藁半紙

 風が吹けば消し飛ぶような小さな村だ。

 皆葉橋で縮緬川を越え、右手に小串山を仰ぎながら曲がりくねった坂道をのぼる。

 左手にある朽ちかけた鳥居を過ぎ、胡岳隧道をくぐれば最初の民家、南雲家がぽつねんと建っている。

 駐在所がある片根村までは車で一時間以上はかかる。もちろん乗り合いバスなどは通っていない。

 平屋の南雲家から次の民家、牟礼家までは歩いて十分はかかるだろうか。

 牟礼家のまわりは数軒の民家が寄り集まっていて、ここ古間村では最も家々が集まっている一帯だ。

 牟礼家をはじめに、東城家、鹿島家、森家、財前家と四軒が建ち並んでいる。

 他に古間村にはあと三軒があり、小串山に向かう山道の入口に井出家、それぞれの家の畑に囲まれる形で最上家、そして村の深奥部、オシャゴ様の社に寄り掛かるように建っている小屋が柳城家だ。

 たった九軒の家が山間の隙間に、胡麻粒のように蒔かれたような村が古間村だった。

 風が吹けば消し飛ぶような小さな村だ

 そんな村には腥い風が吹いている。

 音はすでにない。

 家々から血腥い臭いが漏れ出て、それが風に乗って村を行き過ぎていく。

 腥い風が揺らしているのは、家々の表札に赤錆びた釘で打ちつけられた藁半紙だ。

 南雲家の表札に打ちつけられた藁半紙には、長介包丁デ春子腹ヲ割ク晋平太春江角材デ、と荒々しい筆致で墨書きされている。

 南雲家の玄関先は渇きかけた血潮で赤黒い。

 牟礼家の表札に打ちつけられた藁半紙には、虎夫熱湯千香子首締メ陽一火付ケ、と墨書きされている。

 牟礼家の座敷からは生木を燃やしているような目に染みる煙が立ち上っている。

 古間村の中心に集まった四軒の表札にもそれぞれ藁半紙が打ちつけられ、目ヲ潰ス油ヲ飲マス鉈デ割ル皮ヲ剥イデ湯ヲカケル膾切リ、などが墨書きされていた。

 すでに音はない。

 ただ血腥い風が夕暮れの村を吹き抜けていく。

 その風が坂をのぼり、夕陽を浴びて、オシャゴ様の社に近づいた頃、ようやくひとつの音がした。

 とぼとぼと坂をのぼる足音だ。

 それはゆっくりと、しかし確実に深奥部にある柳城家に向かっている。

 今にも斃れそうな粗末なつくりの柳城家には表札すらない。今は老母が白濁した目を雨漏りが酷い天井に向けているだけだ。

 老母も血腥い風の臭いは嗅いだようだ。

 歯が一本もなくなった口元がかすかに歪んだ。

 笑ったのか、悲しんだのかは老母自身にも判らなかった。

 足音は血の滴りを残しながら坂を上る。

 もうすぐ日が暮れる。

 村に夜が来る。

 老母は息子の帰りを待っている。

 ひときわ血に満ちた風が吹き抜けた。

 陽は落ち、闇に塗られ、その夜は月もなく、ただ、さらに濃い血の風が村に吹きつけられた。

 村は闇よりも濃い血に塗り固められ、沈黙した。

 そして息子は村を出て、いま、街で藁半紙を握り締めている。

 

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