こんな日くらい

 寝苦しさに痩せた体をよじる。

 垢と汗で汚れた枕から、饐えた臭いが立ち上る。

 部屋には灯りひとつなく、回っているのはいつ壊れてもおかしくない扇風機。

 この夏こそ駄目になる、この夏こそ駄目になる、そう思い続けて何年経っただろう。

 しぶとい奴だ。

 死にきれない奴。

 俺と同じだ。

 寝室にしている洋間にはクーラーはついている。しかし、爪に火を灯すような年金生活だ。最近の物価高騰で電気代も馬鹿にならない。

 それに、いつ死んでも良い身だ。

 体のために金を使う気にはなれなかった。

 それなら、スーパーで美味い酒を買って、寿司でも喰いたい。

 どうせあと十年も生きられないのだ。

 好き勝手にやらせてくれ。

 それにしも、この暑さだ。

 築五十年を超えた鉄筋の団地。引っ越してきたときは、高度成長期の真っ只中、妻とふたり、新しい形の生活を始めるのだと心躍った。

 しかし、妻に先立たれ、友人もおらず、時代遅れの家具や家電に囲まれ、孫はおろか子供たちも寄りつかず、物価高騰と気温上昇で、ここはまるで生きたまま入らされた棺桶だ。

 痩せた全身から汗が噴く。

 こんな日くらいは冷房をつけましょうよ。

 妻の声が聞こえた気がした。

 思わず目を開けてしまう。

 見えるのは闇。ただそれだけ。

 妻の口癖だった。

 こんな日くらい。

 妻にかかると、いつもが、こんな日になった。

 こんな日くらい、牛肉にしましょうよ。

 こんな日くらい、タクシーに乗りましょうよ。

 こんな日くらい、玩具を買ってあげましょうよ。

 こんな日くらい。

 こんな日くらい。

 こんな日くらい、贅沢をしましょうよ。

 何十年も聞かされて、そればかりで、苛立ってしまったこともあった。

 お前はいつもそれだ。

 そう怒鳴ってしまった。

 今思えば、あれが、俺の口癖だったのか。

 お前はいつもそれだ。

 もう、妻の口癖を聞かなくなって八年が過ぎた。

 妻に先立たれた夫は、すぐにあとを追う。

 そんな俗信を信じていたのに、後を追うことも出来ず、だらだらと生きてしまった。

 お前だったら、こんな夜は、なんて言うだろうな。

 寝返りを打つ。

 そこで、懐かしい匂いが鼻をついた。

 まさか、こんな時間に。

 夏の夜によく嗅いだ、火薬の匂い。

 花火だ。

 引っ越してきてから長い間、団地のどこかで誰かが花火をしていた。子供たちで溢れていた時代だ。

 手持ち花火、ネズミ花火、ドラゴン、線香花火。

 夜になると子供たちの歓声が沸き、火薬の匂いが団地に漂った。

 誰も、文句などは言わなかった。

 それが良い時代だったのか、それとも、我慢を強いられていた人がいたのかは分からない。ただ、そんな夜が当たり前だった。

 うちでもよく家族で花火をやった。子供たちははしゃいでいた。それを、妻は楽しそうに眺めていた。

 しかしだ。

 こんな真夜中に花火?

 何より、この団地はもう自分のような老人しか住んでいない。何軒か小学生の子供がいる家族もあるが、このご時世だ。真夜中に花火をしたら、どんな苦情が来るか分からない。

 それとも、部外者が敷地に侵入して、勝手に花火をしているのか。

 汗を吸った布団のうえで、暗闇を睨みながら耳を澄ます。

 人の声ひとつ聞こえない。

 しかし、火薬の匂いははっきりとする。

 まさか、放火か何かか。

 先月、三キロほど離れた織甚住宅で不審火があり、自転車と駐輪場が被害に遭った。犯人はまだ捕まっていない。

 放火は狭い地域で連続する。

 この歳になって燃やされたら堪ったものではない。

 軋む関節に鞭を打って布団から起き出す。

 寝間着のまま玄関から外に出た。

 外は、さらに火薬の匂いが濃かった。

 間違いなく、どこかで花火をしている。

 こんな真夜中に、声をあげることもなく。

 恐る恐る匂いがする方向に向かう。

 暗闇の中に、二つの小さな火の玉が浮かんでいた。

 ちりちりと火花が散っている。

 あれは、


 線香花火。


 二つの線香花火が寄り添うように灯っていた。

 ああ、あれは、あの夜だ。

 初めてこの団地に引っ越してきた夏の日。今はシャッター商店街になってしまった松原商店街の玩具屋で、妻が線香花火を買ってきた。

 こんな日くらい二人で花火をしましょうよ。

 まだ荷解きが出来ていない部屋の前でふたり、寄り添って線香花火をした。

 あの夜に見た妻の横顔は、人生でいちばん美しかった。

 二つの線香花火を見ながら、涙が溢れた。

 会いたい、もう一度、妻に会いたい。

 線香花火がジジッと爆ぜた。

 すぐそこに妻がしゃがみ込んでいて、こちらに微笑みかけていた。


 こんな日くらい、笑ってくださいな。


 精一杯の笑顔で妻に言う。


 お前はいつもそれだ。いつもいつも、ありがとうな。


 線香花火が落ちた。

 すべてが闇に包まれた。

 

 

 

 

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