とある私立探偵事務所での一幕

来国アカン子

ドラマのようにはいかないもので

 探偵などというものは、その実、ドラマや映画の中で描かれている派手さの欠片もないような、地味で退屈で刺激のない職業である。

 そんな事実は、おそらく夢見がちな子供以外であれば、誰でも知っていることだろう。事件を追ったりその過程で推理力が求められたりするのは警察であって、探偵は細々と、詐欺師のような笑顔でをして、経営に頭を悩ませて、至極面倒な依頼人に対して親身になっている演技をしなければならない。そうして手にする仕事といえば浮気調査が精々で、それも調査などするまでもなくクロである場合が圧倒的に多かったりする。大体六割から八割程度だろうか。中には弁護士という社会的地位を得ていながら、大学生に手を出した挙句口止め料を渡してくるような、そういった倫理観の欠如した男もいる。

 当然、ペット探しを依頼されることも多い。犬や猫であればまだ良いが、中には蛇だとかカメレオンだとか、以前には水槽の掃除中にいなくなった亀を探してくれと事務所を訪ねてきた者もいた。ペット探し専門の探偵などというものも存在しているらしいが、世の中、自分の飼育している動物の監視すら真面にできない人間というのは、案外多いものだ。

 私も平時にはペットの捜索依頼をこなすことでなんとか生活を続けている身だが、犬も猫も嫌いだし、爬虫類に至っては目にするのも避けたいという程の動物嫌いだ。いや、こんな仕事をしているから嫌いになったのかもしれない。学生時代、実家ではタロ丸という名の雑種犬を飼っていたし、意中の相手に良い格好を見せようと近所の野良猫を抱いたりもしていた。しかし、仕事で接するのはあちらへこちらへと落ち着きなく動き回る馬鹿なやつらばかりで、今では街中でリードに繋がれて散歩に繰り出している犬と擦れ違うだけでも気分が落ちてしまうまでになった。


 突然だが、ホークアイという言葉がある。パワーストーンのことでも、アベンジャーズのメンバーのことでもない。鷹は非常に視力に優れていると言われていることから全てを見通すというような意味を持つこの言葉だが、仮にも探偵に憧れ、その職に就いている人間であれば、一度くらいは高い推理力で事件を解決して、二つ名のようにこの言葉を勲章として受け取りたいと思ったことはあるだろう。

 さて、それでは、ペット探し、特に多い猫探しばかりをしていると、一体どのようなを得られるのか。

 答えはキャッツアイである。そう、近所の主婦達の間での、私の呼び名だ。

 誤解の無いよう言っておくが、私は男だし、全身をレオタードで包んでいる訳でもない。もしも青とか紫とか橙とかのレオタードに身を包んだ男がいたら、私はまず真っ先に警察に通報をする。そいつは明らかに変質者を超えた性犯罪者だからだ。いくら探偵と警察が犬猿の仲とはいえ、態々目を付けられるような行動をする理由も意味もない。レオタードは男が着るものではなく、男が着せるものなのだから。

 さて、そんなミスター・キャッツアイこと私だが、先日、漸くペット探し以外の依頼が舞い込んできたと助手に聞き、今はソファに座って依頼人が現れるのを待っている。助手といっても稼ぎの少ないこの事務所では暇な大学生のバイトを雇うのが精々で、掃除や書類整理、それと電話番を任せているだけなのだが。

 今回の依頼は、助手が電話で聞いた限りでは、ありきたりな浮気調査になると思われた。とある自営業の男、依頼人の夫の行動がこの二か月程どうにも怪しく、監視してほしいのだ、という。もう少し、こう、劇場版と銘打てるような依頼に出会いたいものだが、やはり現実が小説よりも奇妙であることなどそうは無い。

 と、錆付いた扉が軋みながら開き、買い物帰りの助手が現れる。酒が飲める年齢になったばかりの、豊満な胸と丸っこい目が特徴的な、可愛らしい女性だ。

 探偵など、様々な作品の中で見られるような、劇的な事件など起こらないものだ。と、先程私はそう述べたが、そんな平坦な探偵生活の中にも、一つの変化はあった。中年の探偵とうら若き乙女という組み合わせは中々に画になるもので、事実、歳の差こそあれ、私と彼女は男女の関係に発展するに至ったのだ。未だ子供もいないこの身に舞い込んだ小さな幸福、というやつだろうか。彼女との時間は、まるで失った青春を取り戻しているかのような、ともすれば海辺を二人で走り回りたくなるような、なくてはならないものへとなっていた。

 いくつかの問題はあれど、私は彼女を生涯の伴侶にしたいと思っているし、彼女もどうやらそれを望んでくれているらしい。探偵などをしていると、人の心の穢れた部分を見て陰鬱な気分になることも少なくないが、中でもやはり浮気というのはいけない。結婚前と後で相手の態度が変わるなどというのは乱れた貞操の言い訳にはなりえないというのに、思っていたのと違っただとか、満足できないだとか、相手の愛を無償のものだと勘違いしている輩のなんと多いことか。しかしそういう場面でも、彼女の存在は、私の心の支えとなってくれていた。

 助手との出会いはそう昔のことではなく、ほんの二か月程遡るだけで良い。同棲中の恋人と喧嘩をして家に帰り辛そうにしていた彼女の前を偶然私が通りかかり、一夜の宿としてこの事務所を貸したことがきっかけだった。人懐っこい彼女は歳の離れた私との会話を楽しんでくれたようで、丁度バイトも辞めたばかりだからと事務所に住み込むことになり、そうして今に至るのだが、中々どうして私にぞっこんな様子で、いつこちらから結婚の話を切り出してきてくれるのかと内心待ちわびているようにも見える。

