とらつぐみの聲 後編
体の感覚はほとんど失われているのに、全身に広がっていく凍りつくような冷たさは、心臓の脈拍のたびに強まった。
死が満ちつつあるのか。
そして、近くでとらつぐみの鳴き声だ。
まるで僕の死を待ち構えているようだった。
あの日、受話器の向こうから聞こえてきた泣き声とそっくりだ。
あれは、千佐登がいなくなってから五年が過ぎた夏だった。
仕事で両親が不在の家に独りでいた。夏休みだった。
テレビを見たり、母親が作り置いてくれた焼そばを食べたりして過ごしていたら黒電話が鳴った。
留守番電話もあまり普及していない頃だ。留守番の子供が電話に出ることは普通だった。
僕は受話器を持ち上げて、少し緊張しながら、もしもし左藤です、と言った。
大人の声が聞こえてくると身構えていたら、ガラスが割れるような激しい音が聞こえてきた。
そして、ガラスが床に落ちたような、細かくて高い音があとを追う。
いたずら電話だ。
そう思い、受話器を戻そうとしたときだった。
それは聞こえた。
ひぃー、ひぃー、ひぃー。
女の泣き声のようだった。
ぞっとした。
そして思い出した。
これは、幼い頃に、千佐登と行った川辺で聞いたトラツグミの鳴き声だ。
千佐登は鳴き声を聞きながら、奇妙で気持ちが悪い話をしていた。
トラツグミは夜に、寂しい人の魂を宿して鳴く。
そしてトラツグミは名前を変える。
ヌエと。
ヌエは悲しさや寂しさ、怒りが合体した、
怪物なのだ。
受話器の向こうに、様々な表情をした千佐登の、幾つもの顔があるような気がした。
こちらを絡め取りそうな瞳、困ったような眼差し、怒りが満ちた口元、僕の体をひたり、ひたりと撫で回すときの真剣な顔。
切らなきゃ。
受話器から耳を引き剥がそうとしたときだ。
千佐登の声がはっきりと聞こえた。
ずっと一緒だと言ったのに。逃がさな…。
僕は受話器を電話に叩きつけていた。
千佐登とその母親が一家心中に巻き込まれて死亡したと知ったのは翌日のことだった。
地元でも有名な不動産業の男の後妻になっていた千佐登の母親。一時はかなり羽振りが良かったそうだ。
しかし、東京からやってきたコンサルタント会社の男に付けいられ、不動産業はたちまち傾いた。
まだまだ景気が良くて美味しい話が転がっている、と思い違いをしてしまう時代だった。
地方の不動産屋では天地が引っくり返っても返済できない負債を背負い込んだ男は、千佐登とその母親、先妻の子供二人を道連れに無理心中をした。
家中にある刃物で四人を滅多刺しにして、自分は睡眠薬とウイスキーを大量に飲み込んで浴槽に沈んだ。
僕があの電話を受けた時間が、千佐登の死亡推定時刻だった。
僕は長い間、あれは死の間際に千佐登が掛けてきた電話だと思ってきた。
最期まで千佐登は僕に呪いをかけてきた。
解き方も解決法もない呪い。
しかし、それは違ったと今は分かる。
まるで何かに引っ張られたように、千佐登と過ごした川辺に突き落とされ、背骨を折って、死を待つ今は分かる。
トラツグミの声、のようなものを間近に聴く今は分かる。
それはひたり、ひたりと死につつある僕に近づいてくるから。
千佐登は、幼い頃に、ここで、本当に怪物に遭ったのだ。母親が千佐登に話したこともすべて真実だったのだろう。
トラツグミは悲しいや寂しいや怒りが合体した怪物。悲しい人の魂を宿して夜に泣くヌエの怪物。
悲しいは蛇なのだろうか。
寂しいは猿なのだろうか。
怒りは虎か。
泣き声が耳元でした。
川辺の砂利を何かが踏みしだく。
ひたりと、冷たいものが僕の頬を嘗めた。
ひゃー、ひゃーとそれは泣いている。
ひたりひたりと嘗めまわす。
ひゃーひゃーひゃーと、それは、泣いてなんかない。
ひゃーひゃーひゃーひゃーひゃーと、それは嗤っている。
星空が遮られた。
それが僕を覗き込んだ。
幼い千佐登の顔の皮を被った、痩せこけた猿のような、千佐登の母親に似た何か。
長くのびた舌は腐乱した蛇のようだ。
千佐登の皮の奥で光る橙色の眼球は虎に似て獰猛だ。
ひゃーひゃーひゃーひゃーひゃー。
千佐登の顔の皮が近づいてくる。
それの聲が死にかけた僕を満たしていく。
ひゃーひゃーひゃーひゃーひゃー。
千佐登はひとつだけ嘘をついていた。
これは悲しさや寂しさが満ちたい怪物じゃない。
ひゃー。
これは、餓えと悪意だけの化け物だ。
食い荒らされるあいだ、僕はずっと、とらつぐみの聲に満たされた。
血で濡れた骨が月明かりで洗われても、僕はとらつぐみの聲を聴きつづけた。
まだ、聲は聞こえているよ。
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