金木犀が香る頃

 もうすぐ午後三時。

 オヤツの時間。

 真っ新なテーブルクロスを整えたあと、彩美は窓の外に目を向けた。

 庭先の金木犀が橙黄色の花を咲かせていた。

 食卓がある洋間も、オヤツの用意をしている台所も金木犀の香りが満ちている。

 彩美はあの子の笑顔を思い浮かべる。

 台所から、焼き上がったクッキーの匂いが流れてきた。

 もうすぐですからね。

 独りごちた彩美は微笑んで台所に向かった。

 食卓がある洋間も、オヤツの用意をしている台所も金木犀の香りが満ちている。

 食卓にキレイに並べられた椅子がコトリと音を立てた。

 慌てないで。

 彩美は笑みを浮かべて心の中でのあの子に言う。

 金木犀が香る頃だ。


 金木犀が香る頃だった。

 いつも通りの、いつもと同じ午後だった。

 あの子は学校から帰ってくると、子供部屋にランドセルを放り投げて遊びに行った。

 近所のたーくんと空き地でウルトラマンごっこをすると、わざわざ教えてくれた。

 お母さん、たーくんまたゼットンをやりたいんだって。僕はジャミラのやつがしたいんだけどね。

 それが、最期に聞いたあの子の声になった。

 彩美はあの子が帰ってくる前に、オヤツの準備を進めていた。

 あの子の好きな手作りのバタークッキーと、冷たいココア。

 テーブルクロスを敷いた食卓にオヤツを並べているときだった。

 あの子よりも一つ年上のたーくんが駆け込んできた。

 みっくんがトラックに潰されちゃった!

 泣きじゃくるたーくんを家に残して彩美は駈け出した。

 もう、五十年も前の、金木犀が香る頃だった。


 金木犀が香る頃だ。

 かつて紫色に輝いていた黒髪は、目も覚めるほどの白髪になった。

 あの子を失って出来た夫婦の溝は埋められず、夫が出て行ったのは五十年近く昔だ。

 彩美の腰は曲がり、体重は、四トントラックに圧殺されたあの子とほとんど変わりがない。

 ひとりぼっちで生きてきた。

 楽しみなどは何もなかった。

 あの日の、あの子の声だけが彩美の心に光りを射した。

 金木犀が香る頃、以外は。

 いつからだったか。

 金木犀が香る頃に、あの子が帰ってくるようになった。

 元気よく戸を開けて、廊下を駈け抜け、食卓の椅子に座る。

 早くクッキーとココア!

 そんな声が聞こえてくる気が、彩美にはしていた。

 だから、金木犀が香る頃、彩美は毎日、オヤツを用意してあの子と過ごす。

 クッキーは焼き上がった。

 コップ半分のお湯にココアを溶かして、そこに直接氷を入れる。

 背後の、食卓の椅子がコトコトと鳴った。

 もう少しですからね、待っててね。

 白内障でほとんど視界がない彩美も、やりなれたこの作業は間違えない。

 五十年、ずっとずっと続けてきたから。

 お盆にクッキーとココアを載せて、彩美は微笑む。

 椅子がガタガタと鳴った。

 金木犀が、噎せ返るほど臭う。

 笑みを浮かべた彩美は、五十年間、気がつかないふりをしてきた。

 金木犀が香る頃、毎日、毎日、かつて幸せを分け合っていた食卓の椅子に、犬と蛇を掛けあわせたような老婆がしがみつき、彩美が来るのを待ち構えているのを。

 金木犀が香る頃。

 彩美が唯一、幸せになれる頃。


 

 

 

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