわね」
「私は好きで聞いているだけだもの。気にすること無いわ」
「……ほんと、マスターっていい女よね」
呟くように店を後にした彼女を見送り、私は残されたグラスを手に取る。
そこに残ったハート形の氷が一つ、カラリと小さく音を発てた。
END
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