炎天 後編
血の臭いとともに暗闇から、黒い影が襲い掛かってきた。
内臓を震わせて発しているような咆哮。
手をかざしながら合田は後じさる。
街灯の灯りの中に戻ったときだ。それは現れた。
全身の毛を血で濡らした黒猫。猫はまるで合田に食らいつこうとするように、口を大きく開いて暗闇から飛び出してきた。
しかし、弱っているのか勢いはなく、合田の前で失速して、そのまま倒れ込んだ。
その間も黒猫からは荒い息遣いが聞こえていた。
恐る恐る黒猫に近づく。
よく見れば黒猫は首や腹部に深々とした傷を負っていた。首からは黒々とした血が、腹部からはぬめりとした内臓がこぼれ出ていた。
黒猫が飛び出してきた暗闇からも、同じような荒い息遣いが聞こえた。
それも、一つや二つではない。
群れているような気配。
合田は黒猫を見下ろした。
剥き出された目が合田をとらえた。
この目は沸騰しているかのように真っ赤に充血していた。
工場で合田の隣にいた男と同じ目だ。
そう思ったとき、暗闇の中の気配が急にざわめき、沸き立った。
駄目だ!
合田は自転車に飛び乗って勢い良くペダルを漕いだ。唐突に加速して自転車は走り出した。
逃げろ。
がむしゃらに速度を上げようとしたとき、左側の側道から軽自動車が飛び出してきた。
慌ててハンドルを切り、地面に脚を突きながらブレーキを握り締めた。
バランスを崩しかけた合田と、急停車した軽自動車の運転席は衝突寸前だった。
運転手に抗議をしようと目を向けて、合田の体温が急激にあがった。
運転手は若い、もしかしたら学生ぐらいの女性だった。
顔立ちは幼い。
そんな女性が、煮え立ったような真っ赤な目で合田を睨みつけていた。
合田の心や血液が、どっと音を立てながら沸騰しかけた。
怒りなのか恐怖なのかは分からない。
ただ、粘つくほどの熱が全身に詰まっている。
煮え立った目の女性が運転席から出て来ようとしていた。
合田は自身を焼き切りそうな熱に身を震わせながら軽自動車から離れた。
疲れているんだ。
暑さのせいだ。
熱中症は鬱なども引き起こすと聞いたことがある。
これは明日の派遣の仕事はキャンセルにしよう。
意識が朦朧となりながら、合田はアパートを目指した。
どこかで怒鳴り声がしていた。
全身は汗まみれだ。
信号を渡っていたらガラスが割られる音がした。
熱が誰かの手のように張りついてくる。
遠くの歩道を、半裸の男が走り抜けていった。
体の奥から熱せられている。
犬が吠え立てている。自分を爆発させるように吠え立てている。
自分の中で煮え立つ熱で破裂しそうだ。
もうすぐアパートだ。
今夜は眠れるだろうか。
昨日は暑さと、二階の男が立てる騒音でほとんど寝れなかった。
いったい夜中に何をしているのか、真上に住む男は一晩中、ゴトゴトと音を立てる。
大きな音ではないが、睡眠を妨げられるほどにはうるさい。
今夜は寝たい。
こんな悪夢のような世界から離れたい。
アパートの敷地に自転車を停めて、自室に向かう。
その気配を察したのか、二階の部屋の電灯がついた。
合田のなかで何かが沸点に近づく。
糞、糞、糞…。
合田の口から火の粉のように言葉が漏れた。
アパートの敷地にはスーパーの袋に詰められたゴミがいたるところに捨てられていた。生ゴミが腐った臭いが滞留していた。
馬鹿野郎、馬鹿野郎、馬鹿野郎…。
合田に満ち満ちたものが音を立てて沸騰していく。
汗で濡れたポケットに手を突っ込んで鍵を取り出す。
二階から、男の足音が聞こえてきた。
大人しくしてろ、大人しくしてろ…。
解錠してドアをあけると、暗闇の中から外よりも熱い籠もった空気が合田に襲い掛かってきた。
畜生!
合田は大声をあげて鍵を暗闇の中に投げつけた。
それとほぼ同時に、二階から床を踏みつける荒々しい音がした。
すべてが沸騰し、焼け切れた。
合田は獣のように咆哮しながら土足で自室に飛び込み、乱暴に電灯のスイッチを入れながら、手当たり次第に壁を蹴りつけた。
煮えている、煮えている、煮え立っている!
二階から家具を倒したような音がした。
沸騰だ、沸騰だ、沸騰だ!
そのまま台所に突き進み、シンクに放り込んでいた文化包丁を鷲掴みにして外に飛び出した。
包丁を握り締めて二階に向かおうとしたのと、二階から男が金属バットを持って現れたのはほぼ同時だった。
二つの燃え立った目が暗闇の中で衝突した。
合田は絶叫しながら包丁を突きつけ、男は全身から熱を発しながら金属バットを振りかぶった。
その夜、煮え立って焼き切れた肉体たちは、日本中で溢れかえった血を沸騰させた。
炎天。
翌朝、幾万の屍山血河は燃え続けた。
その夜もまた沸騰し、次の夜も、その次の夜も沸騰し、屍山血河は冬が来るまで燃え続けた。
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