 そんなふうに愛しい恋人の顔を眺めていると、予定の時刻よりも十数分遅れて、漸く依頼人がやって来たらしい。衝立の向こうで助手が依頼人を連れてきてソファに座らせ、さて、腕利きの探偵を演じてみようかと顔を上げると、そこには見知った女性の顔があった。

 私の妻である。

 成程成程、自営業の夫というのは、どうやら私のことだったらしい。確かに助手との交際を始めてからは家に帰る時間も遅くなり、食事も外で済ませることが多く、鞄や財布、アクセサリーなどのプレゼントを購入しては貯金を減らしてと、いかにもな行動を取ってしまったなと反省する。しかし妻だって、仲の良い主婦の集まりがあるからと夜遅くまで帰らなかったり、学生時代の部活仲間と旅行に行ったり、昔は買いたい物もあまり買えなかったからとブランド品を購入したりしているではないか。だというのに、同じような行動をしただけで夫の浮気を疑うなど、夫婦の信頼関係を壊しかねない早まった判断だと言わざるを得ない。全く、人の愛を無償のものだと心得違いをしている人間のなんと多いことか。

 そういえば、私はあまりそういったセンスが無いのか、プレゼントした物を助手が身に着けているところは、まだ一度も見たことがない。法的には大人とはいえまだ大学生なのだから、男から贈られた品を普段使いするというのは多少なりとも気恥ずかしさを覚えるのが普通なのかもしれない。だが、男としては折角形に残る物を贈ったのだから、是非とも使ってほしいと考えてしまう。いや、これではキャバクラ通いや風俗狂いのサラリーマンと同類に思われてしまいかねない。彼女を幸せにしたいのであれば、自分のこういう部分は改めていかなければなと一つ頷く。

 しかし、浮気調査を依頼しようとしているということは、妻はまだ私の浮気の決定的な証拠は得られていないということだ。この場を切り抜けさえすれば、私は大手を振って助手と健全な愛を育めるだろう。

 だというのに、なんということだろう。あろうことか助手は、私の肩に手を置いて、「まーくんどうしたの?」と若干幼さの残る声で語りかけてきてしまう。いや、この依頼人が私の妻であることなど助手は知らないし、そもそも私が既婚者だということも伝えてはいないのだから、恋人が顔色を悪くしていればこれも当然の反応ではあるのだが。

 妻は徐々に目を吊り上げつつ「まーくん、まーくんねぇ」と呟くように繰り返している。

 万事休すかと思われたが、天啓に導かれたかのように妙案が浮かぶ。そうだ、他人の振りをすれば良いのだ。

 いや、あるいは実際に他人なのではないか。実はこの妻は、私の妻ではないのではないだろうか。妻の夫は、私ではないのではなかろうか。

 そう、お互いがお互いの、他人の空似に踊らされているだけで、実際は今ソファに座って対峙している二人は無関係な赤の他人、という可能性だって無くはない。可能性がゼロでないなら、それはいつか必ず起こりうるのだ。人が空想できる全ての物事が起こりうる現実であるならば、今この場においてこの可能性は現実である、と考えるべきなのではなかろうか。

 だからそんな般若も怯えるような顔で私を睨まないでくれ。助手も私の隣に座って肩を当てて手を握ってこないでくれ。違うんだ。誤解だ。別にそういうアレではないんだ。ほら、一先ず落ち着いて、三人で仲良く話し合おう。私はただ健全な気持ちで交際していたのであって、いや別に交際はしていないんだけど、あ、いや、違うんだりさちー、そういう意味で言ったんじゃないんだ、ほんと、そうじゃなくて、ほら、二人共鈴木雅之が好きだっただろう。だからそう、これはちょっとしたジョークというか、あるだろう?そういうの………


 さて、現実では、探偵が裁判所の世話になることも、別段珍しい光景ではない。三人に一人は浮気をしている、若しくはその経験者だというのだから、それも不思議はないだろう。

 しかし、ああ、あの時の弁護士の顔といったら。見覚えのある彼は、まるで子供が趣味の悪い海外アニメを見て笑いを堪えているような、思わず殴りかかりたくなるような表情をしていた。君も以前、私が依頼で調査をした時、女子大学生をラブホテルに連れ込んでいたじゃないか。そう暴露してしまいそうになったが、袖の下を掴まれたような気がして、私はそのまま事務所を後にする他になかった。

 そして今、私はこう思うのだ。

 ネコ探しは程々にすべきだったのだ、と。


 そういえば、後日あの弁護士に聞いたところ、助手はどうやら、結婚詐欺で逮捕されたらしい。私が贈った品々は、どれも二束三文で売られていたという。出会った時に聞いた、同棲中の恋人と喧嘩をしたという話も、結婚詐欺が発覚して逃げていたということらしかった。彼女は大学生ではなく、童顔なだけで、実際は私と似たような年齢だった。

 そして確信する。やはり私には、妻しかいないのだと。自分の帰りを待ってくれる女性がいるというのは、何よりも喜ばしいことなのだ。今回の件で、それを再確認することができた。ホームズの隣にワトソンがいるように、私の隣には妻が必要なのだ。つまらない言い争いをすることもあるだろうが、やはり私の生涯の伴侶は、愛する妻だったのだ。漸く妻との間に愛の成果が出来たとも聞いたし、これからは家族三人で幸せを謳歌していきたいと思う。

 ところで、見間違いであれば問題ないのだが、先日、まだ離婚調停は済んでいないし、それ以前に私は離婚を認めていないというのに、妻が普段とは違う少し派手な服装で、ホテル街へと消えていく姿を見た。あれは確か、前に友達と飲みに行くと予定を入れていた日だったと思う。近くにあの弁護士の背中もあったように思えるのだが、腕の良い探偵でも探し出して、浮気調査を依頼するべきだろうか。

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