あのエレベーター 裏
なぜ出来なかったのか。
今も後悔している。
やってしまえば良かった。
やらなかったから、今もこんなものに付きまとわれている。
血だけが洗い流せる。
あの日、受信した声は言っていた。
狐地獄青首膵臓町六丁目七番地一号から送られてきた声。
普段よりも少しズレたところからの受信。
疑ってはみたが、声はいつものもので、私はノートに書き写しながら一語一句聞き逃さないようにしていた。
あれは勤労感謝の日だった。
部屋の外で浮かれた学生たちが騒いでいて、声の一部を聞き逃した。
そして待っていた責め苦。
どこに逃げても耳を塞いでも、転げ回ってもダメだった。声にマッチ針をたくさん詰め込まれた。
それが耳の穴から入り込んで、脳味噌をブスブスと突き刺した。
仕方ない、聞き逃した私が悪いのだ。
もう二度と聞き逃さない。
だから、あの日に受信した声は一語一句間違えずにノートに記録されている。
血だけが洗い流せる。
そのとき、私の全身には天井の穴から現れた砂肝星人の反吐がこびりついていた。
甘いジュースの臭いがする、ぬるぬるとした、痒くなる反吐。
水でなんか洗い流せない。タオルでも無理だ。金鑢でジャリジャリと皮膚を擦ったこともあったけど無理だった。
声に従わなければ何一つ成功しないのがこの世界だ。
だから、あの日、私は声の命令に従ってカツラを被り、女装をして町に出た。
血で洗う。
どこですればいいのかは分かっていた。
住所もちゃんと受信していた。
質屋や喫茶店、寂れた寿司屋が入った雑居ビル。
そのエレベーター。
そこで血で洗う。
私はエレベーターに乗り込み、隅で機会をうかがった。
最初に乗り込んで来た奴の血で洗え。
分かっていた。
それしか乗り越える術はない。
私は待った。
錆びた文化包丁を抱えて、女装をして、エレベーターの隅で。
機会はすぐに訪れた。
エレベーターの扉が開いた。
血の主が乗り込んできた。
こいつの血で砂肝星人の反吐を洗い流すのだ。
すぐに済ませるつもりだった。
そのときだ、今まで受信したことがないところから届いた声。
まだ子供だよ、六歳くらいの子供だよ、そんな血で洗ったらお前は死ぬまで豚熊マンだよ。
あー、ダメだ、ダメだ、よりによって子供なんて、なぜ子供なんだ。豚熊マンになんてなったら、家に入れてもらえなくなる!
私はエレベーターの隅で固まってしまった。
二階。
こいつはどこで降りるんだ。
三階。
扉が開いた。
狐地獄青首膵臓町六丁目七番地一号からの声に従うか、この声を信じるか。
文化包丁を握り締めて身構える。
まだ間に合う。
そのときだ。
また声がした。
一度くらい、正しいことをしなさい。
私は動くことが出来なかった。
血が遠ざかる。
死ぬまで砂肝星人の反吐に苦しめ!
狐地獄青首膵臓町六丁目七番地一号の声。
私は文化包丁を握り締めて振り返った。
扉が閉まる瞬間、血の顔が見えた。
あぁぁ、これで良かったのだな。
そうして私は今日ものたうち回っている。
砂肝星人の反吐が口中に喉の奥に、血管に胃袋に大腸にぱんぱんに詰まっているから。
あれ、狐地獄青首膵臓町六丁目七番地一号からの新しい声だ。
血で洗い流せるぞ。
やっとだ!
住所を受信した私は文化包丁を握り締めて、あのエレベーターに向かった。
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