とらつぐみの聲 中編
わたしのこと好きでしょ。
今も耳朶に染みついている、舌足らずだけれど鋭い声。
千佐登は会うたびにそう言って、真っ直ぐに見つめてきた。
僕が生まれ育った町はまとまな商店もなければ駅も遠く、まわりは残土処理場やスクラップ場ばかりで、砂埃と不法投棄のガラクタが目についた。
まばらに建つ住宅はどれも古く、どこか傷んだ印象でおおむね暗かった。あとは団地と名のついた平屋が渇いた地面に押しつけられるように建ち並んでいた。
千佐登はその平屋のひとつに、母親と二人で暮らしていた。荒れ果てた町並みには不釣り合いな、透き通るような雰囲気をまとった母親と、鋭いのに粘つく眼差しをもった娘。
友達、というかたちではなかった。
ただ家が近いから、年齢が近いから、だから一緒にいることが多かった。幼い頃のひととの繋がりなどはそんなものだろう。
記憶にあるのは幼稚園の年少くらいの出来事だろうか。
千佐登と二人で、どこかの廃屋に忍び込んでいた。一度や二度ではなかったはずだ。
どちらが主導したのか、四十年以上昔のことだから記憶は曖昧だ。
今では、千佐登が誘ってきた印象しかない。
真っ白い手に引かれて薄暗い廃屋に忍び込む。
室内に残された食器を使ってのおままごと。千佐登が母親で、僕はその夫、だった気がする。
埃っぽい廃屋で食事の真似事をして、大人の会話を真似てみて、そして、それは始まる。
わたしのこと好きでしょ。
千佐登は顔をぐっと近づけて、有無を言わせない調子で訊いてくる。
好きとか嫌いとか、そんな感情はなかった。ただ、嫌いなどとはあの空間では言えるはずがなかった。
僕は千佐登が恐かったのだ。
わたしのこと好きでしょ。
僕は頷くしかなかった。
そうすると千佐登はなぜか、一瞬、困ったような顔をして、そして、唇を重ねてくる。
芋虫を唇に押しつけられたような感触。
僕は唇を押しつけられているあいだ、ずっと息を止めていた。
しばらくすると千佐登は唇を離して、そして念ずるように言う。
好きなひとどうしはこういうことをするんだよ。
そして、白い手で僕の体中を撫で回す。
冷たくて、肌にひたりと吸いつく千佐登の手のひら。
首筋にひたり。
肩にひたり。
胸にひたり。
ひたり、ひたり。
腹にひたり。
腰にひたり。
ひたり、ひたり、ひたり。
胯間にひたり。
そこで千佐登は訊いてくる。
目を覗き込んで。
ずっといっしょだよ、にげるなよ。
そんな千佐登が、ある日突然、町から姿を消した。
千佐登と母親が暮らしていた平屋は空き家になった。
別れの挨拶もなかった。
二人がいなくなってからしばらくして、大人たちが言い合っているのを耳にした。
二号さんから奥方さまになったらうちらに挨拶もしなくなるなんてね、いい気なもんだよ。
都合良く本妻さんが消えてしまうんだもんねぇ、どんな手を使ったのやら。
飲み屋で知り合ったヤー公を誑かして攫った、埋めたって誰かが言ってたよ。
あんな顔して怖い怖い。
だから娘もあれなんだよ。
血だよねぇ。
そうして千佐登は僕の前から姿を消した。
そのはずだった。
千佐登のことを忘れかけた頃に、その電話はかかってきた。
とらつぐみの聲 中編終了 後編に続きます
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