とらつぐみの聲 前編

『ぬえ鳥の、片恋づま、朝鳥の、通はす君が…』


 あれは、世界と僕がまだひとつだった頃か。

 何もかもがひとつで、繋がっていて、暖かかった。

 蝉が鳴いていた。

 真っ赤な夕陽が小川に溶けていた。

 お家に帰らなくちゃ。

 それなのに、それなのに、真っ白い手が、僕を掴んで離さなかった。

 いつか、いつか、いつかね、一緒に…。

 それで、あぁ、夕方は流れ去り、見つめてくる幼い瞳、でも、僕は、僕は、夜が来てしまう。

 小川に溶けた夕陽が流される。

 夜が来ると、


 ヌエの聲が聞こえるんだ。


 夜が深まっていく。

 少しずつ、自分から命が抜け出ていくのが分かる。

 首も動かせず、視界を埋めた空には星が瞬きはじめた。

 一瞬の油断だった。

 仕事帰り、駅からいつものように自転車に乗って家路についた。

 駅から離れればすぐに畑や雑木林ばかりになる。夜道には街灯も少ない。

 慣れた家路で油断があった。

 家まであと五分。

 帷子川に架かった石橋に乗り入れようとしたときだった。

 激しい衝撃と急転する視界。

 そして背中を貫いた激痛。

 気がついたときには帷子川の川辺に仰向けに倒れていた。

 欄干に衝突したのか、それとも橋に障害物でもあったのか。

 僕は石橋から帷子川に背中から落下していた。

 足が川に浸かっていたが、冷たさも流れも感じられない。

 手足も全く動かなかった。

 動くのは眼球だけ。

 声さえ出ない。

 背骨が折れたのか。

 せめて橋のうえに自転車があれば、見つけた誰かが気がついてくれるかと思ったが、そんな淡い希望はすぐに打ち砕かれた。

 視界の右隅に、かすかに自転車のハンドルが見えた。自転車と一緒に落下したのだ。

 ただ暗闇が立ちこめた夜の川辺に。

 このまま死ぬのか。

 そう思ったとき、まわりの林から鳥の鳴き声が聞こえた。

 高くてか細い、今にも消え入ってしまいそうな声。

 女の泣き声に似ている。

 トラツグミだ。

 鳥の鳴き声なんて、どれも一緒で聞き分けることなんて出来ないのに、なぜトラツグミだと分かったんだろう。

 星がきらめいている。

 夜風が鼻先をくすぐった。

 トラツグミは僕を見てどう思っているのだろう。

 そんな場違いなことを、死が迫っているのに思ってしまう。

 またトラツグミが鳴いた。

 さっきよりも近づいている。

 あの女の人みたいな泣き声はね、トラツグミって鳥の鳴き声なんだよ。

 頭の中に流れたのは、大昔に聞いた少女の声。

 そうか、そうだ、ずっと昔に、ここで、この川辺で僕に教えてくれたのだ。

 またトラツグミが鳴いた。

 お母さんが教えてくれたの、トラツグミはね、ひとりでいるのが寂しいひとの魂が宿ってね、それで夜に鳴くんだって。一緒にいたいひとの近くまで飛んでね、鳴くんだって。

 本当なの?

 お母さんが言ってたんだから本当だよ。ほら、とっても寂しそうでしょう。

 トラツグミの鳴き声。

 すぐ近くだ。

 お母さんもね、夜にね、夢の中でトラツグミになって鳴くんだって。そのときはね、名前が変わるの。

 千佐登ちゃんのお母さんの名前に変わるの?

 違うよ。

 そうだ、あのとき、あの日、千佐登は悲しそうな目で僕に言った。

 ヌエって名前になるんだよ。ヌエはね、淋しさとか悲しさとか、あと怒ってるとかが合体したね、


 怪物なの。


 そうか、ここは、この川辺は、ずっと昔に、僕が千佐登と過ごした場所だ。

 千佐登とはこの川辺で、廃車ばかりの空き地で、あの廃屋でわずかな時間を分け合った。

 すぐ近くでまた泣き声。

 ヌエが、泣いている。

 この泣き声は、ここじゃない何処かでも聴いた。

 あれは、そうだ、千佐登がいなくなってから五年後の夜だった。

 その夜、僕はヌエの聲を聴いた。


 とらつぐみの聲 前編終了 中編に続きます

 

 


 

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