第3話 豹変
「だから、死んでね」
十字架を掲げた美少年、ハンス・シュタールにとってそれはいつもどおりの光景だった。
愚かな人間たちを誘い込み、絵を介した催眠術でまるまる
人間たちを集めるためには毎度変装と演技が必要だが、すでに何年も繰り返してきた工程だ。
今更、緊張も罪悪感もなかったし、実際今回もうまくいっていた。
(いくら簡易的なものとはいえ、僕の催眠術に抗える奴がこの時代にいるとは思わなかったなあ。て言っても体の自由はあまり効いてないみたいだし、とっとと終わらせよ)
握った十字架、それに内蔵された機構を作動させる。人間の認識速度を超えて明滅する特殊な光情報を利用した催眠術を、引きつった顔で立ち尽くしている荒谷に叩き込む。
絵を使った術はあくまで簡易版。幼少期から愛用している十字架の機構を使うのは正真正銘、ハンスが本気になった時だけだった。
過去、この術に抗えた人間はおらず、これからもいないはずだった。
ごぎゃっという薄気味悪い音が、唐突に響くまでは。
「…は?」
目の前に、変な方向に曲がった手首が映り込む。こんなグロテスクになる技は、ハンスが使ったものじゃない。
ハンスの好みは、もっと優雅でスマートな…。
じゃあ、誰が?
「う゛わああああああああ⁉」
ようやく事態を把握した脳が、急激な痛覚を持ってハンスに危険信号を送り出す。
「…脅威判定を更新」
ハンスのものではない冷徹な声は、不自然なまでに抑揚を欠いていた。声の主は、尋常ならざる怪力でハンスからもぎ取った十字架を地面に落とした。
「外界からの意識干渉を確認。レベルDを突破」
瞬間、ハンスの体は鼻血を撒き散らしながら吹き飛んでいた。
「迎撃開始」
ハンスがかろうじて認識できたのは、抵抗はおろか体を動かすことさえできないはずの荒谷が、自分の頬を殴りつけたということだけだった。
(な、何が起きた? いや、原因はどうでもいい!)
吹き飛ばされた勢いを利用して、ボルダリングジムの床を転がり、
混乱する思考を、理性でもって無理矢理に抑えつける。
(まずは殺す! 絶対に殺す! その後でじっくり解剖して、原因を突き止めてやればいいだけだ)
壁際まで転がると、ハンスは俊敏な動きで立ち上がり、荒谷を睨みつける。
理性でも抑え切れなかった激情でこめかみが沸騰したように熱く、頬の痛みとも相まって一旦は落ち着いた思考もぐちゃぐちゃになっていた。
対して、人が変わったように動き始めた荒谷はなんの感情も抱いていないようだった。
先程までの恐怖も、忘れてしまったかのように佇んでいる。
日本人にしては色素が薄めで、赤茶けた色にも見える瞳はまばたきすらしていなかった。
「死ねえええっ‼」
美貌を歪めながらハンスが乱暴に取り出したのは、小さな拳銃だった。
上下二連の連装銃。俗にデリンジャーと呼ばれる、護身用の小型拳銃を手慣れた様子で構えたハンスは躊躇なく引き金を立て続けに引いた。
狙いは2つともみぞおち付近。いくら興奮状態であっても、ハンスはゲームなんかのように頭を狙ったりするリスクを負わなかった。
あっけないくらいに軽い発射音とともに吐き出された銃弾は、当然、立ち尽くしたままの荒谷に直撃する。
「…は、ははっ」
その事実に、ハンスの口からは思わずため息交じりの笑いがこぼれた。
が、銃弾が当たったにもかかわらず変わらない無表情で立ったままの荒谷に、一度緩んだ表情が震え始める。
「な、なんだんだお前は!」
たまらず叫んだハンスに向かって、荒谷は一歩踏み込んだ。
ポトリと、歩みに合わせて小さな弾丸が床に落ちる。荒谷が着ているジャージには煤けた穴が空いていたが、その下から見える肌にはなんの傷跡も残っていなかった。
「たかがニンゲン風情が! 生身の貴様らが耐えられるわけがなっ、」
「”金剛”」
つぶやくような言葉とともに、踏み込んでいた足が床を蹴り飛ばす。
ボルダリングをしている利用者がもし落ちてきても怪我をしないようにと、柔らかい素材でできているジムの床が荒谷の異常な勢いの突進に弾け飛ぶ。
一瞬でハンスの目の前にまで近づいた荒谷は左肩を見せつけるように体を捻り、右腕を引き絞る。手刀の形を作っている右手の先はいつの間にか、黄金色の光をまとっていた。
さらに、荒谷の踏み込んだ左足がハンスの右足を容赦なく踏みつけた。
「えっ?、あぐっ!」
音速にも迫る勢いで接近してきた荒谷をハンスが認識できたのは、骨が砕けるほどの強さで足を踏みつけられた後だった。
(ま、まずっ…)
ハンスが咄嗟にのけぞるよりも格段に早く繰り出された手刀は、なんの抵抗も見せずにハンスの首を貫通していた。
裂かれた気管から血液と一緒に溢れ出した空気が、ゴポッという気持ちの悪い音を立てる。
首を貫いた直後、半瞬遅れて手刀を覆っていた黄金色の光がオーロラのように広がり、かろうじてつながってたハンスの首を完全に切断した。
死の恐怖と激痛に歪んでもなお輝きを失わない美貌の首が床に転がり、頭を失った身体からは血液が冗談のように高く立ち昇ると、辺り一帯を
原色よりもどこか仄暗い赤色の血をたっぷりと浴びながらたたずむ荒谷は、人形のような無表情を保ったまま、かすかに口角を上げていた。
「ふふっ、予想以上の出来ね」
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