炎天 前編
煤けた炉の覗き窓から見えた炎が、まるで吠えるように燃え上がった、ような気がした。
はっきりと見えた訳でない。
最近はどんな職場にいても、暑さのせいで意識は朦朧だ。
今日は福浦工業団地の、富士川機工に派遣されている。わりと涼しい南部市場の冷凍食品の梱包作業や、杉田の野菜加工工場は全く入れなかった。
この酷暑が続く夏では、職場環境が良い派遣先は争奪戦になる。ましてや、合田芳則のような五十歳を過ぎた体力に自信のない中年は只でさえ人気の派遣先にはなかなか潜り込めない。
当たり前だが、どこでも覚えが良くて体力がある若者が欲しい。
だから、合田のようなトウが立った派遣労働者は人気がない、過酷な職場に送り込まれることになる。
合田は遠のきかける意識をなんとか繋ぎ止めながら、煤けた炉と、次々と巡ってくる鉄製のフックをぼんやりと眺めた。
合田が派遣された職場は、燃え盛る炎を抱えた炉を前にして、頭上に張り巡らされたレールにぶら下がった、次々と巡ってくるフックに、重くて油で滑る鉄棒を掛ける過酷なところだった。
何のためにこんなことをしているのか、合田にはさっぱり分からない。まともな説明もない。両隣には合田と同じくらいの世代の、同じような顔立ちをした男たちが、同じ仕事を続けていた。
目の前には鉄製の巨大なカゴ車があり、黒光りした鉄棒が満載されている。
そこから十キロ以上はある鉄棒を抜き出して、ブックにかける。
カゴ車の鉄棒がなくなったら、表情がない青年がやけに忙しなく新しいカゴ車を牽いてきて、また同じことの繰り返しだ。
これを午前九時から午後六時まで続けて、日給は一万二千円。交通費や昼飯代、そして、社会保険料と所得税をのちに天引きされたら日給は八千円ほどになってしまう。
額から流れ落ちた汗が合田の目に入った。
咄嗟に右手で拭おうとしたら、鉄棒を掛けようとしていた右隣の男の左手にぶつかってしまった。
男の手から鉄棒が落ちて、刺々しい音を立てて床に落ちた。
合田はふらつきながら、すまん、と頭を下げて男を見た。
鉄棒を落とした男は、真っ赤に充血した目で合田を睨んでいた。
合田は、男のあまりの形相に怯んでしまった。
まるで獣のように男は合田を睨んでいる。
殴られる。
咄嗟に合田は思い、身構えた。
そのとき、炉の近くの操作盤にいた社員が面倒くさそうに近づいてきた。
「おい、鉄棒を曲げたり傷つけたりしたら日給から差っ引くからな。ボケッとしてんなよ」
合田を睨みつけてきた男は、真っ赤な目をばちりと瞬かせると、はっと息を吐いて鉄棒を拾いあげてフックに掛けた。
「すまん、悪かったな」
合田は再び男に謝罪したが、まるで反応はなかった。
また、炉の中で炎が吠えたような気がした。
周囲の温度が濃度を増しながら上昇する。
右隣の男が低く呻った。
左隣の男は苛立たしげに舌打ちをした。
合田も、全身を包み込んだ汗の臭いを吸い込みながら、遠くの壁掛け時計に目を向けた。
まだ、午前十一時。
ブックは途切れることなくやってきて、目の前には黒光りした鉄棒が何十本と積み上げられている。
合田の目も、ジュッと音を立てて赤く充血した。
あたりの人間の中に詰め込まれた血が、じりじりと、沸点に近づいていた。
軋む自転車にへばりついた合田は、力が入らない手足を何とか動かして家路についていた。
シーサイドラインと京浜急行を乗り継いで最寄り駅にたどり着いた合田は、スーパーの駐輪場に停めていた自転車に乗り込んでアパートに向かっていた。
午後七時を過ぎたのにまるで涼しくない。
身体は過酷な労働と暑さのために、遊び尽くされたゴム人形のようだ。
どこにも張りはなく、しかし変に硬直してまともに動かない。
こんな生活、いつまで続けられるのか。
学歴もまともな職歴もない合田には再就職は難しい。特別な技術も知識も身につけて来なかった。誰もやりたがらない過酷な労働に派遣され、酷使されて、使い捨てられる。
畜生。
独りごちたつもりだったが、独り言さえまともに口から出なかった。
体の中はまだ沸騰している感覚がある。
熱中症になったのか。
そんな不安が過ったときだ。
通りかかった小さな公園から異常な声が聞こえてきた。
悲鳴のような、怒号のような、獣の鳴き声。
合田は急ブレーキをかけて自転車を停めた。
ベンチや水飲み場がある小さな公園。街灯は届かず、暗闇が落ちている。
そこからけたたましい鳴き声が聞こえた。
喉を破裂させんばかりの、狂暴な鳴き声。
合田は自転車から降りて暗闇に目をこらした。人通りはなく、公園の周囲には合田しかいない。
何がいるんだ。
野生の動物か。
狂暴な鳴き声とともに、何かが地面で暴れているような音もした。
合田は腰を引かせながら公園に近づく。
近くにいくと、鳴き声や暴れる音のほかに、また違った音も聞こえた。
何かが滴ったような、何かを啜るような音。
一歩、公園に近づく。
音が近くなる。
一歩、公園に近づく。
強烈な臭いが鼻を突いた。
音がぴたりと止んだ。
この臭いは、血だ。
そう思ったとき、暗闇から黒い塊が飛び出してきた。
血の臭いが襲い掛かってくる。
合田は手をかざすことしか出来なかった。
前編終了
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